番外編 夫に猫を被るワケ③
公爵家の本館の建物の左翼部分の2階に、アイリシアの与えられた部屋はあった。
可愛らしい机と応接セットの並んだ部屋と続いて夫婦の寝室があり、中の扉からでも行き来できるようになっているとのこと。
寝室の反対側の扉は浴室へと続いている。居心地のよい空間になっていた。
部屋へ入ると、見知らぬ侍女が控えていた。エマと名乗った侍女は、これからアイリシア付として世話をしてくれるそうだ。緊張しているのか硬い表情が気になったが、メイリアが案内してソファに座らせてくれたので、会話は自己紹介だけになる。
「シアさま、外しますよ」
ソファに座った途端、メイリアがぼすっと被り物を引っこ抜く。なんの素材かはわからないが、見た目よりもずっとこの被り物は軽いのだ。細い女の腕でも片手で持てるほどの重さしかない。
「お腹すいてません? 旦那さまがお越しになるまで時間はあるので、すこしくらい食べたほうがいいですよ」
メイリアは自分の家からついてきてくれた侍女なので、慣れた様子で質問してくる。一方のエマはすっかり固まっていた。エマにきちんと向き直って、茶色い瞳をまっすぐに見つめる。
「ええと、改めて。アイリシアです。どうか仲良くしてください」
「滅相もございません、奥さま!」
「ここは公爵閣下のお屋敷ですもの。シアと呼んでくださいな」
『奥さま』と呼ばれる人が二人いては、使用人が混乱してしまうだろう。
ほほ笑んだアイリシアに、エマはぼんやりとしたがすぐに我に返ったようだ。
「はい、シアさま!」
「まあた、一瞬で誑し込んで。本当に鮮やかな…」
「どうかした、メイリア?」
「いいえ、なんでもございません。で、食事はどうします? もし最中にお腹が鳴ったら困るのはシアさまですけど」
メイリアが告げた最中という言葉に、ぼんと顔が赤くなる。これからの夜を思うと緊張するが、妻になるためには必然だ。母からも初夜の心得を教えてもらった。
「では、少しなら。あまりお腹はすいていないのだけれど…」
「では、用意してまいります。シアさま、浴室の用意も整っておりますので、食事の準備ができるまでお使いください」
「ありがとう、エマ。じゃあ、メイリアよろしくお願いするわ」
心得たメイリアが浴室へと案内してくれて、エマはそっと部屋を出て行った。
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夫婦の寝室へと通されると、二人の侍女はさっと出て行った。寝室の中央に夫婦のベッドが置かれている。その隅にちょこんと腰かけて、そっと息を吐く。
被り物はきちんと被っている。
これがあれば表情を読まれることはない。けれど、心臓はうるさいくらいに鼓動を打つ。
サイドテーブルのランプの光がぼんやり
「旦那さま…?」
物音がした気がして扉に顔を向けると、寝着姿のジルクリフが立っていた。
立ち上がり近寄ろうとすると、彼は無言で制した。そのままゆっくりと部屋に入るとベッドの近くで立ったままこちらの様子を窺っている自分の傍までやってくる。
シンプルな寝着姿なのに、色気があるってどういうことだろう。
ジルクリフの妖艶な姿にくらくらとしてしまう。
だが、猫の被り物を被っているので熱を帯びた顔は見られていないのだ。本当に被り物に感謝する。
カラッカラの口を何とか動かして、うるさいくらいに音を立てる心臓を宥めながら言葉を紡ぐ。
「ええと、ふつつか者ですが、末永く可愛がってください」
ややうつむきがちにささやくと、ジルクリフが身じろぎしたのがわかった。
「旦那さま…?」
「ああ、こちらこそよろしく…」
「お疲れですか?」
「ああ…いや…、あの、君も疲れただろう?」
「いえ、私は大丈夫です、から」
夫婦の営みは、とにかく夫に合わせることだと母から教えられている。何をどうすればいいのかわからず、体の前で手をもじもじとさせてしまった。ジルクリフが慌てたように自分に夜着をかけてくる。
そのまま、手を引かれてベッドの端に二人で腰かけた。
夕闇を思わせる紫紺の瞳が、ランプの光を受けてきらりと光る。美しい夜空の色に、思わずうっとりと見とれてしまう。
彼の優しい気遣いに、胸がほっこりと温かくなった。
「ありがとうございます」
「え?」
礼を述べれば、ジルクリフの眉が訝しげに寄せられる。アイリシアは夜着を軽くつまんでみせた。
その仕草にようやく感謝の意味を悟ったようだ。
「ああ、いや、大したことじゃない…」
戸惑う表情から、やや申し訳なさそうにジルクリフが告げる。
「すまないが、明日も仕事なんだ。しばらく忙しくて休みがない。家の中は自由にしてくれていい。ああ、一階の奥は両親の部屋があるから、そこ以外ならどこにいてもいいから。案内を誰かに頼んでおこう」
「わかりました」
「じゃあ、おやすみ」
ジルクリフは立ち上がって夫婦の寝室の続き部屋となる彼の自室の扉へと向かう。
「おやすみなさいませ」
やはり今日、彼は疲れていたのだろう。明日も仕事であれば、ゆっくりと休んだほうがいい。それが自分の傍ではないことが少し寂しいけれど、まだ出会ったばかりの少女に頼れないのは仕方ないことだ。大人の男の自尊心を立てることは難しいと、仲良くしている同じ立場の王妃もよく話していたのだから。
彼は振り向きもせず、そのまま寝室を立ち去った。
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