第2話 誘導失敗


 時刻は十一時を回った。予約の患者は全員帰り、静まり返った処置室で羽賀は腕を組みながら清水に問いかける。


「消毒液作った?」


 清水は「しっかり濃い目に」と頷いた。


「診察室の空調は?」


 次なる問いかけには浅野が「稼働してます」と親指を立てた。


「東堂くん、下開さんが来たらすぐに〝1〟の診察室に入ってもらって。地雷踏まなければ穏やかなおばあちゃんだから緊張しないでいいよ」

「は、はい」

「もし、なにか言われたら僕が変わるから遠慮なく呼んでね」


 その時、ちりん、と涼やかな音が聞こえた。玄関の扉に設置された鈴が鳴ったようだ。犬猫を驚かせないように小さめの音のため、普段は処置室まで聞こえないのだが静まり返った院内にはやけに大きく響いた。


「よし、東堂くん。ゴー!」


 いつになく真面目な表情をした羽賀が受付を指差した。薫は頷いて、受付へと向かった。


「あらぁ、新人さんかしら?」


 両手にキャリーを抱えるように持った老女は薫の姿をとらえると、にっこりと微笑む。落ち着いた色合いの服とスカーフを首に巻いている姿は上品な貴婦人を思わせる。


(この人が下開さん?)


 想像していたより、優しそうな老女に薫はぱしぱしと瞬きを繰り返し、すぐさま気を引き締めた。


「お待たせしました。下開様でよろしいですか?」


 ええ、と老女——下開はまた微笑む。まるで木漏れ日のような暖かな笑みだ。亡くなった祖母に似ている、と薫はふと感じた。


「この子が電話で話していた子よ」


 下開は薫に見えやすいようにキャリーを掲げる。プラスチックの扉の向こう側にはほわほわした手のひらサイズの黒い毛玉が動いているのが見えたが、あいにく、扉がグレー色のため猫の顔は分からない。


「生まれたて、ですかね? こんな小さい子、見たことないです」

「そうなの、たぶんね生後一ヶ月も経っていないと思うのよ。それなのに風邪ひいて、かわいそうに……」

「そうですね。羽賀先生が一番の診察室で待っているので、早く診てもらいましょう」


 薫は〝1〟の診察室を指差した。

 しかし、下開は診察室の方向を一瞥するだけで動こうともしない。先ほどと同様、やわらかな笑みを浮かべながら薫の顔を観察する。


「新人さんは何か飼われたりしているの?」


 急な質問に困惑しつつ、薫は答える。


「飼ってはいないけど、交通事故にった猫ちゃんを保護しています」


 すると下開は「まあ!」と頬に手を添えた。


「まだお若いのに優しいわね。その、飼わないの? 野良ちゃんを助けたんでしょう?」

「えっと、まだ悩んでいて、最期まで責任持って飼う自信がないので他に飼い主さんを探した方が猫ちゃんも幸せかなって」

「あらあら、しっかり考えているのね」

「いえ、そんな……。えっと、じゃあ、一番の診察室」


 ——に入ってください。

 そう言う前に下開は「今までわんちゃんとか飼ったことあるの?」と被せてきた。


「いえ、一度も動物は飼ったことなくて」

「これもなにかのご縁よ! その猫、飼ったらどうかしら?」

「……命なので簡単に決めることができなくて。もう少し、いろいろと考えてみたいなと」

「そうよね。こんなに小さくても命なのだもの。あなたのようにしっかり考えてくれる人ならいいんだけどねぇ」


 どうにか診察室に誘導しようと会話の隙を伺うが、下開は喋るのをやめない。自分がいかに保護活動に精をだしているか、助け出した子が新しい家で幸せに生きているか、ペットショップやブリーダーからではなく保護された子を飼うべきだ。延々と語られる内容に薫が唇の端を引きつらせていると、処置室からぱたぱたと足音が聞こえた。


「こんにちは、下開さん。ごめんなさいね、時間指定しちゃって」

「あら、清水さん。いいのよ。風邪ひいているから仕方ないわ」


 清水は下開の元へ行くとさりげない動きでキャリーを預かり、診察室を指差した。


「うんちとれた? 検便に回すから下開さんと猫ちゃんは一番の診察室で待っていてくれる?」

「ええ、これよ」


 下開からナイロン袋を受け取った清水は、すかさず薫に手渡すと「賢司に持っていって」と言う。


「それでね、新人さん。それはご縁だから飼うべきよ」


 まだ会話をしたりないのか下開が話しかけてくるが、処置室の方から「東堂くーん! はやく!」と羽賀が呼ぶ声が聞こえた。

 まあまあ、と下開が頬に手を添える。


「先生はいつもお元気ね」

「元気すぎて困っちゃうわ」


 会話をしながら二人は診察室へと入っていった。

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