第14話

「その医者の娘にも『邪坊』が憑いている?」

「そういうこと、だと思う」


 電車に揺られながら私と相川さんは小声で言葉を交わす。あの後急いで神社に向かい、目当てのものを調達するとすぐに出発した。大塚駅から山手線に乗り、今は新宿で乗り換えて目的地である郊外の総合病院最寄りの駅へと向かっている。

 きっかけは数時間前に知った、川越先生が中絶手術中に亡くなったという事実。

 患者は実の娘で、名前を星野美咲さんというそうだ。彼女は昨日から入院中で、藤田さんを通じて家族に事情を聞いてもらった。

 中絶することになった理由は、川越先生が一連の怪死事件と関わりがあるものと判断したから。

 美咲さんの身ごもった胎児の妊娠時期がちょうど性行為のなかった頃で、それで不倫を疑われた。胎児とのDNA鑑定を行い、結果、美咲さんとすら親子関係にないことが発覚した。

 怪死した由香里さんと胎児も同じく親子関係がなかったこと、私のDNA鑑定結果、その後発生した連続怪死事件……そこから、川越先生は娘の命を救うために中絶手術を行い、死亡した。

 死体の状況は、たしかに染谷さんと瓜二つ。


「身を守った?」

「そうなんじゃないかって思ってる」


 別に「身を守った」のは初めてじゃない。染谷さんが殺されたのだってそう解釈していた。ただ彼の場合は除霊される、つまり消滅の危機だった。

 でももともと殺すつもりで取り憑いて、その時は当然自分も死ぬのだ。他に乗り移る能力があるかはともかく、わざわざ身を守るのか。その場で美咲さんを殺してしまってもよかったんじゃないか。

 今までも不可解なことだらけだし、理屈立てた解釈なんて無理かも知れない。だけど、もしも彼女に憑いた霊が例外的に「死んではならない」なら。


「美咲さんに憑いてる霊が、『邪坊』の中でも何か特別で、生きて宿ってることに意味がある、そういう可能性はあるかもしれない。何か、中核的な――。それか…………」

「それか……何?」

「う、ううん」


 相川さんに目をやって、慌てて逸らす。思いついた「もう一つの可能性」については口にしないでおいた。どちらにせよ、彼女から話を聞き、私と一緒に精密検査を受けてもらうことで何か謎の解明に繋がる事実が、そう信じるしかない。


「とにかく今は美咲さんを助けなきゃ」


 神社で入手した代わり雛の材料がバッグに入っている。美咲さんに折らせるためのものだ。染谷さんの時の力を見ると代わり雛があっても全く安心はできないし、そもそも私の代わり雛はここまで保っているのも不可解なことの一つだけど。

 自分の首から下げた代わり雛の袋を指で摘んで見ていると、相川さんが「そっちは何?」と言って、同じように下げた臙脂色の袋を指した。


「ああ、これ、…………へその緒のお守り。お父さんの田舎のらしいんだけどね。お父さんは死んじゃって。手術受けた時にお母さんからもらった」


 やや躊躇いながら答える。お祓いの時は敢えて置いていったけど、数時間前、母から電話をもらって、その後家に一度寄った時、やっぱり持っていくことに決めたのだ。

 相川さんは、私からそのお守り袋を借りると、手の中のそれを何も言わずに見つめる。目を伏せ、結んだ唇にやや力がこもっているように見えた。


「丸屋恵那」

「はい?」

「例えば」


 結んでいた唇を開いて、言葉を発する。


「例えばあなたに生まれつき霊感があって、そのせいで周りを困らせて白い目で見られたとして……母親は、あなたを今と変わらずに愛したと思う?」

「……うん」


 その唐突な問いに、私は迷いなく答えた。実際のところどうかなんてわからないけど、私は私を嫌う母をイメージできない。

 相川さんの方は、何を思っているのかわからない。彼女からすると面白くない答えかなと思ったけど、嫌悪しているようでもない……そんな気がした。

 彼女の挙げたやけに具体的な仮定の背景は……ハナもそうだったんだろうか。

 祈祷師の知念先生は子供が二人いるらしかった。相川さんと同じものが見えていても、子供を作る人は作る。


「染谷さんと小室さんだって、すごく素敵なお父――家族だと思うよ?」

「家族じゃない」


 言葉を選んで言ったつもりだけど、ぴしゃりと否定されてしまう。でもやっぱり、気を悪くしてはいない、と思う。

 あの二人はきっと、私の母に負けないくらい相川さんを思っているはずだ。相川さんだって。私が引き裂いてしまって、でも相川さんと小室さんは生きている。なら。


「本当について来てよかった?」


 神社を出る時にも聞いたことだった。代わり雛の折り方は私でもわかる。相川さんは別に必要不可欠というわけじゃない。


「小室さんが知ったら」

「……怒るかも知れない」


 当然だろう。私と美咲さんがあっさり殺され、その時、次は相川さんに……という最悪な可能性も十分あるのだ。私は一人より心強いけど、それで彼女を巻き込んでいいとは思えなかった。

 引き返していいと改めて伝えると、彼女は首を横に振る。


「染谷さんの……仇、だから?」

「…………邪坊が誰に取り憑くかもわからないなら、施設の女の子だって犠牲にならない保証はない」

「それは……うん、ダメだね絶対」

「あと…………」


 言いあぐねる様子の彼女に、「無理に言わなくていいけど」と私は言った。

 彼女にとって重い動機だとしても、やっぱり彼女がいなきゃならないわけじゃない。帰らせるべきじゃないかとも思うけど、電車は間もなく目的地に着くところだった。

 スピードを落とし、ホームに近づいてゆく。相川さんがお守り袋を返そうとこちらに寄越した時、ポケットでスマホが震える。

 電話でなく、LINEの通知がポップアップしている。藤田さんだった。一緒に美咲さんから話を聞くことになっていて、だからその連絡だろう、ちょうどいい、と思ったけど。


『旦那さんから連絡。奥さんが十五分ほど前に病院を脱走して今探しているそう。』


 思わず「は?」と声が漏れる。『あたしはタクシーでもう間もなく現着予定。着き次第旦那さんと探してみます。』と続く。


「丸屋恵那」


 相川さんの、少しだけ逼迫した声が呼ぶ。彼女は窓の外を見ていた。ホームに何か見えたらしい。電車が停まり、ドアが開くや否や駆け降りる。

 彼女が指差した先……さっき相川さんが声をあげたあたりの場所に、その人はいた。

 三番線の点字ブロック手前に佇むセミロングの女性。


「憑いてる」


 相川さんの言葉を聞くや否や駆け出していた。

 電光掲示板があと五分ほどで特急電車が通過すると知らせてくる。彼女が何をしようとしているか、つい一時間ほど前の光景が浮かぶ。人違いの可能性はあるけど、迷って取り返しのつかない事態になったら。


「星野、美咲さんっ!」


 大声で呼ぶと、彼女がこちらを振り向く――私は思わず足を止める。

 おどろきに目を見開く。見覚えがあった。まさか、そうだ、あの人……。


「……嘘」

「あなた……」


 五メートルくらいの距離で向き合う。彼女も私に覚えがあるような反応、やはりあの人に間違いなかった。

 そんな馬鹿な、いや、ちがう。むしろ必然だったんだ。

 だからあの時この人は川越先生のクリニックを紹介してくれたんだ。

 自分の母親だから。

 三十歳前後、眼鏡を掛けた繊細そうな顔立ち。

 約三週間前、日暮里の水子供養寺で、嘔吐していた私を介抱してくれた女性。納得すると同時にやっぱり、何でこの人までという気持ちに襲われる。


「なんで私の名前」

「事情は後でお話しします。ただ、私も美咲さんと同じです。自分の子じゃない赤ちゃんを身ごもってて、お話を聞くつもりで」

「あなたも……?」

「はい」


 彼女はやはりおどろいていたけど、疑っている風な様子はない。とりあえずこの場はこれで納得してもらえたようだった。


「あの、落ち着いてください。助かるかも、助かる手がかりがあるかも知れないんです。だから死んじゃダメです」


 彼女は一瞬目を丸くするけど、脇の線路に目をやり、「ああ」と言ってまたこちらへ。

 そして、予想だにしない言葉を発した。


「私、死ぬ気なんてありません……この子を、産まなきゃいけないんですから」

「……っ?」


 まだほとんど膨らみの見られないお腹に手を当て、慈しむような口調で言う。


「どういうこと?」


 後ろから相川さんが私に尋ねる。私もおどろいたけど、彼女からしたら全く意味不明だろう。美咲さんは中絶しようとしたんじゃないのかと。


「川越先生、美咲さんに無理矢理手術をしようとしたんですよね」

「ええ」


 相川さんが小さく声を漏らす。私も、藤田さんに話を聞いた時は信じられなかった。

 他の犠牲者たちと同様死ぬ可能性が高いとわかっても美咲さんは絶対に産むと言い張り、川越先生は彼女を強制的に全身麻酔で眠らせて手術に臨んだという。

 当然犯罪だ。仮に助けられても美咲さんには一生恨まれるだろうし、私を診た後なんだから次は自分に宿るのでは、という危惧が全くなかったはずがない。

 それでも川越先生は自分の娘を助けようとして、結果殺された。


「堕ろすなんてできません……。この子が私を殺そうとしてるなんてただの推測でしょ。それに夫との子じゃなくたって、私の子です……」


 どうやって孕んだかわからない、母胎を殺そうとする胎児。旦那さんからすれば完全な化け物かも知れない。

 けど美咲さんは自分の胎内で育つ生命の存在を一番実感する立場だ。

 代理母を務めた女性が親権を主張し遺伝子上の父母に赤ちゃんを渡さない、というケースが海外ではあるらしい。

 自分の子、自分が守る、自分が産む……そう思っている。

 会話の内容に周囲の客が怪訝な目で見てくるけど、本人は全く意に介していないようだった。涙を流しながら、美咲さんは私たちに懇願する。


「夫の近くにいたら絶対また殺そうとするから、逃げてきたんです。見逃してください……わかるでしょう? あなただって」

「わかる……わかりますけど」


 美咲さんは冷静じゃない。この場はとにかく落ち着かせて病院に戻ってもらうべきだ。

 また殺そうとすると彼女は言うけど家族だって今の状況で強硬手段にはそうそう出られないだろう。

 でも、最終的には。

 私たちはこの怪異を収拾する鍵になり得ることを期待して彼女のもとへ来た。事の次第によってはお腹の子を殺すかも知れない、完全に無に還すかも知れない。そんなの最悪の裏切りだ。


「あなた……」


 私が迷っていると、相川さんが初めて美咲さんに対して呼びかけた。


「本当に自分を殺そうとしてても言えるんですか? 産むなんて」

「相川さんっ!!」


 なんてこと言うんだ。

 たしかに、美咲さんは推測に過ぎないと言うけどそうなる可能性は依然十分で、だから私達は代わり雛を持ってきた。その危惧は正しい。 

 ただ今言っていいはずがない。

 けれど美咲さんはそう動揺してはいないらしい。ゆっくり、小さく、頷いた。


「子供に殺されるとしても、私が子供を殺すなんてしちゃいけない。どんな子だって、親だけは、拒むわけにはいかないんです。そういうものでしょう、親って」


 そうじゃない親はたくさん知ってる。以前の私でも同意しかねるような、無邪気な、それとも悲愴な。

 相川さんには我慢ならないだろう。罵声を浴びせる様を想像する。


「なんで……なんで、そんなに、そんななら、なんで……」


 実際に彼女の口から漏れたのはぐちゃぐちゃした言葉だった。顔を歪ませ声を震わせ。

 多分怒ってはいる。それと同じくらい悔しそうで悲しそうで苦しそうで。

 相川さんが目の前の「親」に抱く感情は、「なんで」の意味は、きっと私が察した気になってはいけないものだった。


「産みます、私……一人でも、どれだけ苦労しても、どんな子でも、この子を幸せにしたい」


 泣き笑いで美咲さんが言う。

 私は、この人がここまで言う理由をなんとなく察している。背景にあったらしいことを聞いている。それでも理屈抜きに、この人は裏切れない。

 怪異の収拾という目的を脇に置いて、「もう一つの可能性」を期待してしまっていた。

 川越先生を殺した理由が単純に「産まれてきたいから」なら。

 母胎を殺すことなく再び産まれることを望む、邪坊と呼ばれた怪異の中にそういうもいるなら、と。

 私の時は、これ以上なく拒絶されたけど、でもそんなことがあったっていいじゃないか。


「……っ」

 

 えう゛え゛え゛ぇ


 思わず息を呑む。

 美咲さんのお腹のあたりに、黒く変色した体の胎児が浮かんでいた。その子は笑顔で斜め上に手を伸ばしている。

 伸びた手の先には、虚空に浮かぶまた別な水子の霊。

 指が六本ある手を伸ばし、差し出された手を握る。赤ちゃんにしては異様にくっきりした眉と鼻筋。掠れた喘ぎを口から漏らしながら、その顔はたしかに笑っていた。


「優、くん?」


 美咲さんがはっきりと名前を呼ぶ。見えている。

 トリソミー18、エドワーズ症候群。美咲さんの第一子・優真くんに見つかった先天性疾患だ。死産になる確率が極めて高く、産まれてきても一年以上生きられるのは一割程度。

 あなたたちもこの子も、産んでもつらい思いをする可能性が高い、出生前診断の結果が出た段階で、川越先生はやんわり中絶も提案したらしい。

 だけど星野夫妻は産むことを選んだ。心不全で亡くなるまでの二週間、美咲さんは起きている時間の殆どを保育器の中の息子に付き添っていたという。

 そして今、優真くんは。


「っ!?」

「美さ……」


 我が子の手に引かれて美咲さんの体は宙を舞い、すぐ脇の線路上の空間へと吸いこまれていく。特急電車が突入してきていた。

 美咲さんの右足へ飛びつこうとする。

 いっぱいに手を伸ばす。

 相川さんは助けられたんだ、今だって――指先が空を切った。

 美咲さんが絶望した顔で、二人の赤ん坊が笑顔でこちらを見ていた。

 親にどんな事情があろうとどれだけ愛情を注ごうと覚悟を決めようと、そんなことは無関係にこの子達は拒絶して嘲笑して踏み躙って自分ごと殺す、親を全否定する力があるのだ。

 その笑顔が急に歪む。恐怖に引きつる。

 先頭車両が美咲さんに接触する、ほんの手前で。


「っ!?」


 電車が止まった。

 何もない線路上で、一瞬で、壁にぶつかったみたいに止まって。

 車体が潰れた。

 凄まじい金属音と共にひしゃげ、火花、砕けた窓ガラスが飛び散る。

 車のCMで見る衝突試験を連想する。でも特急電車のエネルギーは何百倍何千倍もあるはずで、高速から一気に停止した車体は、勢いで後ろまでレールから跳ね上がった。

 何十トンもあるはずの車両が安っぽく宙を舞う。

 何、え、これ……。

 車両がホームへ倒れ込んでくる。

 みんな、美咲さんが引き込まれた時からほとんど動けないままだったと思う。私も巻き込まれる位置にいて、ほとんど呆けたまま、体勢の崩れた体は上手く反応できなくて。

 銀に青ラインの「壁」が迫ってくる。避けられない。潰――。



「………………いや……あぁ、嘘」


 焦げた金属と、血の臭いがした。

 私と相川さんは、怪我一つ負わずにホームに立っていた。

 電車は私に当たらなかった。ぶつかる直前、間違いなく私を押し潰していたその軌道が急に変わって、本当に私の肌をなでるみたいに掠めていった。

 私たちは助かった。それで。

 私を避けた車両は一つ隣の線路を縦断して金網を突き破り、駅の外まで飛び出している。車体の下からは人の足が覗き、割れた窓から血だらけの上半身が突き出す。。

 両脇のホームはどちらもめちゃくちゃに、自販機も売店も破壊され、ホームの利用客や窓を突き破って飛び出した乗客が転がっている。


 ああんぎゃんぎゃあああああんああ


 泣き声が響いていた。怪我をした人が痛みで泣いているんじゃない。ハナが。染谷さんを殺した時のように。


「嘘だ、嘘、こんな……なんで、ダメ、ダメでしょっ」


 死んでいる、何人何十人何百人、人が死んでる。

 ホームも線路も電車の中も死体。

 無事な人間はほとんどいなかった。私と、私のすぐ近くにいた相川さんや他に何人か。それに。


「あああああああああっ! いやああああああああああああっ!!」


 線路に落ちて、だけどやはり無傷の美咲さんが絶叫する。虚空へ向かって伸ばした手の中に優真くんを抱いていた。しかし。

 

 おおぉんぎゆっ


 霊体が目に見えない力によって、一瞬で微塵に引き裂かれる。無数の肉片となった魂は、宙に溶けるように消えていく。

「成仏」なんかじゃない。

 美咲さんにも確実に見えていた。彼女が産み落とし、二週間で死に、自分を殺そうとした我が子が何の救いも得られないまま手の中で無に還った。

 その傍らでは、もう一方の、邪坊が泣き声をあげている。そっちは何もない。


「ああああああ……ああぁあぁあ、あ、あ、あっ……あーーーー」


 美咲さんは滂沱の涙を流して泣き叫んだ。

 そんな、そんな………………。

 やがて、邪坊が泣くのをやめる、そして。


「あ゛」


 叫びが唐突に途切れ、目を見開き、体が大きく痙攣する。

 大量の血がズボンに広がり、砂利に滴る。しょろしょろと尿を漏らしながら、体はゆっくりと仰向けに倒れていく。


「美咲、さん」


 線路上に飛び降り駆け寄る。濡れた砂利の上、倒れた彼女にはまだ息があって、ぱくぱくと口を動かす。声は出ていなかったけど、なんと言ったかわかった。


『ごめんなさい』


 それを最期に目から光が消える。ズボンが小さく膨らんでいたけど、その魂は、もう姿が見えなくなっていた。


 ぱちぱちぱちぱち


 ハナが笑顔で手を叩き、こちらを覗き込んでいた。


「くぅっ……、う、う、……! あ、あぁぁ、悪魔っ」


 美咲さんの子は生まれることなんか望んでなかった。美咲さんの子が特別でもなかった。

 美咲さんも私も電車に衝突する手前であの力が働き、守られた。美咲さんの邪坊だけじゃなかったんだ。見えない巨大な力が私を、いやハナを守った。

 大勢の人を巻き込んでまで彼女の死を阻止して、似通った境遇のはずのあの子まで、それで、結局すぐに美咲さんも。

 何なの、なんでここまで弄ぶの。殺せたじゃないか。私なんか。あんなにも強大な力があるのに。 

 なんで守ったの、なんで守ったのに殺すの。死にたいの、生きたいの、一体


「っあ」


 首から何かするりと滑って、砂利の上に落ちる。

 白い紐だった。代わり雛のお守り袋に通して首に掛けていた下げ紐。

 両端が途中で千切れていた。お守り袋は、ない。

 何故――電車が掠った時しかあり得なかった。


「……っ」


 吐息が顔にかかる。尿と青臭さの混じったキツい臭いがした。

 私のすぐ横に白い顔があった。

 もたれかかるようにして、ハナが私の背後にいた。首筋や腕に触れる裸体はひどくぬめっている。血か汗かはわからない。

 脂っぽい黒髪が垂れて、その間から覗く血走った目が私を睨む。

 真っ赤な唇の端を裂けるくらいに吊り上げている。横から突き出した右手には血に濡れた短刀が握られている。

 その切っ先は、私の下腹部へと向いている。

 あの時と同じ、でもあの時とちがって今は。


「丸屋恵那っ!!」


 相川さんの声。

 相川さん、逃げ――痛みが全身を貫き、私の意識はぷっつりと途絶えた。

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