11 方舟-5-
「よし、だいたい分かった。ここで別れよう」
バッグから双眼鏡を取り出し、2人に渡す。
ネメアにこの場に留まるよう言い置いて、カイロウとダージはそれぞれ広場の東側と西側に移動した。
三方に散ったのは、各々観察する対象は異なるが死角を作らないようにするためだ。
特に方舟はちょうど反対側の様子を観ることができない。
ダージが気を利かせてネメアを連れてきたのは運が良かった。
(こんなことを知ってどうするのかしら……?)
人混みに紛れるようにしてネメアはレンズを覗き込んだ。
渡された双眼鏡は一段性能が良く、上空の巨体を鮮明に捉えている。
ゆらりゆらりと流れるように泳ぐクジラは、きわめて緩慢な動作で地上を俯瞰しているように見える。
(ま、仕事だからしょうがないか)
怪我や時には命の危険すらあるボディガードに比べれば楽すぎる業務である。
報酬をもらうのが申し訳ないくらいだ。
他方、2人は広場の外周に沿って移動し、互いに正対する位置につく。
どちらからも現場の様子はよく見える。
(今のところ、おかしな点はないな――)
カイロウは油断なく周囲を窺った。
街路樹を盾にすることで、向こうからは気取られにくくなっている。
この手の隠密行動の巧みさはやはりダージに譲る。
車など身近にあるもので自然に身を隠せ、とは彼の知恵だった。
未明から彼らの動きは慌ただしかった。
クジラの使者から届くメールにはいつもどおり、選ばれた子の名前と方舟をよこす場所、日時だけが記されていた。
日程に余裕を持たせた内容だが、だからといって気は抜けない。
上官からは儀式としての厳格性、神秘性を損ねないようにしろと口うるさく言われている。
大きな権限を与えられている神祇官でさえ、粗相があれば重罰を受けることになっている。
「周辺に異常なし。今回も何事もなければいいが」
交通整理や周辺の警備は下級役人の仕事だ。
広場の出入り口やその近辺を見回り、式典――彼らはそう呼んでいる――が滞りなく執り行われるよう注意を払う。
「こっちも問題はない。あとは到着を待つだけだ」
万が一のことがあってはならないと、この式典には多くの役人が駆り出されていた。
祭祀官はもちろんのこと、会計課や庶務課の人員までいる。
政府に雇われたテラの姿もここにあった。
夜を切り取ったようなコートに身を包む彼は、同じく黒服の役人に紛れても違和感がない。
「傭兵さんよ、何かあったら頼むぞ」
荒事は彼らの仕事ではない。
何かと保身に走りたがる役人は、騒ぎが起こればテラや民間の警備会社に面倒を押し付けることに微塵も後ろめたさはない。
「それが仕事だ」
もらった分は働く、が彼の矜持である。
コートの袖口からわずか覗くスチール製の拳を握りしめ、テラは広場の内周を悠然と歩いて回った。
何かがある、ということなどない。
極刑を恐れる市民に、この式典を台無しにする気概などあるハズがない。
そもそもほとんど全ての人間は、これを慶事と認識している。
クジラに選ばれるということは、すなわち神に微笑みかけられたに等しい。
親兄弟は一族から神の加護を受けた子が出たことを喜び、見物人はそんな時の寵児を一目見てあやかろうとする。
つまり式典を妨害すれば、それは神に背く行為と見做される。
それだけの度胸があり、実際に行動に移す人間がどれだけいるか――。
(考えるまでもない)
そう思うからテラはゆっくりと時間をかけて見回ることができた。
10分ほどかけてちょうど一周した頃、観衆がどよめきだした。
空の一点に光がまたたく。
それは風を切り裂くような鋭い音を響かせながら、ゆっくりと近づいてくる。
「クジラ様の御使いだ!」
人々が空を指差して叫ぶ。
全長30メートルほどの、白色とも銀色ともつかない楕円状の小舟が旋回しながら高度を下げていく。
銅褐色の霧の中、小舟はまるで暗闇に浮かぶ光明のようだった。
荘厳で神秘的な輝きが、機械的な音とともに地上に降り立つ。
信心深い何人かは来臨に目を閉じ、敬虔な気持ちで迎えた。
「方舟、到着しました」
待機していた役人たちは恭しく頭を垂れた。
広場の北側から黒塗りの車が入ってきた。
窓はスモークで覆われ、中の様子は見えない。
神祇官が2人、しずしずと進み出て方舟の正面に立った。
扉が開き、彼らは吸い込まれるように中に入った。
車は観衆に見せつけるように広場を一周し、方舟の左側に停まった。
「今回は何人くらい選ばれたんだろうな」
「羨ましいわねえ。私もクジラ様の御慈愛をいただきたかったわ」
羨望の声があちこちから聞こえた。
誰もが広場で執り行われている式典に夢中だ、
警備隊が車を取り囲むように隊列を組むと、傍にいた数名の神祇官が車の後部に回り込む。
そして中からカゴに入った赤ん坊を取り出し、天高く掲げた。
「ルウェニ=カザン! この者はクジラ様に選ばれ、楽園に至ることを許された!」
歓声がこだまする。
赤ん坊は神祇官によって方舟に運び込まれた。
「トウィート! この者はクジラ様に選ばれ、楽園に至ることを許された!」
続いて2人目が取り出される。
「ギータ=トラヤ! この者はクジラ様に選ばれ、楽園に至ることを許された!」
「サツド! この者は――」
次々と赤ん坊が運び込まれ、その人数は十を超えた。
繰り返すこと数分。
方舟に向かって恭しくお辞儀をした神祇官はゆっくりと振り返り、観衆に向かって叫んだ。
「以上、17名は御使いに運ばれ、末永くその命をクジラ様と共にする栄誉を得た!」
「畏れ謹みながら申し上げる! クジラ様の御威光が遍く降り注がんことを!」
役人たちはひざまずき、両手を組んで瞑目した。
この瞬間だけは観衆も音を立ててはならないとされている。
それまでの厳かな動とは一転、あらゆるものが静止し、一切の音が消え去った真の静寂が場を支配する。
やがて役目を終えた神祇官が出てくると、方舟は扉を閉じ、ゆっくりと浮かびあがった。
そして地上の人間たちに微笑みかけるようにしばらく滞空したあと、クジラの元へと飛び去っていった。
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