ジャスミンの島の物語
猫村まぬる
第1部 コタラジャから
第1章 小さな飛行機は空中で十二回転したあげく
1-1 落下
僕が乗った小さな飛行機は、空中で十二回転したあげく、水面に叩きつけられた。
確かに十二回だった。海と空が入れ替わるのを数えていたから、間違いない。
長い海外出張の最終日、ボルネオ島の地方空港からシンガポールに向かう便だった。一番早く帰れる便を選んだ。シンガポールまで戻れば、成田までは一直線だ。
そのはずだった。
搭乗前から、嫌な予感はしていた。
ほこりっぽいターミナルビルから、黒いベルベットのイスラム帽をかぶった職員の誘導で外へ出たとき、押し寄せる熱気の向こうに揺らいで見えたのは、飛行機というよりバスに翼とプロペラをつけたみたいな物だったし、コンクリートの平原をしばらく歩かされてタラップを上がった乗客は、僕の他には地元の行商人らしい数人だけだった。
あちこち破れた黒いビニール張りのシートや、猛烈な早口でやる気のない安全説明をする若い客室乗務員や、黄色く変色した窓枠などを見ていると、なにか嫌なものが胸の奥からこみ上げて来る気がした。
これがほんとにシンガポールまで飛ぶんだろうか?
予算とスケジュールに合うからって、こんな便を選んでよかったのか?
もちろん、そんな予感なんて後付けに過ぎないかもしれない。
仕事柄、年に何度かは飛行機に乗っているのだから、嫌な感じがすることなんて珍しくないはずだ。何も起こらなければ、そんなこと忘れてしまうだろう。
どちらにしたって同じことだ。
エンジンが火を吹き、主翼の半分が弾け飛ぶのを僕は見た。地元の乗客たちはアッラーの名を唱えたはじめたけど、僕には神様の名前が分からなかった。
そして十二回転。
「茉莉……」
悪い夢みたいに続く長い落下感の中で、僕の口から出たのは彼女の名前だった。
そして僕の意識は途切れた。
1-2 小屋
がちゃがちゃと鍵を外す音で目覚めると、木の扉が開いて、アディという少年が入ってきた。
いつもの通りなら、手にした丸い編みかごに朝食が入っているはずだ。
「
毎日何度か現れるこのアディという少年は、見たところ十六、七歳くらいらしい。
いつも
誰かの指示なのか、こうして僕に食事や水などを持ってくるのが彼の役目らしかった。
僕が床に座り、あぶった魚と白米とジャックフルーツの朝ごはんを食べているところを、アディは戸口の前に立って、大きな目で観察するみたいにじっと見ていた。
「今日で5日目だ」と僕は言った。
「ああ」
「ずっと外に出ていない。いつまでここにいなきゃいけない?」
「俺が決めることじゃないからな」
仏頂面で受け流しつつも、アディは一瞬気の毒そうな目をした。
「国の仲間や家族が心配してる。せめて電話だけでも使えないか」
「知らないな」とアディは首を振った。そして「
と、言ったように聞こえたが、この土地の訛りにようやく慣れ始めたばかりの耳では、確信は持てなかった。「
籠を持ってアディが下がり、元通りに施錠される音が聞こえると、僕はまたこの小屋に一人になった。
閉じ込められて5日目になるこの建物を、「小屋」と呼んでいいのかどうか。家具は何も無いけど、東京で言えば小さめの一軒家くらいの広さは十分にある。木造で、床板の隙間から下の地面や、時には犬猫や子どもたちが通るのも見えて、かなり高床になっているのが分かった。
生活は不快というほどでもなかった。食事は日に三度運ばれて来たし、大きな水がめに毎日水を入れてくれていたから、ある程度身体を清めることもできた。窓は一応、
決してひどい扱いではない。でもだったらなおさら、何のために閉じ込めておくのか分からない。
外は椰子の木に囲まれた集落で、熱帯アジアのごく普通の農村のようにも見えたけど、石畳の広場と、それをとり囲む大きな木造家屋は少し奇妙なくらい立派だった。
どれも高床式のそれらの家には、尖塔のように天を指すヤシ葺きの大きな三角屋根がそびえ立ち、柱や壁にはびっしりと隙間なく彫刻が施されている。
なかでもとりわけ大きな一軒の家は、寺院か何かみたいに屋根が三層になっていて、何かのシンボルのような威厳を感じさせた。
「どこなんだろう、ここは」
同じ独り言を口にしたのは、何十回目だっただろうか。
どこかの島なのだろうけど、どこの国かさえ分からない。
航路から何百キロも外れた場所に漂着したとは考えにくいし、聞いたことのない訛りとはいえ言葉も通じるから、インドネシアかマレーシア、ひょっとするとフィリピンの離島かもしれない。
アディに聞いても何も教えてはくれなかった。
熱帯の青い空と海の間をきりきりと十二回転した末に海面に突っ込んだ、その後の記憶は断片ばかりだ。
深い海の底のような暗闇、誰かが呼ぶ声、真っ白な砂浜が湾曲しながら続く風景、何人かの人々が話す耳慣れない方言、激しい頭痛、お香のような匂い、誰かに運ばれる感覚、そして気がついたときにはこの小屋の中だった。
東京と連絡を取る方法も無いまま五日以上経っている。さすがに事故のニュースは伝わっているだろう。それともここの連中が身代金を要求でもしているだろうか。
会社も焦っているだろうけど、僕は何とかして妹にだけは無事を伝えたかった。
あの子はきっと、ものすごく心配しているはずだ。昔みたいに取り乱したりしていなければいいのだが。
1-3 広場
一人になると僕は壁際に座り、板のすき間から広場を眺めた。
石畳の広場の中央には、テーブルのような大きな岩があり、その周りでは子どもたちがきゃあきゃあと声を上げながら遊んでいる。
少しでも情報を得ようと、昼間はできるだけ広場の様子を見ながら聞き耳を立てていたのだけど、農具や籠を持った大人や、犬、猫、鶏、アヒルなどが時々通る他には、朝から夕方まで入れ代わり立ち代わりで遊んでいる子どもたちの姿以外に、特に目につくものは無かった。
よちよち歩きの幼児から、中学生くらいの子まで、子どもたちはばらばらな時間に手ぶらで現れて、気が向いたら帰っていく。
それを見ているだけでもいくつかは気づきがあった。
たとえば言語だ。
僕は最初、アディと言葉が通じることに気づかなかった。学生時代と仕事を通じて苦労して覚えたインドネシア語が、ここでは全く通じない。そう思ったのだ。
でも風に流されてくる子どもたちの声を注意深く聞いているうちに、彼らの会話には二種類の言語が使われているのがわかった。
一つは僕には全然わからない、たぶんこの土地の固有の言語。
そしてもう一つは、発音がひどく訛っているせいで最初は気づかなかったけど、僕が知っているインドネシア語やマレー語と非常によく似た言語だった。
それに気づいた僕は、ことあるごとに身の回りの物の名前をアディに尋ねてみた。
すると案の定、ほとんどの日常語彙は僕の知っているもので、発音さえ規則的に置き換えれば、政治経済などといった話でなければだいたい通じることがすぐに分かった。
急に言葉が通じるようになった僕に、アディはひどく驚いていたけど。
それから気づいたのは、子どもたちがどうやら誰も学校に行っていないらしいということだ。
登下校の風景も、制服姿も一度も見かけない。
いまどきどんな国の田舎でも、小学校さえ無いなんてことは考えにくいのだが。
さらに不思議なのは、アディに限らず子どもも大人も、Tシャツやゴムサンダルなど現代的な物を誰も身に着けていないことだ。
男も女もみんな裸足で、ろうけつ染めや絣織の布を、体に巻いたり、肩に羽織ったりしているばかりだ。中には上半身裸でぶらぶらと歩く若い女性もいて、さすがにこれにはびっくりした。
身につけるものだけじゃない。スマートフォンも、車もバイクも電線も見かけない。
今時、どんなに
どこなんだろう、ここは。
よほど孤立した、特殊な種族の住む土地なのだろうか。
テーマパーク? 機械類禁止の特別なリゾート?
そんなことまで考えた。でもどれもありそうにない話だ。
とにかく、遊んでいる子どもたちを観察する以外に、僕にできることは無かった。
1-4 剣舞
岩の周りで遊ぶ子どもたちの顔ぶれは日や時間によって違うけど、全部合わせればひとクラスくらいの人数だろうか。中でもなぜか僕の目をひいたのは、少し年長らしい、すらっと手足の伸びたひとりの子どもだった。
その子も、普通にしているときは他の子たちに溶け込んでいるのだけど、竹の棒を使った剣術が始まると世界が一変する。
たちまちこの子の一人舞台になるのだ。
素人の目で見ても、この子の動きは鮮やかで優美と言うほかなかった。
無駄のない軽やかな足取りで縦横に飛び回り、自分よりはるかに体格のいい男の子が持った棒を、何気ない一振りでいとも簡単に払い落とす。でもその一方で、小さな子たちが打ち込んで来たときは軽く受け流して身をかわし、決して幼い肌に棒を当てるようなことはしない。
この美しい子どもの剣舞が始まると、僕はつい、謎だらけの今の境遇のことすら忘れそうになって引き込まれてしまう。
正面の相手から一瞬たりとも目を
この感じを、僕は知っている。
奇妙な話かもしれないけど、それは妹のバレエの発表会を見ていた時と同じ感覚だった。
高校に上がる前にやめてしまったけれど、あの時のあの子の身のこなしには、兄としての欲目を別にしても、確かに人を引きつける特別なものがあったと思う。
そしてそのことに思い至ると同時に、石畳の広場を飛び回るあの子もまた、あの頃の妹と同じような年格好の女の子であることに、僕は気づいた。
はじめは男とも女とも思っていなかったのだけど、そう思えば、いつも胸が隠れる丈の巻衣を着けている。関節の動きや肩幅から見ても、十代の少女にちがいない。
その妹も、もう少女ではなく、どうにか自分で稼げる大人になった。
今の茉莉なら、僕が出張先で音信不通になっても、なんとかひとりで対処できるかもしれない。
きっと、大丈夫だろう。
そう願うしかなかった。
◇
今朝も広場の子どもたちは剣術遊びに興じている。
幼い子らがふざけながら打ち合うのを、
子どもたちの手合わせは、勝ち負けを決めるわけでもなく、ひとり抜け、ひとり加わりしながら続き、少女は岩の上からそれを見守りながら時々何か言った。
僕はその光景全体を、遠くから眺めていた。
だんだん日が高くなってゆく。
じっと動かずに年少の子どもたちを眺めていた少女が、ふいに片手を下に伸ばした。
虫でもいたのか、たぶん無意識にだろう、少女は
その瞬間だけは、全く無防備な子どもの仕草だった。日に焼けていないすらりとした腿があらわになり、遠目にも白く見えた。
僕は自分が今までずっと一方的にこの少女の姿を眺めていたことに気付き、急に後ろめたくなってうろたえた。
その瞬間だった。
ふと何かを思い出したように、少女が顔を上げてこっちを見たのだ。
光線の角度が生み出すコントラストで、きりっとした目鼻立ちが遠くからでも分かった。
その目は壁板の隙間を射抜いて、真っ直ぐ僕に向けられていた。いや、そんなはずはない。でも少なくとも僕にはそう感じられた。僕は飛び退くようにして壁から離れた。
まさか、あそこから僕が見えるはずはない。それとも映画の剣豪みたいに、僕の視線の気配に気づいたというのだろうか?
あり得ない。
しかし、僕の姿は見えていないとしても、彼女がこの小屋を見ていたことに間違いはなかった。
ここに囚われている人間がいることを、村の子どもでさえ知っているのだろうか?
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