少量の幸福感

 御影は「お風呂を借りたい」と言って俺より先に風呂に向かった。居候の分際で家主より先に入浴するなんて。そうも考えたが、思ったより自分は腹が立っていないことに気が付いて何だか恥ずかしくなった。



 まるで、嬉しいみたいだ。



 思えば、あの頃は兄以外の誰かと住むことなんて考えられなかった。自分の傍に兄以外の人間がいることに違和感と、少量の幸福感を覚えていた。


「お風呂ありがとう」


 突然、扉が開く。咄嗟に顔を伏せたが、間に合わなかった。


「葵くん……なんで泣いてんの」


「な、泣いてない。見るな」


「泣いてるじゃん……どうしちゃったの」


「どうって、何もな、」


 言葉を遮って御影に抱き締められる。御影は無言で俺の頭を撫でる。その優しい手つきに、温かい体温に、涙が溢れてくる。こんなの、知らない。


「う、う……ふっ……うぅ、う」


 止まらない嗚咽に、御影は「焦らないでいいから」と背中をさすってくる。


「なんで泣いたかなんて、もう聞かないから。俺が葵くんを守ってあげるから、だから……今は思い切り俺の胸で泣いてよ」


 御影の戦略にまんまと嵌められているような気がする。次第に「こいつは本当は優しいんじゃないだろうか」とか「本気で俺のことを思ってくれているのかも」とか思ってしまったりする。そういえば俺は、どうして泣いているんだっけ。



 ──それでいいのかも知れない。



 今の俺には、こいつが必要なのかも。あの最悪な青春から背中を向けるためには、御影絢斗あやとという存在が。



 その日を境に、俺と御影は少し仲良くなった。仲良く、という表現が正しいのかどうかは分からないが。俺が御影に仕事を教える代わりに、御影は俺の生活習慣を徹底的に変革していった。



(1)煙草は1日5本まで



「5本はちょっと厳しすぎだろ!」


「喫煙者じゃないからよく分からないけど、さすがにヘビースモーカーすぎるからとりあえず本数は減らして。葵くんが死んだら俺、本当に生きる意味ないんだから」


 唐突な告白に顔を赤くしながら、5にバツ印をつけて7にする。不本意に頬を染めた俺に、御影は嬉しそうな表情を向けて微笑する。



(2)コンビニ弁当は控えること



「でも俺は自炊できないんだ」


「なんで? 葵くん、料理道具は持ってるじゃん。本当は料理するんじゃないの」


 兄からの言いつけを未だに守っているなんて言えない。俺は兄以外の人間に対して料理をしてはいけない。俯く俺に、御影は溜息をついた。


「どうせ、あのイケメン兄ちゃんのためなんでしょ。そういう顔してる」


「えっ」


 困惑する俺をよそに、妬けるなぁ、羨ましいなぁ、と周辺を転がり回る。


「じゃあ、俺が作るよ。うん」


「え……御影、料理できるの」


 どうやら、この件は解決したらしい。御影が作成したパワーポイント「ふたりの同居生活のために」の次の条項に目を通す。



(3)御影絢斗以外の人間を家に上げない 不用意に関わらない 遊びに行かない 飲み会に行く時は誰と行くか・どこに行くか・何時に帰るか伝える




      なんだ、これは。

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