第5話
冬に咲く寂し気な花。しかし、その花は寒さの中けなげに花をつけ、誇らしげに咲くのだ。そのような花を山中さまよっているうちに見つけた気分で松永はいた。そっと持ち帰ろうとしても、その生命力がそれを許さず、そこで凛と咲く気高さとかわいらしさを兼ね備えた花へどんな言葉を送ろうか、と彼は迷っていた。思いを募らせ、手紙でも書いてみようと筆を持ち、机に向かうがうまく言葉が出てこない。港で一人佇み目を伏せていた鏡子、自転車に乗り、歓声を上げていたあのひと。相反するようで、同じ人物である。そんな印象の隔たりが可憐で、松永の心をとらえて離さない。朝食をとってから、机に向かっていたが、言葉が紡ぎだせず、やがて暗くなっていった。
夜のとばりが降りるころ、松永の部屋のドアがノックされた。一瞬、彼は自分の思考を邪魔する音が気に障ったが、連載の原稿を取りに来る日だと思いだし、短く返答をした。ドアノブがゆっくりと回り、背の高い男がぬっとあらわれた。編集者の織田だ。部屋は暗く、織田であると松永が認識するのには若干の時間が必要であった。織田は言葉を発さず、電灯をつけた。優しい光が松永の目を刺激する。織田は黙りこくり立ったままであった。いつもなら、軽口の一つでも叩き、茶を要求するのに。もしかして連載の打ち切りか。そんな嫌な感情が襲う。松永はおずおずと口を開く。
「よう。遅かったな。原稿は出来ている。持って行ってくれ」
「ああ」
そんな短い会話がなされ、織田はつかつかと松永の指さす方向にあった原稿を手に取り、パラパラとめくる。織田は相変わらず口を開く様子がない。松永は戦々恐々だった。静まり返り、いつもと違う張りつめた雰囲気の中、時間はゆっくりと確実に流れている。原稿を読み終わって目線を原稿に落としたまま、唐突に織田は口火を切った。
「変わったな」
「何が」
「文体も、文章の雰囲気も。読者からも柔らかく切ないとか、胸が締め付けられて云々とか、手紙が来ているぞ」
松永はちょっと考えた。
「鏡子さんのおかげかな。俺は本当の恋を知ったんだ」
「鏡子」その単語を聞くと、どっかりと織田は腰を下ろし、居住まいをただした。そして、彼にしては珍しく、頭を下げたのだ。松永は驚きのあまり瞬きをも忘れるほどであった。
「すまない。俺が間違っていた。お前がこんなに真剣になってしまうとも思わなかった。あの時、本当のことをお前に告げておけばよかった。俺が判断を間違えなければ、松永はつらい思いをしなくて済んだのだ。そのことを謝らなくてはいけない。お前に何回も本当のことを言おうとしたが、鏡子さんと楽しそうにしているお前を見ていると、まるで手に取るようにお前の雰囲気が変わっていくのが分かった。おまけに原稿も滞りがなくなり、評判も良くなった。もう少し、もう少しだけ見守ろうと思っていたが、俺の良心がそれを許さない。お前がどれだけ傷つこうとも、俺を嫌いになったとしても。お前がこれ以上、あのひとに入れ込む前に止めなきゃいけないんだ」
堰をきったように沈痛な表情をして織田は話し出す。その眼には涙が浮かんでいた。松永にはその感情は分からなかった。しかし、ただ一つ覚悟をもって織田が話すということだけはわかった。
「鏡子さんはさる海軍のお偉いさん。そうだな名前は浅井。その男のお世話になっている方なんだ」
「浅井。俺でも知っている。たしか、日露ではかなりの軍功を挙げた方だよな。しかし、にわかには信じられない。お前、まさか俺をはめようとしているだろう」
震える声で織田に笑いかけ告げられたことを否定する。織田は首を振りため息をついた。
「やっぱり信じないか。お前、鏡子さんの何を知っている。」
「弟さんが探偵をやっているとか、親御さんが早くなくなって難儀したとかそんな話は知っている」
「そうじゃない。身の周りのことだ。家も職業も知らないだろう」
あえて松永が気づかないふりをしておどけていたが織田は容赦がなかった。鋭い剣が松永の心に刺さる。織田は懐を探り、一枚の写真を取り出す。それには和服の人物が二人寄り添い、写っている。松永は目をそむけたくなるような感情をこらえ、写真を見ると柔らかくほほ笑む鏡子と、少し年のいった柔和な印象を受ける男が立っていた
「その、弟さんにもらったものだよ。弟さんに連絡を入れてお前が入れ込んでいるといったらお前のファンだから助けてやると言ってくれたんだ」
「助ける。何のために」
「お前が海軍のお偉いさんの二号さんに手を付けるだろう。浅井氏がそれを知る。それが一番まずい。浅井氏はあれでいて意外と怒りっぽい。もう手の切れた方がいたらしいがその方に手を付けようとした男を闇に葬ったらしい。俺はお前を友だちだと思っている。浅井氏にばれる前にお前が伸ばした手を引っ込めさせたいんだ」
「ようはばれなきゃいいんだろ」
「もう、夢は覚める時間だ」
「あと一回だけ。一回だけだ。鏡子さんの気持ちを知りたい。俺の思いを告げても告げなくても。」
織田は深いためいきをついた。転がった石は壊れるか坂を下りきるまで止まらないのだ。
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