第3話 唇

 夕子と安倍は週に数回その駅で合っていた。

「立花さんって何でいつもニコニコ笑ってるんですか?」

 一番線のホームにあるベンチに腰掛ける。その右手の自動販売機が缶入の飲み物を落とす音がした。奥まった場所なのか、雑踏の音が少し小さくなった。

「ああ、亡くなった父が言うんです。『夕子は器量がよくないからいつも笑っていなさい』って。だから、私は……」

 安倍の声の聞こえる方向を見て、夕子は満面の笑みを見せた。

 

「安倍さん、安倍さんのお顔触ってもいいですか」

「えっ、あ、ええ、どうぞ……」

 夕子は大きいボールを手のひらで包むかのように手のひらで安倍の顔を包んだ。その指先が安倍の唇、鼻、目と探る。尖った顎を撫でる。そこのプツプツした感じは綺麗に剃り上げられた顎髭だ。

 

 ――優しそう。

 

「ふふふ、よく分かりました。安倍さんのお顔。鼻が高いんですね。優しそうな感じかな……」

 夕子の頭の中に安倍の顔を描いた。

「安倍さん、私、自分の顔見たことがないんです。変じゃないですか、私の顔……」

「丸顔で、唇がピンク色、鼻は高くないけど……可愛らしい顔ですよ」

 安倍の笑みを含んだ声が聞こえた。

「ああ、よかった。だけど……丸顔じゃなくて、シュッとした顔になりたいな……それと安倍さんのお顔が見たいな」と、夕子が呟いた。何故か涙が溢れる。

 

「あは、涙が出るよ。何でだろ?」

 夕子は涙を拭いながら、笑みを作った。

 夕子の顔の前にトニックシャンプーの匂いが近づいた。

 ――えっ、安倍さん?

 目の前の光が遮られ、夕子の唇に柔らかく温かいものがフワリと触れる。時間が止まっていた。雑踏の音が消えた。

 

 ――き、キス……?

 

 初めての経験だった。なぜか膝がガクガクと震えた。白杖のストラップが小さく震えるのが分かった。震える息を大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。溢れた大粒の涙が頬を伝う。

 

 ――な、何で? 私なんかに……。

 

「…………私…………帰ります……」

 

 ――ダメ、帰ったら……逃げたら……ダメ……。

 

 生温い風が吹き、ポツポツと降り出した雨が降り始めた。雨粒が地面で跳ねる音に包まれる。騒がしいツクツクボウシの声がサッと静まった。

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