番外編 夫に猫を被るワケ⑯
「だ、旦那さまがようやく職場に向かわれました…」
祝勝会の翌日の朝のことだ。
アイリシアが猫の被り物を被りながら玄関ホールで脱力すれば、メイリアがなんとも生温い笑顔を浮かべてぽんと肩を叩いてくる。
「シアさまにしては頑張ったんじゃないですか?」
「うう、馬鹿にされている気がします…」
「健闘を褒め称えているだけですよ。しかし、ジルクリフさまの変わりようには呆れたというか…」
「心臓に悪いんです! もうドキドキし過ぎて胸が痛いんですよ。呼吸も途中で忘れちゃって、顔も熱くなりすぎて何処か溶けてしまったんじゃないかって心配で…私、生きてますよね!?」
「あーはいはい、生きてます。いつものお可愛らしいシアさまですよ」
「メイリアさんは結構辛口ですよね」
隣にいて被り物を外してくれたエマが、苦笑している。
被り物がなくなって冷たい風に晒された顔に当たって心地がいい。顔が溶けてなくて本当に良かったと安堵する。
「シアさまは苛めて楽しむものなのよ。それより、お宅の坊っちゃんはアッチが本性なの?」
「ジルクリフさまのあんな姿見たのは初めてですよ。ですから、クライスさまは驚きすぎてさっきから微動だにしません」
エマは玄関ホールで直立不動の執事を示して肩を竦めて見せた。
先程までジルクリフを見送っていたのだが、朝だというのに疲労感が半端ない。
朝に食堂で会ったジルクリフは神々しくその場にいるだけで尊い存在となっていた。ただでさえ昨日のことで恥ずかしいのに、被り物をしていても防げないことにアイリシアは絶望した。
ひとまず逃げ出したが、やはり朝の見送りは新妻として務めたい。
精一杯気力を振り絞って、ジルクリフが出勤するのを玄関ホールで待ち構えていたのだが。
再度現れたジルクリフはいつもの愛想笑いとは全く異なった笑顔でアイリシアの手をとった。
「おはよう、アイリシア。さっきは朝の挨拶もできなかったから嬉しいよ。昨日は大丈夫だったか。中庭で気を失ってしまっただろう?」
「は、あ、おはようございます、旦那さま。昨日は連れて帰ってきてくれてありがとうございました。エマから部屋まで運んでいただいたと聞いていたのに、お礼も遅くなってしまって申し訳ありません。あのあとぐっすり眠りましたので元気ですよ」
「なら、良かった。無理をさせてしまったと心配していたんだ」
眉を下げて心配そうに顔を覗き込んでくるこの男は誰だろう。
まさかジルクリフのそっくりさんだろうか。
本気で中身を疑った。
向けられる眼差しも声の甘さも今までの比較にならないほどで、いっそ凶器だ。アイリシアの精神は容易く殺されてしまうだろう。
慌てて取られていた手を引っ込める。
「だ、旦那さま、お、お仕事に、遅れます…!」
「ああ、そうだな。行ってくるよ。帰ったら昨日の続きをさせてくれるか?」
「昨日の続きっ?!」
昨日と言えば、王宮の中庭での出来事が思い起こされた。ぼんっと顔どころか頭が爆発したかのような熱を感じる。
声が裏返ったが、ジルクリフは気にした様子もなく猫の被り物の頬に口付けると颯爽と愛馬のサバッタンに跨がって出勤していったのだ。
今思い返しても嵐に遭難した小舟に乗っているような心細さだった。
恐れと緊張と不安と…それを上回る羞恥だ。
様々な感情が繊細なアイリシアの心を襲うので悶えてしまう。
「夫婦仲が良くなってよかったんじゃないですか?」
「ですから、心臓が持たないと言ってるんですぅぅっ」
涙目でメイリアに訴えれば、彼女は深々と息を吐く。
「侍女を落とすくらいなら、旦那さまに向けてください。まあ彼はすっかり落ちているでしょうけど…ほんと、自覚のないぶん質が悪いんですから」
「免疫があってもシアさまの魅力は凄まじいですもんね。ジルクリフさまもご覧になったから愛情を隠すこともなくなったんでしょう」
「そうでしょうけど、うちのシアさまは初心者なんだから、もう少し落ち着いてくれてもいいんだけれど…」
「残念ながらジルクリフさまも恋愛に関しては初心者らしいですよ。以前にクライスさまからお聞きしましたから間違いありません」
「あんな百戦錬磨みたいな顔したいい年した男がどうなの、ソレ」
「教育方針を間違えたとクライスさまはおっしゃられてましたけど」
「つまり旦那さまも浮かれに浮かれてあの極甘状態なわけなのね…シアさま、お互い初心者らしいので頑張ってください」
「無理です!」
お互いに気持ちを確かめ合ったのは昨日だ。
受け入れてもらっただけでも一杯一杯なのに、彼が望んでいるのはその先なのだ。
初夜を迎える時は被り物を被っていれば平気だと覚悟を決められたけれど、今はその被り物越しでも命の危機を感じるほどなのだから、口づけもましてや夜の行為など受け入れられるはずもない。
「主人がこんな状態だけれど、一応これ円満な結婚生活なのよね?」
「まあ、幸せそうには見えますね」
メイリアとエマがぼやくような声が聞こえるが、アイリシアは恋愛初心者ならばそれなりの態度で接してほしいと切実に願うばかりだ。
だが続く言葉にびくりと肩を震わせてしまう。
「帰りまでに慣れておかないと報復が怖そうですけどね」
「ジルクリフさまですからね。逃げても逃げてもどこまでも追いかけてきそうですよね」
「旦那さまは優しいです、よ?」
「シアさまはだから騙されやすいって言われるんですよ。あんな一癖も二癖もある男がウラがないわけないじゃないですか」
「そうですね。こちらのお屋敷に来て日の浅い私でもわかるほどですからね。怒らせれば、ネチネチといびるタイプですよ」
小さなアイリシアを助けてくれた王子様はどうやら、物語のように簡単にめでたしめでたしでは終わらせてくれないようだ。
帰ってきたジルクリフに迫られる未来を想像して、うっすらとアイリシアは青くなる。
それでも、これからも二人で過ごせると思うとほんわかと胸が温かくもなる。
胸の前で手を合わせてぎゅっと握りこめば、温かさが馴染んだ気がした。
ジルクリフには早く帰ってきてほしいような、帰ってきてほしくないような。
澄んだ青い空を見上げて、アイリシアは同じ空を見上げているかもしれない夫を思い浮かべるのだった。
妻が猫を被るワケ~近衛騎士隊長の結婚バラッド マルコフ。/久川航璃 @markoh
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