09.蛇の誘惑

 差し出された手を取れば、すべてが解き明かせるのだろう。同時に、己の中の何かが壊れる。それは道徳や理性、正義といった名をもつ筈だ。


 失ってまで得る価値を見出せるかどうか。


 おそらく人として超えてはならぬ垣根を越えることで、彼と同じ高みに立てるのだ。


 いや、そこが高みだと誰が決めた? 堕落であり転落である可能性もある。自ら進んで囚われているとはいえ、彼は罪人であり囚人だった。


 ロビンの差し伸べた白い手に首を振り踵を返した行為は、一般的に判断すれば正しい。


「コウキ、残念だ……まだ『見えない』のか」


 呟いたロビンは心底残念そうに溜め息を吐き、立ち去るコウキを見送った。その口元に嘲笑が浮かんでいたのは間違いなく、わかっていて背を向けたのはコウキ自身だ。


 なぜだろう、時間が経つほどに『あの瞬間』がよみがえって消えない。


『お前はオレだ』


 差し伸べられた白い手。


 断られると思っていない彼の傲慢さと強さが脳裏を支配した。


 まさに『悪魔の誘惑』だった。その手を取りたいとさえ思うほど、彼の見る世界に魅せられている自分がいる。


 ロビンは世界に何を見ているのか、何に絶望したのだろう。そして、何を期待している?


 残された質問はふたつ。


 立ち上がったコウキは、導かれるように奈落へと踏み出した。






 珍しくベッドに寝転がったロビンは起き上がる様子もなく、コウキが着座するまで待った。


「彼らの喉は開いた墓であり」


「彼らはその舌であざむく」


 聖人パウロが自ら記したとされる七つの手紙『ローマ書』の一文だ。人を傷つける言葉を戒める文章として、コウキも神父から聞いたことがあった。他人を貶める言葉を吐き出す口は墓であり、欺く舌は蛇(=悪魔)と同じ。


 子供に嘘やひどい言葉を吐かせないために教える慣用句のようなものだった。


 途中で切られたロビンの続きを返したコウキは、じっと無言で彼の反応を待つ。


「稀有なる羊、求めるものが決まったようだね」


 ようやく身を起こした彼は、長い髪を珍しく解いていた。手馴れた様子で後ろにまとめると、ひとつに紐で結わえる。


 緊張に張り付きそうな喉を震わせ、ひとつ大きく息を吐いた。


「お前は俺に何をした?」


 明らかな心境の変化、彼の答えを先読みさせるよう仕向けたことすべてを話せと詰め寄る。言葉の鋭い響きと裏腹に、コウキの視線はロビンの指先へとそらされていた。


 正面から青紫の瞳を覗き込めば、心まで支配されそうな恐怖がコウキの中に巣食うが故の行為だ。


「導き、教え、越えさせた」


 端的な答えに感情は滲んでおらず、思わず顔を上げて彼の真意を確かめるように視線を合わせた。


 人形のガラス玉さながら感情を浮かべない青紫が瞬き、彼は組んだ足の上に両手を合わせる。組んだ指が僅かに動いて、左手の親指が右親指の背を撫ぜる仕草がやけに目を引いた。


「稀有なる羊―――お前はオレと同じ視点を持てる稀有な存在だ。人の生死より謎を選ぶことができ、神の高みから罪を認めて裁く『義務』を負っている。オレがみる世界は優しく残酷で、ひどく哀れな盤上のゲームだった」


 ロビンが言葉を切って、絡めた指を解いた。左手のひらを上に向け、何かを受け止める仕草で握りこむ。


「神ではない、神は存在しない。だが死神はいる……誰にでも平等な死を理解し、ひとつの壁を越えた先に『高み』がある。そこに立つ資格を与えようとしただけだ」


 抽象的なようで、彼は噛み砕いて説明していた。今までになく素直に、コウキはロビンの言葉を理解し吸収する。


 彼は「越えさせようとした」のではなく「越えさせた」のだ。越えたからこそ、彼の告げてきた意味がわかる。死がもたらす得がたい『何か』がぼんやりと輪郭を持ち始めていた。


「最後の、質問だ」


 これが彼との分かれ道になるのだろう。


 ひとつの区切りとなり、新たな関係を築くのか。まったく分かたれて交わらぬ道を示すのか。見当もつかぬまま、コウキはごくりと喉を鳴らして口を開いた。

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