番外編 夫に猫を被るワケ⑮

かさりと地面を踏む音が聞こえた瞬間に、静かに名前を呼ばれた。

ジルクリフの声だと察した瞬間に謝ってしまう。


「アイリシア」

「すみません!」


一歩近づく気配がして思わず鋭い声を上げる。


「黙っていて申し訳ありません! こんな瞳の色の違う娘なんて、気持ち悪いですよね…」


彼はどうやら立ち止まってくれたようだ。下を向いているので、ぽたぽたと涙が落ちていくのがよく見える。

怖くて彼のほうは決して見られない。


ジルクリフの綺麗な顔に、負の感情を見つけてしまえば話すこともできなくなってしまう。

左右で瞳の色の違う子供は前世の罪を背負った呪われた子供だと言われている。

両親はそんな瞳を持った娘を大層不憫がって、謝ってくれた。

そんな瞳に産んでしまってごめんなさいと母には涙ながらに謝られた。


小さい頃のそんな記憶が、自分は呪われた子供なのだと、両親が悔いる存在なのだと知らしめてくる。

弟はそんな悲しむ姉をずっと守って傍にいると誓ってくれたけれど。

本来姉が守るべき弟からすらも守られなければならない存在など、やはりどこか歪で、それは呪いが原因なのだろう。

アイリシアはそうして、呪われ子として生きてきたのだ。


「近づいてもいいか?」


不意に尋ねられた言葉に、拒絶することができない。

だけど近づかれて罵倒されるのも怖い。

これ以上嫌われないところまで嫌われているのに、さらに深く嫌われてしまうかもしれないと思うと、何も言えなくなってしまった。

彼は痺れを切らしたようで大股で近づいてくる。かと思えば武骨な手が、そっと顔に触れるのを感じた。

えっと思う間もなく彼の紫紺色の不思議な瞳を見つめている。月の光を受けたそれは、驚くほど深い色合いをアイリシアに向けていた。

膝まづいているジルクリフは、ぽつりと感嘆したようにつぶやいた。


「綺麗だな」

「え?」

「こんなに綺麗な瞳を隠してたのか」

「え、ええ…?!」


ぼんっと音をたてて、自分の顔が赤くなるのがわかった。恥ずかしくていつものように逃げ出そうすると、腕を掴まれ抱き寄せられた。

すっぽりと彼の大きな体に収まってしまう。彼は大人の男の人で、自分とは全然違う作りなのだと理解した瞬間、羞恥が頂点に達して爆発したように感じた。


「なぜ猫を被ってたんだ?」

「あ、あの、すみません、すみません…放してください!」

「いやだ」


真っ赤になりながら腕の中で悶えるが、彼の腕はびくともしない。


「そもそも放したら逃げるだろう?」


確信したように告げられて、アイリシアは返事ができなかった。その通りだったからだ。

彼の逞しい腕からは決してその願いを聞き入れないという強い意志が感じられた。


「で、なんで猫を被っていたって?」


再度、同じ質問をされる。

アイリシアは渋々だ。話すしかないのだろうが、話したくはない。


「…陛下に言われて…あの、私の目って変わっているでしょう? 陛下にご相談したら、何か隠すほうがいいのではないかと提案されまして…私自身、とても素顔で旦那さまの前に立てませんでしたし……」


ぽつりぽつりと俯きながら話す。

昔から瞳の色が違うので呪われ子だと言われていた。ほとんど両親からで、領民も王妃もそれほど気にはしていなかったが。

ただ、初対面では必ず驚かれる程度には奇異に映るとの自覚はある。

できればジルクリフには左右の瞳の色違いに見慣れてから知ってほしかったことも付け加える。

だが、一番の大きな理由は自分の夫限定で発症する赤面症だ。


「旦那さまを前にするとどうしても、あの、恥ずかしくて…すぐに顔も真っ赤になってしまうので、だから被り物ってすごく落ち着いたんです」

「恥ずかしい?」


なぜだかジルクリフのトーンが下がった。だが顔を上げられないアイリシアは彼がどんな表情になっているのか見ることができない。


「10歳になる頃、王妃さまに誘われて馬術大会の見学をさせていただいて、旦那さまの速駆けを見たんです。私、とても興奮してしまって…それで、馬に触ってみたくなって試合終わりの馬を近くで見ていたら突然、馬が暴れだして―――助けてくれたのが旦那さまでした」


あの日の思い出は、今も記憶の中で輝いている。

立派な体躯の馬が天高く足を持ち上げたかと思えば、アイリシアに向かって振り下ろされたのだ。

悲鳴をあげて思わず身構えた時、黒い影が視界を覆った。

ジルクリフがアイリシアの体を引っ張って抱きしめてくれたのだ。


「それからずっと、あの、お慕いしていました…」

「は?」

「そのご相談をずっと王妃さまと陛下が聞いてくださっていて。縁談まで調えていただいたんですが、もうずっと申し訳なくて…あの本当にご迷惑ばかりかけてすみませんでした。このまま離縁していただいて構いません。短い間でしたが、お世話に―――」

「待て待て待て。誰が誰を好きだって?」

「ええ? 改めて聞かれると、とても恥ずかしいのですが…あの、私、ずっとジルクリフさまが好きで…」

「君が俺を?」


驚愕に彩られた彼の声に、アイリシアはドキドキとする。

羞恥と不安と恐れと。

色々な感情でずっと真っ赤になったまま彼の腕の中に抱きこまれているが、心臓も早鐘のようにどくどくしている。


「ちょっと、顔をあげてくれないか」


そっとジルクリフの手が添えられて顎を持ち上げる。真近くで紫紺の瞳にぶつかった。そこには失望などなかった。

恐れもなく、どこか煌めいた輝きがあるだけだった。


「俺ばかりが君を好きなのだと思っていたんだ。愛しているよ、アイリシア。もちろん、このまま俺の妻でいてくれるだろう?」

「は、はぃ?! あの、私、え、なぜ?」


どういうことだろう。

彼の言葉が理解できない。

つまり、どういうことだ?


「俺が君を好きで、君も俺を好きなら離れる理由はないだろう。恥ずかしいというなら、ずっと目を閉じていればいい。いつでも手を引いてあげるよ」

「え、えっ? ありがとうございます??」


戸惑いながらもアイリシアは言われた通りにぎゅっと目を瞑った。恥ずかしさが臨界点を超えて、とにかくこの場所から離れたかった。

もちろん、彼の腕の中からという意味だ。

だからこそ手を引いてくれるのを待っていたのだが。


ふっと唇に柔らかいものが触れた。


「ん、んふ?」


驚いて目を開けると、ジルクリフの嬉しそうな瞳とぶつかった。

あまりの近さに体を引こうとしたアイリシアの背中を彼の腕がぎゅっと抱きしめている。

あれ、逃げられない。

そう思った時には、少し隙間を開けて離れた唇が、戻ってきた。啄んでは離れ、くっついては軽く食む。


え、本当にどういう状況?!


なんだか背中からぞくぞくとするけれど、体は驚くほど熱い。

おかしな感覚に頭が蕩けそうだ。


「ふぁ…あ、旦那さま…」

「結婚式でも味わえなかったから、もう少し堪能させてくれ」

「あンぅ…ん、も、ダメ」


拒絶の言葉もそのまま飲み込まれて、何度も何度も口づける。それは、アイリシアが羞恥で意識を手放すまで続けられたのだった。

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