第20話 Disbelief ②




「シロ?」

「……」




 何の反応もない。




 だけど目の前にいるこの、かわいいぬいぐるみは……生きている。

 生きたにおいを感じる。こんな精神の奥底にいたのか。

 どんなに表面を探ってもにおいが分からなかったわけだ。


 という感覚で、来た道を振り返る。

 長い長い、それでいて細い赤い糸が、見えなくなるまで遠く伸びている。


 現実の私と繋がっていて――これを無くしたら、絶対に戻れないという確信めいた警鐘を私の魂が鳴らしていた。


 白いもやの向こうに、何かがある。

 人間でいう深層心理。……シロが隠しているもの。ここからは炯眼けいがんの命綱なしだ。この先に、多分ライレンたちが言っていた《大願》にかかわる何かがきっとある。


「お邪魔するよシロ。この先に」

「……ア」


 短く吠える声が、たしかに聞こえた。

 少し開いた口から大量の毛玉が吐き出され、転がるようにシロ自身に巻き付いていく。あっという間に毛玉に包まれ、ざわざわと揺れる収縮を繰り返す。


 おっきい……ってか質量的におかしいんだけど!?

 精神的な世界だからその辺は無視できるの?


 毛玉が形をとる。凶暴な白狼の姿を……!


「があうううううッ!」


 咆哮がそのまま巨大化したように、剥き出しになった四本の牙が私の意識へと迫る。尖った牙が四本……前歯も奥歯ものこらず鋭い、

 っていうか全部牙だ。


 よだれや息がかかる距離で、シロは止まった。


 で噛み付かれたと

 まあ考えるだけ無意味か。だってシロに私を傷付ける気なんてないんだから。


 シロに繋がっている炯眼の赤い糸。それにそっと触れてみる。

 ……やっぱりだ。私に向けるにおいは敵意や害意とかとは無縁みたい。

 せいぜいが私の魂への警告。これ以上進むと大変なことになるからもう進まないでって感じの――でしょ?


 私は狼を見た事がない。

 映像でも、犬とかの口の中を見た記憶はない。

 つまり、これは……シロが見せているシロの記憶。

 シロは犬じゃなくて狼なのか、あるいは狼をよく見ていたってことだ。


「行くなって言ってくれてるんだよね? でも行かなくちゃ。せめてライレンのいた所までは」

「ううううウウウッ……!」


 シロの色が一瞬で複雑に混じり、綿あめを作るみたいにぐるぐる回転する。速度が強まるにつれてシロはほぼ棒状に伸びていき……まさに、変貌といっていい別のものに成っていく。


 足元から螺旋をえがくように藍色の脊椎が巻き付いた。鱗や鎖模様のは上に登っていくにつれて植物を思わせる薄緑へと色彩が移っていく。螺旋が渦まくのを止め、頂点からいくつかに分かれだす。

 二つは腕。木がねじれ重なる双樹の形、両手の先は鮮やかな赤いハサミを纏い呼吸活動に似た開閉を続けていた。

 二つは顔。一方はラッパ状の筒を複数束ねた、血管弁を剥き出しにした形。もう一方はこぶが膨れて張っている頭部。中央にはひげ根のような緑のツタがびっしりと集まり、こちらを写す目は……どんな色ともつかない、昆虫の複眼といった形で、そのおびただしい集合体の――底知れぬ深淵がこちらを覗き込んでいる。


 藍色をしたスカート状の螺旋からは青い木の根が垣間見えていて、絶え間なくのたうち、這い回っているのが分かる。全体の形は……変色した植物の果実にも、あるいは動物の心臓のようにも見えた。

 恐ろしい何かを想像でつくれたとして、ここまで細部を思い描く事はできない。つまりこれはシロの記憶に刻まれて消えないものだ。


 そして理解する。

 

 目の前の……ばけものが、シロの偽りない正体だってことに!







 *  *







「あ、え? シロ……嘘でしょ?」

「……ィ……ァ……ィ……ァ……。……ル……フ……グ……!」


 どこからか音がする。

 あの両手からか、二つの頭のどちらからともとれる。

 それが、私の意識へ直接響いてきた……!


 正直、かなり驚いている。

 眼を背けたくなるような気持ち悪さはあるし、人知を越えた異様だ。

 

 でも、これはシロで……私にこの姿を……見せる意図を感じる。そう思えたことがギリギリで私をショックから踏みとどまらせ、シロの内面からはじき出されなかった幸運と言えるかもしれない。


「……ヌイ、ファグ、ファ……ヌィ、ファア。ヴェルヌィ。ファ、グファ」


 さっきよりも鮮明に聞こえる。呼吸音とかじゃない。

 単語としては分からないけど、ちゃんと形式のある言語体系みたい。

 ……私に何か伝えようとしている? シロの言葉で!


「しろ。ぬい、べるぬぃ……ぬぃ。ふぁぐ、ふぁあ……めぐ!」


 なんだろう。不思議と……生理的な気持ち悪さは、あまり気にならなくなってきた。相変わらず細いひげ根や根っこ以外に動きはないし、不快な感情は完全に拭えないけど。 

 目の前にいる異形の精神体は、私がを認識していて――呼んでいる。それだけでだいぶ楽になった。私じゃ推し量ることのできない、たしかな知性を感じる。


 炯眼の糸は、シロの大ざっぱな感情しか伝えてこない。

 まるでライレンと繋いでいた時のような、ごく浅い表面しか。

 

 ……ただ私がこの白い霧の向こう側へ行くことに対して、心配しているような、危機感や恐怖をおぼえて欲しいと促しているって気がする。

 

 やっぱり警告……そういうことかな?

 そして厳重な注意喚起でもある。

 

 これよりは自己責任。

 炯眼の命綱なし。剥き出しの精神が異常をきたす恐れあり。 

 リスク大。リターンは不明。私の身体に戻れなくなる可能性も当然ある。 

 それなら、どうする――


 進むのか? 戻るのか?

 

 選択の自由は与えてくれるらしい。

 なんだ、じゃあいい奴なんじゃないかシロは?

 精神世界の岐路に立ち、ずいぶん見当外れな思考を巡らせていた。そうでもしなければ、私は取り返しのつかない不安に心をかき乱したまま……判断していたと思う。




 私は、希望を探していた。

 この終わりの見えない道を照らして、進んでいけるような希望の光を。

 

 人は誰も絶望を手にしようとはしない。

 光を見つけ、目指し、触れて初めて分かるのだ。

 それは自らをさらなる失意へと向かわせる暗黒だと。

 



 いま絶望に手をかけようとしていることに――人は誰も気付かない。



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