第16話 嵐の予感
喫茶ボンソワール、入り口側フロア奥のテーブル席には重苦しい空気が漂っていた。
それを察してか、一つだけでなく二つ隣まで、席は空いている。他はそれなりに埋まっているというのに。
尾行がバレてしまった女子のその後は迅速だった。
言い訳はもとより、一言すら発さず、麗しの三年生が座るテーブルへまっしぐら。大股でずかずかと進む姿は、どこか開き直っていた。
「トロピカルストロベリーオレンジを」
すかさずやってきた店員に、メニュー表を一瞥することなく、注文を告げる。そして、かの先輩の正面へと腰を下ろした。そこにいたクラスメイトがいなくなっていたのをこれ幸いに。
あまりの堂々たる様に、動揺したのは陽清の方だった。一連の動作を、唖然としたまま入り口外から見守っていた。
彼が現実に戻ってきたのは、店の制服がよく似合うポニテのお姉さんが目の前を横切った時だった。
そして現在。
陽清とアリシアは隣り合って座っている。特に陽清の方は、やや肩身の狭さを精神的にも感じながら。
元凶はもちろん、正面に控えているクラスメイト。彼女は小難しい顔で、しっかりと陽清たちのことを監視していた。
「お待たせしました――あんまりシュラバらないようにね」
注文の品を置き、ウインクを残して去って行くポニテ店員。どこか小悪魔めいて、そして、どこまでも野次馬根性丸出し。
それが開戦の合図だった。
「で! どうして、柳上君はあのアリシア先輩と一緒にいるんですかっ」
「《あのアリシア》って、椿屋さん、こいつ……じゃなかった、この人のこと知ってるのか?」
「何言ってるんですか。知らない方がどうかしてますって。3年の神埜アリシア先輩。まさに、大和撫子、眉目秀麗、才色兼備、文武両道を絵に描いたようなお人。誰が呼んだか、御嘉地のアイドル。そして生徒会、副・会・長!」
会長じゃないんだな、そこは。
クラスメイトの謎の勢いに気圧されながら、心の中で呟く陽清。
しかし、なぜにこうもこの女子はテンションが高いのだろう。若干のキャラ崩壊すら感じるほど。鼻息を荒らげ、声高に語る様は、日頃の彼女とはまるで別人。
今にも食いかかってきそうな勢いが、ちょっと怖い。
なおも飽き足らないのか。怜奈は毒々しい色のジュースで荒々しく口を潤すと、ちろっと唇を舐める。それは妖艶とは縁遠い仕草。
大げさと言えるほど、称賛の言葉を浴びせられているアリシアは、全く微笑みを崩さない。どこまでも優雅に、振る舞い続ける。
二人の歳の差は、どう考えても一つじゃないな、と心の中で思う陽清だった。実際、女神時代を含めれば、その通りなわけで。
「いくら柳上君が、地味で波風の立たない学生生活を過ごしていたとしてもですよ。噂ぐらいは聞いたことがあるはずです。超が付くほどの有名人ですよ!」
「……いや、まあ、そうだな。どこかで見たことくらいはあるかも」
堪らずそう言うしかなかった。たとえ彼自身に、そんな偶然があり得るはずがない、と確信があっても。
どうにも、椿屋怜奈の様子はおかしい。あまりにも熱が入りすぎている。
陽清は終始押されっぱなし。ますます、彼女の人柄がぼやけていく。
やはり、怜奈の表情は曇ったまま。むしろ一層難儀になったともいえる。
「むっ、なおさら納得できません。どうして、そんな希薄な関係性で、こんな二人きりで密会なんて」
「落ち着きなさいな、椿屋怜奈。ハル君はね、ワタシが呼びつけたのです」
「え……どうして私の名前、いえ、それより、ハル君って……」
「彼は、ワタシの
ドヤっと、かなり得意げな表情で、アリシアは自慢するように言い放つ。使い倒された古い言い回し、ともすればおサムい。しかし、本人に全く気にした様子はない。
となれば、弾き出された恥じらいは、形を変えて他人のもとへ。
例えば、陽清は無防備に口を開けて、見るからに呆然自失。ただもう言葉を失って、そのハラワタは煮えくり返っている。
さて、残る一人の少女はと言えば。
「…………な、な、ないと」
真っ赤になって、わなわなと震えていた。その目にはうっすらと透明な液体が。口をパクパクとするさまは、まるで酸欠状態。
「お前はいつもろくでもないことばっかり。いい加減にしろ」
「えー、でも本当のことだもん。だって、貴方は私の命運を変えてくれたヒト。ちゃんとセキニン取ってよね」
「――っ! も、もしかして、お二人はその、お付き合いなどされているのでしょうか!」
先ほどから連発されるアリシアの意味深な言動。さらに、今に至っては彼女は陽清の腕に絡んで、ぎゅっと身体を押し付けなどしている。
結果、怜奈の心の堰は決壊したようだ。耳まで余分なく真っ赤にして、焦点の合わない目をしたまま、身を乗り出す。
あの神埜アリシアの恋愛沙汰なんて、御嘉地の一大スキャンダル。しかもその相手が自分と同じクラスとあっては、怜奈の好奇心は容易く限界を突き破ったらしい。
その姿を見て、陽清はそっとため息をつく。厄介なことになったものだ、と店内の様子を一瞥する。
幸い、このテーブルの騒ぎっぷりはそこまで関心を集めた様子はない。
ただ一人。アリシアだけが、愉快そうに微笑んで、一つ下の後輩の様子を見守っているのだった。
◇
三人が店を出た頃には、辺りには夕闇が迫っていた。
喫茶ボンソワールは、その名に反して、営業時間は午後六時半まで。
あるいは客に向かって、言葉通り「よい夜を」という祈りを込めて名付けられたのかもしれない。
「わぁ、もうこんな時間。お父様に怒られてしまうわ」
「お父様、ねぇ」
「なにかなその目は、ハル君」
「別に」
陽清は、少しも悪びれた様子のない元女神から視線を外した。そうした普通の人間っぽい発言をされる度に、どうも白々しく聞こえて仕方がない。
なおも面白くないらしい。アリシアは、ふくれっ面で陽清の方に一歩踏み込む。
「そっか。アリシア先輩……じゃなかった、アリシア様のご実家はお寺でしたっけ。門限、厳しいんですね」
「お寺じゃなくて、神社。それに、様づけなんて、大仰すぎます、レイナ」
「で、でも、女神様ななわけですし」
「前はね。今は貴女たちと変わらない。どこにでもいる普通の人間。ほら、俗っぽい言い方するなら、異世界転生。そんなの、ハル君と同じでしょ」
「俺は転生した覚えはないがな」
「ですね、柳上君は転移だと思います」
「似たようなもんでしょ、どっちも」
「いいえ、違います! いいですか、そもそも――」
物腰丁寧に接していたのはどこへやら。
怜奈は熱弁を振るう。『異世界』事情に疎い、元女神に対して。その表情はかなり活き活きとしている。
その迫力に、アリシアといえどなぜか気圧されている。どこか気の毒そうな顔で、ただじっと講義に耳を傾けるばかり。
一人蚊帳の外となった陽清は、二人のやり取りを横目で眺め、苦笑する。
クラスメイトの豹変ぶりもそうだが、アリシアが神社の娘だなんて、なんとも言えない気分になっていた。
五分ほど経ったところで、怜奈の話は終わる素振りすらない。
無限に続いていく気配がしたので、陽清は話を無理矢理断ち切った。
「ご、ごめんなさい、私ったらつい……」
「レイナって、本当に面白い娘よねー」
そうして、揃って幹線道路の方に向けて歩き出す。
御嘉地高の方からやってくる下校途中の生徒の数は多い。大通りに近づくにつれて、交通量は増えていく。
通りに出た時、タイミングが悪いことに、赤信号に突き当たってしまった。
足を止める陽清と怜奈に、アリシアは不思議そうな目を向けた。
「そっか、二人はそっちか」
「はい。先輩は」
「うちはあっち。ちょうど逆ね」
「そんなところに神社があるなんて、初めて知りました」
「うふふ、レイナ。悪気はないようだから、今回は見逃してあげるわね」
言われたところで、怜奈は自らの失言に気付いていないようだ。キョトンとした顔のまま、首を傾げる。
隣の騒がしい二人組に穏やかじゃないものを感じながら、陽清は正面に目を戻す。
向こう側には、それなりの人だかりができていた。構成員のほとんどは、三人と同じ制服を着た高校生たち。
だが、その後方。
ゆらゆらと佇む、幽鬼がいた。
「あれは――」
「ほえ? どうかしたの、ハル君」
「なんですか、また誰か転生してきたんですか!」
目をぐっと凝らすが、すぐに集中力は乱された。
袖を掴まれたり、視界に割り込まれたりされては、堪ったものじゃない。つい意識が霧散してしまう。
次の瞬間には、影は蜃気楼のように消えていた。
「……気のせいか」
「だと思うよ~。ワタシにはなーんにも見えないし」
「そうなんですか? あの顔ぶれの中に、本当はまた異世界から来た人がいるんじゃ」
「レイナ、少しは落ち着きなさいな」
穴が空くほど見つめても、陽清の目に異変は映らない。
さっきのは幻覚。何かの見間違い。それが証に、女子二人はいたって平然としている。
彼が見たものが真実なら、そんな反応は絶対にありえない。
あれは異形の存在だった。突き抜ける長身、病的な肌、微風に揺れる灰色の長髪。何に差し置いて、禍々しいオーラ。
魔的な何か、一目見ただけで陽清はそう判断を下した。いや、実のところは、ある存在だと断定していた。
やがて信号が青に変わり、三人ゆっくりと動き出す。
向かってくる人並みに、目を惹く姿はない。
先導する怜奈をやや警戒しながら、陽清は静かに口を開く。
「……アリシア、昨日のヤツの正体って」
「いきなりだね、ハル君。てっきり、興味ないのかと」
「話すタイミングがなかっただけだ」
「タイミング、ねぇ。いつでも聞いてくれてよかったのに。だって、答えは一言」
わざとらしく言葉を切ると、アリシアはそのまま神妙な顔で黙ってしまった。
結局、先に渡り終えていた怜奈と合流することに。些細な配慮は簡単に吹き消されてしまった。
「ワタシにもわからないのです!」
「お前な」
「何話してたんですか?」
「椿屋さんには関係な――」
「昨夜の襲撃者のお話し。レイナももう巻き込まれちゃってるわけだし、無関係ではとは言えないよねぇ」
ニタニタと、意地の悪い笑みを浮かべるアリシア。同調して、怜奈まで得意げな顔を見せてくる。
となると、陽清としては返す言葉はない。経緯を大人しく説明する。
話を聞き終えた怜奈は、小難しい顔をしていた。
「うーん、やっぱり異世界からの刺客だと思うんです、私」
「あのなぁ、椿屋さん。そんなわけないだろ」
「そう? いいセンいってると思うけど? 私やハル君って、例が存在するわけだし。そもそも、貴方と渡り合ってる時点で普通ではないでしょう」
アリシアはけらけらと軽やかに笑い飛ばす。どこまで本気なのか。冗談にしか聞こえない。
説を採用された怜奈は、頬が緩みっぱなし。
おおよそどこにも危機感というものは存在していない。
「とにかく、わかってるのは、あいつが本気で俺を狙ってるってことだけか」
「ま、気を付けてれば何とかなるでしょう。ワタシが心配なのは、レイナ、貴女の方です」
「私……ですか?」
今までのにこやかの雰囲気が一転。アリシアは笑みを引っ込めて、すっかり真面目な顔つきに。
その緊迫とした雰囲気に、陽清と怜奈は表情を固くする。
「ええ。貴女、目撃者なわけでしょう。しかも、ハル君の手当てまでした。向こうの目的次第だけれど、貴女も標的にされておかしくはない」
「そ、それは確かに……」
「ごめん、椿屋さん。俺のせいで」
「ううん、柳上君は何も悪くないよ。私が勝手に首を突っ込んだだけで」
「いや、俺がもっと厳しく止めてれば」
「はいはい、庇い合いはそこまで。ともかく、二人とも身の回りには気を付けて。何かあれば、私に教えてちょうだいな」
最後にはにっこりとほほ笑んで、アリシアはスマホを取り出した。花柄の手帳型ケースに入って、画面にややヒビが入っている。
陽清は連絡先を交換しながら、すっかり現代になれたものだ、となんとも言えない気分になるのだった。
◇
「兄さん、いる?」
「ああ、もちろん。なんか用か」
「入っていい?」
返事はせずに、陽清はのっそりと床から身体を起こした。緩み切った動作で、扉を開けてやる。
夜九時を回ったところ。陽清は自室で、身体を動かしていた。昨日の今日で、さすがに外に出る気にはならない。
「今日は夜遊び行かないんだ」
「夜遊びってな、身体鍛えてるだけだ」
「……あの前世ナマケモノのお兄ちゃんが? いったいどういう風の吹き回しなの」
「お前にゃ関係ないさ」
部屋に入ってきた星佳は、我が物顔で兄のベッドに腰かける。湯上りなのか、髪の毛がちょっとしっとり気味。
一番大事なテリトリーを侵され、陽清はむすっとした表情を妹に向けた。
もちろん、微塵も効果はないのだが。
「で、用件は?」
「あのね、登山ってどんな感じ」
「お前、テニス部じゃなかったか? もう部活変えるのか」
「ちーがーいーまーすー! 体育の授業の話……って、もしかして今年からなのかな。
星佳が口にしたのは、御嘉地高校のすぐ近くにある山の名前だ。
頂上までは三時間ばかり。下山には二時間程度かかるため、計五時間超ほどの中々ハードな道程。
徒歩圏内にあるため、春先のこの時期に体育の授業の一環として登山が行われている。生徒からの評判はすこぶる悪い。
「いや、俺も去年登らされたぞ」
「じゃあ最初から察して欲しいんだけど」
「めんどくさいやつだな」
「どっちが!」
プンプンと怒り散らす妹を宥めながら、陽清は登山の心得について語り出す。
といっても、ちょうど一年前のこととあっては、細部の記憶は朧げ。
結局、語ったところは全てそれっぽい内容ばかり。
それでも、星佳は一応満足したらしい。ついに最後まで、文句を口にすることはなかった。
「ふうん。ありがとう、兄さん」
「どういたしまして。そうだ、星佳。三年の神埜って人、知ってるか?」
「え、生徒会長のこと? もちろん。入学式でも挨拶してたし」
「生徒会長? 副会長じゃなくて?」
「ああ、アリシア先輩のこと言ってたんだ。双子だか、年子だかなんだって」
「ふわふわしてるな」
「……というか、兄さんの方が詳しいんじゃないの? あたし、まだ入学したばかりなんだけど」
「知らなかったから訊いてるんだ。言わせんな、まったく」
「どうして威張り散らしてるの、この馬鹿兄」
これ見よがしにため息をつく星佳を無理矢理にたたき出して、陽清はベッドに放っておいたスマホを拾い上げた。
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