番外編 夫に猫を被るワケ⑤
ジルクリフが特別休暇を取ってくれたらしい。おかげで二人で連れ立って街の商業区域にきていた。
家からここまで馬車に揺られ、たった今降りたところだ。
幸せ過ぎて怖い。
昨日はジルクリフが家に帰り着いたのが遅いこともあり、簡単に出かける旨を告げられて不思議に思うだけだったが、今日の朝食の席で改めて休みになったことを告げられ、でかける支度を頼まれたのだ。
メイリアとエマに嬉しさと恥ずかしさを訴えたら、階下にいるであろうジルクリフに憤怒の形相を向けていたが。ようやくか、とか遅いんだよとかつぶやいていたが何のことだろう。
「旦那さま、今日はどちらに向かわれるご予定でしょうか?」
エマが選んでくれた紫色の淡い色の簡素なドレスを揺らして、見上げるように頭を動かした。
「君は行きたいところはあるか?」
「私の、ですか?」
ジルクリフがうなずいてくれたが、思わず考え込んでしまった。猫の頭が左に傾く。
できればこの機会に彼の好きな物や場所が知れたらいい。
「そうですね、旦那さまの行きたいところに連れて行ってほしいです」
「俺が行く店は酒場とかになるから…じゃあ、街中を歩いて気に入った店に入るというのはどうだろう」
「ええ、わかりました」
ジルクリフに促されて店が広がる商業区域の門をくぐった。
くぐりながら、アイリシアの胸はフワフワとしていた。初めての夫とのデートだ。というか、初めてデートをする。
ドキドキする心臓を宥めるのに必死で周りの声などアイリシアには入ってこない。お陰でジルクリフがなんとも言えない表情をしていることにも気がつかない。そもそも猫の被り物の視界は狭いので物理的にも気がつくかどうかは難しいところだが。
「えっ?! なんだ?」
「今日は何かのお祭り?」
「お母さーん、猫の人がいるよ?」
「しっ、見ちゃダメ!」
通りを歩いている人たちが猫の被り物に気が付くとぎょっとして道を開けていく。
静かなざわめきが波のように広がっていくのだが、もちろんアイリシアの頭の中は横に並ぶジルクリフのことで一杯だ。
身長の高いジルクリフの一歩は本来とても大きいはずなのだが、小柄な自分に合わせてゆっくりと横を歩いてくれる。彼の優しさを一つ見つけるたびに、ますます好きになっていくのが自分でもよくわかる。
「王妃殿下のご友人なんだって?」
不意に声をかけられて、アイリシアは我に返った。
「ええ、親しくさせていただいています」
「君は外にほとんどでたことがないと聞いていたんだが…」
「? そうなのですね。まあ、学園にも通っていませんでしたし舞踏会や夜会にも出席したことがございませんからそのように思われているのでしょうか」
外に出ないと思われていたとは意外だった。
幼い頃から同じ年の王妃の遊び相手として王宮にあがっている。始めは父に連れられていたが、もう今は一人で行っている。王妃を守る白銅隊や王宮警護の赤銅隊にも顔なじみの騎士はたくさんいるのだが、そんな噂になっているとは知らなかった。
王妃は今年16歳になる。他国に嫁いでいた先王の年の離れた妹が政変不安で実家に戻ってきた際に連れてきた娘だ。
国王グリナッシュの従妹に当たるが、他国の血を濃く受け継ぎこの国には珍しい黒髪に黒曜の瞳を持つ美少女でもある。
3歳でこの国にきて、母親はすぐに他界してしまい後ろ盾がなくなってしまったため、先王が当時の王太子グリナッシュの婚約者とした。
そうして先王の信認厚いファン=ベルケン公爵の娘、つまりアイリシアだが、同じ年ということもあり、3歳の頃から王妃の遊び相手として王宮に出入りしていた。
王太后や国王と交えて四人でお茶会を開くこともしばしばだ。
思いでに耽っていると、不意にジルクリフが口を開いた。
「明日、君を職場に連れていきたいんだが、予定はあいているか?」
「ええ、予定はないのですが、旦那さまの職場ですか…何か差し入れを持って行ったほうがよろしいですか?」
「気を遣わなくても大丈夫だと思うが」
ジルクリフはとくに気にした様子もないが、夫の職場に挨拶に行くのだからそれなりにアピールしたいところではある。
なんといっても自分はまだまだ小娘と言える年齢しかない。ジルクリフの横に立って恥ずかしくない振るまいを心がけたい。
「ジルクリフ様?」
意気込んでいると、背後から声をかけられた。
年若い女のもので振り返った先には、若草色の華美なドレスに身を包んだ二十歳ほどの女性と、侍女、そのやや後ろに下男が控えている。
煌びやかなドレスは彼女の容姿をさらに大仰に引き立てていた。
金色の巻き毛を揺らし青い瞳を眇めて女性がジルクリフに駆け寄ってくる。
「やはり、ジルクリフ様でしたのね。このような街中で会えるだなんて、奇遇ですわ」
気色ばんだ声と、ねっとりとした視線に彼に好意を寄せているのだと瞬時に察した。派手めな綺麗な人だ。
自分とは違う、女を感じさせる、大人の。
もう少し大人っぽい恰好にしてもらえばよかっただろうか。
自身のドレスに目を向けて、こっそりとため息をついた。
「今日は妻とでかけておりまして」
「つ、ま…? ああ、ご結婚された――っ!!」
内心で狼狽えているとジルクリフは女に向かってはっきりと告げてくれた。横にいる自分にしっかりと視線を向けてくれて微笑みかけてくれる。
一瞬で蒼白になった彼女は言葉も出ないようで、自分の被り物を凝視している。視線がやや上なのは、目をみているからだろうか。
「新婚なもので…これで失礼しますね」
ジルクリフが機嫌のよさそうな声で自然と自分の腰に手をまわし、ゆったりとその場を去る。
「よ、よろしいのですか…?」
妻と言ってくれることも、腰に添えられた手も、刺激が継強すぎてアイリシアはうっかり酸欠になりそうだ。必死に声を絞り出して彼に問いかければなんとも晴れやかな笑顔を向けられた。
殺される!
心臓が止まりそうに感じた。実際、止まったかもしれない。
猫の被り物を被っていても、この威力だ。狭い視界一杯に、ご尊顔が映る。
「ああ、いいんだ。それより、ちょっと露店でも見て回ろうか」
返事をすることもできずに、ジルクリフに促されるまま通りを進む。
このまま、彼のことを考えていれば自分は昇天してしまう。
商業区域の大通りは大きな店舗を構えた店が立ち並んでいるが、一本細い道に入れば露天商たちが店を広げている。
生活雑貨や宝石などのアクセサリー、剣や骨とう品など、売り物も様々だ。
露天商の買い物客に紛れると、ジルクリフはようやく腰から手を離してくれた。
思わずほっと息を吐いてしまう。
すぐに意識を周囲に向ける。視界が狭いのでその分頭を大きく動かさなければならないのだ。ふと目に留まった店にふらふら進もうとするが、すぐに何かに躓いてよろけそうになる。
通りを行く人は猫の頭に驚いて勝手に飛びのいてくれるので人にぶつかることはないが、店先においてある箱などには躓いてしまっているようだ。
下まできちんと見えないのが、この被り物の欠点でもある。
意外に欠点が多いのだ。
おもむろにジルクリフが、アイリシアの手を取った。
「旦那さまっ?!」
思わずひっくり返った声をあげてしまう。ジルクリフは衒いもなく道端を顎で示す。
「危なっかしくて見てられないな。ほら、こっちにこい、そこには水がめがあるから」
「すみません、ありがとうございます」
「たいしたことじゃない。何か欲しいものでもあったか?」
「ええと、あそこのお店はなんですか?」
やや前方の右手の露天商を空いたほうの手で示す。そこには路地の敷物の上に色とりどりのU字型のものがずらりと並べられていた。
「ああ、蹄鉄か。馬の蹄を守るためにつけるものなんだが、幸運のお守りとしても有名だ。色によっていろんな意味があるんだが―――」
「あの、安産祈願とかもありますか?」
アイリシアが聞けば、なぜかジルクリフはぴしりと固まったのだった。
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