第15話 Memento
「……」
「
槍を引き抜き、かすかにこびりついた血を払う。穂先がしなるように硬度を失ってくねり、巻き尺みたいにシュルシュルと手首から腕へと収まる。
胸から生やした支えを無くし、ずるりと倒れた。地面に血がたまって、手を覆っていたコーティングも爪も融けて流れていく。
鼻先や目元……赤い子犬のような形状も爛れ落ち、元の顔が覗いている。
「ああ白い毛玉のクソ野郎が。
しばらく血が流れるその様子を眺めていたが、
何か思いついたように辺りを見回し始める。
「ん……」
一度もまばたきしない焦点の定まらない目。血色を失い蒼白になりつつある顔。
息もなく凍り付いた表情。乱れた髪。穴の開いた胸。
からっぽの身体。魂のない亡骸。
どう見ても――
「なるほど? そうか。瞳までしか入り込めないなら、俺の瞳そのものに
なんでよぉぉぉぉ! 死んでるじゃん私ッ!
どう見ても死体だし、死体以上に死体だし完璧な死体でしょおおおお!?
なんで分かった!? いや今は疑ってるだけだ絶対。
「そちらの偽装は最小限に留め《俺の記憶から都合よく》死体に見せかけてる……俺は死んだ者をたくさん見送って来たし殺しもしてきた。人死にに慣れてなきゃあどこかで視覚的なボロがでるからな。だが忘れてないか? ……お互い目と、鼻はよく効くんだぜ」
ちょ、待って。そのまま帰って! 通り過ぎる無防備な背中を晒せ!
そしたら思いっきり私の一撃くれてやるからさ。
お願い。クソッ、ほんの少しでも緩みを見せろよッ!
「三人分の死体とは別に、目の前の
完璧完全にばれてるぞそして何よりも――まずい。
事実、無傷であの状況から脱したわけじゃない。
あんな一瞬でそこまでは無理だった。
ライレンの一刺しは目測を誤らせたけど、右肩の鎖骨辺りを切られた。泣けるくらい痛いし熱い。何より押さえてんのに血が服にどんどん染みて止まらない。
いま、視覚を思いっきり鈍らせ、私と言う存在を見ても認識しないようにはしてやったが……アスファルトに血が一滴でも落ちればそれだけでアウトだ。
そこから位置を割り出され、刀か槍で払われるだけで私の身体は大ざっぱに泣き別れ。そんな終わりにさせないために私はまだ動けない。音も息も立てない。この場面しかないんだ。こいつを殺せるのは。
来い。私を始末しに。
「思えば俺にも……足りなかったのだな。女子供であろうと握り潰し、あらゆるものを冒涜してでも成そうとすべき覚悟が」
ライレンはその場に倒れている私の死体を小突くように蹴った。
あくまで認識をずらしただけで感触はないはずだが、私にも想像できる。
私の首をじわじわと踏みにじり、骨を砕いてくのが。
勝手に弄んでていいよ。私の心はそんなことじゃ揺れない。
挑発してんだろ? 私がうかつに動くのを。あるいは、私のいじった視覚の認識が戻る時間稼ぎ。誰が乗るかバカ。
……あと大股一歩。
いや、半歩でいい。身体を向けろ。
私が見えていない状況で、飛び掛かる爪の一撃は絶対に躱せない。
ライレンがさっきのように槍を出し、円を描くような攻撃をしないのは、その隙を突かれたら危ないと悟っているからだ。
仮に目を潰したって、武道や武器を扱う技量が違い過ぎる。
わずかに遠い。ここじゃあ相打ちか返り討ち。
あとすこし背中を見せるか、間合いを詰めろ。
私の気配を察知してもしなくても、爪が命に届く距離まで。
* *
「……」
「……」
靴音が一つ鳴った。
私の作った幻影を払い散らすような、清然とした響き。
ライレンはそのまま
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏………」
心が在る。
自らの苦痛を横に置き、他者の死を悼む祈りが確かにある。閉じた目から湛えた涙があふれ、まるで善心が流れ落ちていくような、温かな感情が読み取れる。
一方で私は、その行いの意図と虚実。渾身の一撃が遮られずに通るかどうか見抜こうとしていた。そんな自分の決意が、ライレンの心を読み解くほどに鈍っていく。
……もし、この迷いまで期待していたんなら抜群に効いてるよ私に!
「南無阿弥陀仏――」
ライレンの地面に触れた左手から、緑の線が溢れいくつも走る。
ツタのようにアスファルトを縫って、広がっていく。
私の赤い糸と同じ、
三つの死体に絡まり、私の足を這い登り、すぐ後ろの壁に伸びたところで止まった。触れてはいるが、それだけだ……ライレンは私に気付いていない。
この緑の草網はなんだ? なんのためにやっている!?
私がこれに
「ふしゅるるるるぅ、くあぁぁぁ」
「……」
くぐもった声。言っていることが分からず、単なる呼吸音にも取れた。
閉じた目の涙が乾き、パリパリと薄皮がひび割れて落ちる。
露出した頬には緑がざわめき、きめ細かいすじや斑模様がびっしりと浸食し首から下へと広がっていく!
まるで鱗だ。
トカゲやヤモリ。尻尾に行くほど鮮やかな青に変わっていく中間、艶のある緑。実に日本人って顔立ちから、爬虫類めいた特徴の形へと変貌する。
むかし、何かの読物語で読んだ。リザードマンみたいな!
「くあ!
ツタが、逆再生のようにライレンの手へと戻る。
腕から肩へ、そしてまぶたをこじ開けるように吸い込まれていく。
顔も元の……厳しさを持った表情に戻った。
そこからは意志を感じる。規律と信仰。そこから積まれた武芸。
何より、私を絶対に逃がさないって執念を!
ライレンはゆっくりと目を開ける。
黒目は縦に楕円形で、青みを帯びた鮮やかな薄緑色。
……そこから燃えるような輝きが溢れ出す。
「
ごぽっ。ごぽっ。
静寂の中、泡が沸き立つような音を聞く。
煮えたぎった感じじゃない。もっと冷たい……冬の沼底からガスが染み出たみたいな。ごぽごぽ。まただ。また聞こえた。いったい何の――
靴音が聞こえる。不規則に、いくつも。
叫び声をあげそうになり、ギリギリのところでのみ込む。
なんだこれ……なんだよ! これ!?
私は理解できない恐怖とおぞましさを噛み殺しながら、それを見た。
割れた足、ぶよぶよとただれた手、ささくれ立つ鱗を纏った首。ちぐはぐな組み合わせで動き、口に含んでいた血を振りこぼす。肺が押され、身体に溜まっていた血とともに、ごぽりごぽりと空気が音を立てる。眼には被膜があるかのごとく濁り、鈍い緑の輝きを帯びている。
ごぽっ。ごぽっ。
深淵に通じた蓋が開き、狂気は浮かんで弾けた。
底なし沼の底を掬い上げたような臭いとともに。
「けも゛ののっの、ごろ゛すごろ゛ず?」
「ら゛いれ゛んさま゛っ。ぃま゛いま、はやぐ、お゛めいじお゛れ!」
「わ゛れらら゛、どっどゔふくぃじん゛ん、どもにどとも゛に」
それは今この場で蠢いて――次に私に降りかろうとする、意志なき者。
死んだはずの三人が私に向かってくる……!
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