3 病室の住人たち
翌日にはもう、ぼくは病院での暮しに順応しはじめていた。いくらでも眠れるのだ。朝でも昼でも、なにも疲れるようなことをしていないのに、ふしぎなほどよく眠る。夕方になって母親が来たときも、ぼくは眠っていた。気がつくと、母親はぼくのベッドの上になにやら大きな荷物を置いて、荷をほどいているところだった。
「起きたの? ちょうどよかった」
母親はイチゴのパックをかかえて病室の一人ひとりに配って歩いた。母親があいさつの言葉を言うと、相手もぼくにお辞儀をしたり、おーと手を上げたりする。ぼくはベッドに正座をして、その一人ひとりに頭を下げた。
イーノの向かい、窓がわが佐藤さんというオジサン。ギブスで固めた右足をつるし、左肩も包帯でぐるぐる巻きにしている。しゃべると、とても大きな声を出す人だ。
そのとなり、ぼくの向かいで点滴をうけているのが本橋さんという若い男。おなかを切ったばかりらしく、上体を起こすことができない。
そのとなりの廊下がわが源さんと呼ばれているおじいさん。いつもテレビをつけっぱなしにしてイヤホンで聞いている。
ぼくのとなりの廊下がわは、やはり足にギブスをつけた中学生の男子だが、いつも松葉杖をコツコツならしてどこかへ行ってしまう。このときもいなくて、「あとでちゃんとあいさつするのよ」と母親は彼のテーブルの上にイチゴを置いた。
イーノはイチゴをもらって「ありがとうございます」とおじぎをした。「そう、いのりちゃん。しっかりしているのね」と母親が言ったとき、イーノはぼくを見てニコッとしただけで、それを訂正しようとはしなかった。
「どこが悪いのかしら。あんないい子なのにかわいそう」と、母親はぼくよりもイーノのほうを心配した。
母親が帰ってしばらくしたころ、となりの中学生がドアをバタンとならして戻ってきた。テーブルのイチゴを見つけた彼に、「あのー、かあさんがよろしくって」と声をかけた。彼はなにも言わず、そのイチゴをテーブルの隅によけた。そのとき、石でも投げつけたように大きな声が飛んできた。
「こら、中学生。ちゃんと礼を言わんか」
窓ぎわの佐藤さんがこっちを見ていた。中学生は「どうも」とぼくに小さな声で言うと、また松葉杖をついて出ていった。ドアがバタンと閉まった。
佐藤さんは「にくたらしいガキだ」と舌打ちして、「小学生!」と呼んだ。ぼくのことらしい。(佐藤さんは最後までぼくのことを小学生と呼んだ。卒業式のあった日に「ぼくはもう小学生ではない」と抗議したが、「でもまだ中学生でもないだろ」と取り合ってくれなかった)
「小学生、気にするな。相手にしなくていいぞ。反抗期なんだ、あれは」
どうやら彼はみんなからあまり好かれていないらしい。
「反抗期ってなに?」とイーノが聞いた。ぼくもよくわからなかったから、佐藤さんの答えに耳をかたむけた。
「ああいうのが、そうだ」
「ああいうのって」
「人の言うことを素直にきかないってことだな。イーノちゃんは違うよな」
「うん」
イーノは跳ねるようにして蒲団に入り、ぼくに顔を向けてつぶやいた。「でも、いつもどこに行ってるのかな?」
ぼくもそれがふしぎだった。どこか別の病室に友達でもいるのだろうか。それとも、ただあてもなく病院の中を歩きまわっているのだろうか。
ふと∧ さまよえるオランダ人 ∨という言葉が浮んだ。いつか読んだマンガに出てきた幽霊だ。人気のない廊下を、松葉杖のコツンコツンという音を残して、黒い影だけが移動していく。帰るところを失った影が、同じところを永遠にさまよい歩く、おそろしくさみしい映像が頭の中に浮んだ。
「ねえ、ヘンだと思わない?」
イーノがベッドを降りて、ぼくの耳元でささやいた。
「なにが?」
「だってこの部屋、大人も子供もみんなごちゃまぜでしょ」
言われてみれば、少しヘンかもしれない。
「本当はこの部屋、吹きだまりなんだって」
「吹きだまり?」
シーっ、と口に指をあててイーノは言った。
「普通の部屋じゃ迷惑になるようなヘンな人がこの部屋に集められているそうよ」
ふーん、とぼくは部屋を見わたし、最後にイーノの顔をじっと見た。
「あっ、わたしは違うよ」と、イーノはあわてて否定した。「ちょっとの間だけ、臨時でいるの。ベッドが空いたら別のもっと大きな病院に移るんだ」
イーノはいろんなことを教えてくれた。一階は外来や診察室で、二階がすぐ退院できる軽い人、三階は少し長く入院するけど元気な人、四階はもう治る見込みのない重病人。つまり上の階に行くほど天国に近づくのだという。本当かいな?
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