第8話
美紅は優しい子だった。悪いのは俺だ。
あれは小学校4年生の秋だった。
俺は学校の図書室で一冊の絵本を読んだ。
読書月間とやらで、必ず一冊は本を読んで感想文を書かねばならない日があったからだ。
めんどくさい趣味の入門書や、人気のあった歴史解説漫画や
小難しい社会テーマのタイトルを避けてイヤイヤ選んだ本だった。
それは『アルバの一生』という題名で
綿毛が舞っているような、おぼろげな輪郭なのに
なぜか眼だけがリアルに描きこまれたアホウドリが主人公で
その本を手にとった俺の第一印象は「キショイな」だった。
話は子供向けの絵本らしく、短くて抑揚に乏しい淡々とした内容だったが
この絵本で俺は愛を知った。
◇ ◇ ◇
アホウドリのアルバが卵から孵ったとき、母鳥は言った。
この世界は厳しくて、わたしがあなたに与えられるものは少ない。
あなたの生には危険でつらいことがたくさん待っている。
強くなりなさい。愛する誰かを見つけなさい。
愛する誰かを守りなさい。愛する誰かに守られなさい。
生涯を共に寄り添って、愛する誰かと子を作り、守り、そうして命をつなげなさい。
わたしがそうするように。わたしがあなたを産んだように。
アルバの巣立ちの日に父鳥は言った。
おまえにわたしのすべてを与えたけれど、それでも世界はおまえに厳しい。
強く在りなさい。愛する者を探しなさい。愛する者のために生きなさい。
愛する者を守り、寄り添い、子を育て、巣立つ日まで守り、そうして命をつなげなさい。
わたしがそうしたように。わたしがおまえを守り続けたように。
アルバは旅立った先で、雌鳥のトロンと出会った。
トロンはアルバが見た最初の雌鳥で、薄汚く、小さく、弱い体を持った臆病な鳥だった。
偶然にもトロンの美しい歌声を耳にしたアルバは心を打たれ、彼女に求愛した。
怯えてアルバを避けるトロンを辛抱強くそばで見守り、自分が腹をすかせてもトロンのために花と魚を毎日届けた。
アルバに求愛する美しい雌鳥たちには目を向けず、トロンのためだけに歌をうたい続けた。
ある日アルバは野犬と戦って傷つきながらトロンを守りきり、ついに彼女の愛を得た。
アルバとトロンは生涯をお互いのそばで生きて
トロンは母の言葉を産んだ子に伝え、アルバは父の言葉を旅立つ子に伝えた。
そして年老いたアルバとトロンは同じ日、同じ瞬間に重なり合って死を迎えた。
◇ ◇ ◇
ひだまりの中で寄り添いあって眠るアルバとトロン。
その上に彼らの親鳥たちの幻が並び
その上に親鳥の親鳥たちがそれぞれの伴侶と重なって眠る最後のページを閉じた俺は
授業中にも関わらず、こっそり抜け出て階段の踊り場で泣いた。
命のはかなさ、愛することの美しさ、生まれた意味。
涙が止まらなかった。叫びたかった。押し殺してすすり泣いた。
戻った俺を待っていたのが美紅だった。
美紅は顔を袖で拭いながら鼻水を伸ばした、きったない顔の俺にポケットティッシュをくれた。
その時に俺は思った。自分自身を理解した日からずっと傍に居て
ずっと好きで、今も好きなこの子を将来は俺の嫁にすると。
共に生きると。かならず守っていくと。一生を添い遂げると。
美紅は優しい子だった。
だからきっと悪いのは俺だ。
待てばよかった。
美紅が吉岡に飽きた時まで待てなかった俺が悪い。
美紅が吉岡に振られた時まで待てなかった俺が悪い。
おまえ以外をオカズにしてオナニーしてた俺が悪い。
美紅が俺を好きにならなくても、ただ近くで見守って
どんな男とくっついて何人の子を産もうとも、ただひたすら待って、待って
年老いて白髪のばあさんになった美紅が、それでも俺のことを好きにならなくても、ただ待ち続けて
美紅がボケて自分すらわからなくなって、老人ホームで天井を眺めてくらす日まで待って
その時にひたすら美紅を想い続けて童貞を守った俺が寄り添って
最後の瞬間に手を握って一緒に死んでやる。
それが本当の愛だ。
だから俺が悪い。たった15年かけただけの傷心を御大層にひけらかしてとっと諦めて、諦めたフリをして
同情してくれた処女のリカ姉とセックスした俺のような男が一番悪い。
マケオ扱いで当然だ。
愛を貫けなかった俺が美紅を責めるなんて間違ってる。
「カツオ、オマエは考え過ぎる」
リカ姉の声がした。頭のてっぺんで揺れる、かすれた声がした。
後ろ髪を撫でてくれる優しい手の感触があった。
涙と鼻水でシャツを汚しているはずの俺の顔を包んでくれる、柔らかくて大きな胸あった。
「辛かったら来いって言っただろ、なんで来なかった?」
なにも言えなかった。なにも憶えていないから。
どうしてリカ姉が俺の部屋にいるのかもわからないから。
本当はわかってる。約束を破ったからだ。
あの時、笑ってごまかす美紅を無視したからだ。次の日一緒に登校しなかったからだ。
リカ姉に合わせる顔が無くて、空手を休んだからだ。
ずっとメシを食わずに親を心配させたからだ。
「アタシは約束なんてしていない。普通にしろって言ったんだ。
オマエと美紅は幼馴染だ。なら、喧嘩だってするさ。それが普通だ。」
なにも言ってないのに答えてくれた。背中に回した手に力をこめた。
リカ姉は黙って頭を撫でてくれた。
「明日と明後日、ずっとアタシがいてやる。したければヤラせてやる。だからメシを食えカツオ。」
金曜の夜だった。
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