第16話 明治の教科書は会津をどう書いたか?

 こんにちは、井上みなとです。

 そんなわけで16話もエッセイ風です。


『明治の教科書は会津をどう書いたか?』


 これを調べてみようと思ったのは『“半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料』の記事に、こうあったのを見て興味を持ったからです。


“元中学校教師で市教育長も務めた宗像さんによれば、戦前の小学6年の国定教科書には会津藩は薩長に「てむかった」と書かれていた”


 自分は自推しが井上毅いのうえこわし奥田義人おくだよしひとも文部大臣だったので、昭和戦前より前の教科書がどうだったのか気になって国立国会図書館デジタルで見てみました。


 実際の教科書描写ですが「薩長に手向かった(反抗した)会津」というよりも「会津の人たちはよく頑張って戦った」という感じの書き方もされていた気がしました。

 書かれ方も「薩長が強くてすごかったんだぞ」的な書き方ではなく「會津は奮闘したが、糧食がなくなって降伏した」という感じかと思います。


 具体的な例をあげていきましょう。


 まず『明治24年・尋常地理歴史教科書』。


「徳川氏の諸臣は、官軍に敵して、前将軍慶喜を佐けんとせしか、慶喜帰順して、水戸に引くと聞き、大鳥圭介、近藤勇等、下總甲斐の諸国に走り、彰義隊の兵等、上野東京に据る、官軍兵を分て之を討つ。後近藤等擒にせられ、彰義隊亦た破れて走る、独り大鳥克く戦ひて、官軍を苦しめか、終に敗れて會津に投ず。

 官軍進て陸羽に入る、仙台陸前米澤羽前等十六藩、會津を援けて之に抗す、官軍たびたび敗れしが、後、竟に之を降し、事始めて平けり」


 次に今も教科書会社として有名な、大日本図書の明治27年『にほんれきし教科書 下』


「会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬は勿論徳川氏の臣属等政権奉還の挙を喜ばざるものは皆この内旨を憤り動もすれば暴発せんとせしが慶喜は固くこれを諫めたりされども慶喜もまた朝旨初めに異なりてかくも急激な処置に出でしは薩長二藩が幼帝を挟み奉りその野心を逞くするに由れりとなし京都を去りて大坂の城に據りき

(中略)

 浪士が芝なる薩摩藩邸に屯集して暴行をなししより端なく衝突を来たし、幕府は遂に薩邸を襲撃してこれを焼きける(略)

 会津藩主松平容保は若松城に還り徳川氏のために為す所あらんとし奥羽諸藩は多く之に同盟して官軍に抗し其勢甚だ盛んなりき」


 明治32年の『新編日本史教科書』。


「徳川氏全く扈従したれども、餘燃は未だ消えず。会津藩主松平容保その領地に帰り、若松城(岩代)に據りて兵を挙ぐ。奥羽の諸藩多くこれに應じ、幕臣大鳥圭介もまた應ず。官軍路を分ちて攻む。會津藩士死を決して守りしが、粮盡きて如何ともすること能わず。九月容保降を乞ふ」


 ちなみに国定教科書になったのは明治35年です。

 理由は教科書会社が教科書を決定する学校長や知事に賄賂を贈る事件が頻発したためです。


 明治35年 三省堂『国史教科書. 下』


 これは今もある三省堂で、執筆者は後に伊東巳代治の推薦で伊藤博文の帝室制度調査局御用掛となった有賀長雄です。


「松平容保會津侯、松平定敬桑名侯等「薩藩、幼帝を挟み奉りて、専擅なり。早く上京して、君側も清めん」と主張す。

 會、江戸薩摩邸にある浪士、幕兵と戦いし報をあり、慶喜、意を決し、慶應四年正月三日、討薩表を草し、會桑二藩の兵を戦法都市、姫路、高松及び部下の三萬を以て、伏見鳥羽の両道より進み、京都に入らんとす」


「容保は、舊領會津に帰りて、奥羽諸藩を糾合し、薩長を討つ準備を為せり」


「官軍、東海、東山、北陸の三道より奥羽を征し、磐城平、二本松等の諸城を下し、會津の若松城下に集まる。城兵、よく防ぎ、婦女少者に至るまで死を決して奮闘せり。数旬にして、糧食尽き、容保出でて降る」


 明治35年、普及舎『日本歴史教科書』


「恭順を喜ばざるもの甚だ多く、彰義隊は日光問跡を擁して、上野寛永寺に據り、榎本武揚は軍艦を率いて品川より脱し、大鳥圭介は日光山に據り、松平容保は会津城を守れり。五月、益次郎彰義隊を平げぬ。圭介は日光山を棄てて會津城に集り、兵勢一時振ひしが、諸道の官軍来り囲み、九月に至りて、之を陥したり」


 明治35年、田沼書店『日本歴史教科書. 下』


「會津藩主松平容保は奥羽諸藩を総合して若松城に據れり、官軍乃越後口白河口の二道より進みて、これを攻め降し」


 大正5年、六盟館『日本歴史 : 師範学校歴史教科書. 中巻』


「會津藩主松平容保、奥羽・越後の諸藩と結び、若松城に據りて、死守の計をなせり。官軍、越後口・白河口より進撃し、若松城に迫り、明治元年九月遂にこれを降したり」


 大正6年、六盟館『日本史 : 統一中等歴史教科書. 下巻』


「會津藩主松平容保は、幕府の恩誼を思ひて、奥羽・越後の諸藩と結び、官軍に抗して、兵勢甚だ盛んなり。官軍はすなはち奥州口及び越後口より進みて、ひとしく若松城を囲む。城中にては、老幼婦女に至るまでみな軍に従ひ、死守して屈せざりしが、遂に糧尽きて、城陥り、その同盟諸藩も亦これと相前後して降り、奥羽全く平定せり」


 この後の時代も追ってみたかったのですが、この後になると、教科書をどう扱うかとか教え方の話になっていて、実際の教科書自体が残念なことに見つかりませんでした。


 そのため、記事にあった昭和の頃がどうだったのかはわかりませんでした。


 また、大正以降になると幕末がどうとかより「南北朝をどう扱うか」になり、昭和になると「皇運扶翼がどうこう~」とか、国史と皇国史観的な話になっている資料が多いです。


 会津藩は薩長に「てむかった」というのは確かに「抵抗した」というのがあるのですが、それは会津が悪かったとか言うのではなく、時には「徳川氏のために」と書かれているものも、明治の教科書にはあったようです。


※出ない旧字や読みづらい旧字は現代の漢字にしている場合があります。また、適宜、濁音(しをじとか)を現代風にしている所もありますのでご了承ください。

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