沙希は教室の席でもう一度本を確認してみた。なんの変哲もないごく普通の『銀河鉄道の夜』だった。どんなにページを繰っても昨日の夜に読んだと思った『続篇』はどこにもなかった。夢だったのかぁ。がっかりする。新しい物語に会えることほど心が弾むことはない。夢でも最後までちゃんと読んでおけばよかったなぁ、沙希が肩を落として本を鞄にしまい直すと、明るい声が教室の入り口から投げかけられた。


「沙希! 今日、部活出るよね?」

 同じブラスバンド部の百合が沙希に大きく手を振りながら駆け寄ってくる。今日は大会に向けてのパートオーディションが開かれる大事な日だ。でないわけにはいかない。母親にも何度も伝えているし、昨夜も「明日は大丈夫」と言っていた。


「もちろん」


 百合と手を握り合いながら、お互いの健闘を誓い合う。夏に向けて運動部の試合や文化祭、そしてコンクールなど様々なイベントが目白押しになる。ここでパートオーディションに合格すればたくさんのメロディーをみんなと奏でるチャンスが増える。音楽を奏でることは物語を読むことに似ている。吹いている間は常に音楽の奥にある物語が沙希の頭を横切り、演奏が終わった後は長く重厚な物語を読んだのと同じくらい疲れるけど、得難い充実感が沙希を満たしてくれた。


「沙希、家の手伝いで忙しそうだから心配してたんだ。よかった。沙希と一緒に合格しないと意味ないし」

 百合が人懐っこい笑顔を浮かべたまま沙希の目をじっと覗き込むように顔を近づけた。

「絶対二人で合格するよ。約束ね」

「うん。もちろん」


 手を振って自分の教室に戻っていく百合を見送っていると、ポケットの中でスマホが振動した気配がした。表示された名前は「お母さん」。心臓の鼓動が早くなり、手のひらにぬるりとした汗を感じた。ほんの少し前に百合が運んでくれた涼やかな風がすっかり自分の周りからいなくなってしまったのを感じながら、廊下の隅で電話をとった。


「沙希、悪いんだけど、今日の夕飯の準備お願いできる? 佳奈が友達連れてくるっていうのよ。ちゃんとしたもの用意しないと恥ずかしいじゃない」

 沙希は母親の声を聞きながらスマフォを握る指先が震えそうになり、ぎゅっと力強く握り直した。私は一体何にしがみつこうとしているのだろうと思いながら。


「お母さん、私言ったよね? 今日は部活で遅くなるって。お母さん、今日帰れるって……」

 沙希の言葉が言い終わらないうちに母親は勢いよく話し始める。

「予定は未定! しょうがないでしょ、同じチームの人に食事に誘われちゃったんだから。いろいろ仕事の人関係は大変なの」


 母に対して言いたいことはいろいろあったけれど、ぐっと一旦飲み込んで沙希は続ける。

「じゃあ、佳奈に今日は友達呼ぶのやめてもらうように言ってくれない? ちょっと遅くなっても簡単に夕食作るから」


 ハァァー、受話器から吹き付ける風を感じそうなくらい重たいため息が母親から漏れた。


「あのねぇ、沙希ぃ」


 ものを知らない小さな子に言い聞かせるような丸みを帯びた口調。

 母がこんな風に自分の名前を呼ぶのは、沙希に反省を求める時だ。廊下のざわめきが遠のいていくのを感じた。たくさんの生徒が華やかな笑顔で言葉を交わしているのに自分の周囲だけ膜が貼られたように音が鈍い。母親の声だけが耳を刺すようにクリアに聞こえる。


「佳奈は繊細なの。あなただってわかってるでしょ。お母さん、そんな風に無理やりあの子から友達を引き離すような真似したくない」


 遠い膜の向こうから名前を呼ばれた気がして顔を上げた瞬間、廊下の向こうで百合が沙希に手を振るのが目に入った。お母さん、私は? 私と友達の約束は? そう尋ねようとしたのに言葉が喉に詰まったようになってうまく口から出てこない。その隙に母はこう言って電話を切った。


「沙希、あんまりわがまま言わないで。部活も大事だけど、たまには家族ファーストでお願いね」

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