こんがり化けたモノクローム
つじは
こんがり化けたモノクローム
第1話 消えたあんぱん
「ええっ、どうしてですか!」
その声がロビーに響いたのは、じめじめとした空気が生暖かさを伴い始めた六月上旬のことだった。
例年であれば生乾きがトレンドを賑わせている時候だろう。しとしとと
連日、ニュースのお天気コーナーでは
無秩序にまき散らされたそれは円形ロビーの南側から差し込み、小さな塵を反射して不規則な形を成す。その光景が、暦に合わないからであろうか、今日は不思議と芸術的に映った。
ことその場に不相応な光景というのは、目立つものであると実感する。
「一番人気だったはずじゃないですか!」
こんな次第である。
強制のない衣替えもフェードの真っ只中。本来ならば、囲碁の対局、白石と黒石による高度な領地の奪い合いと喩えたいところである。しかし、いつまでも中学生気分ではいけない。そろそろ俺も現代文の成績を気にし始め、正確な情報伝達に努めたほうがいいのではないか。
つまるところ、餌と奪い合う黒猫白猫たちの取っ組み合いが繰り広げられていた。
高校生、昼休み、購買。理性は教室に捨てました。周知の通り、この世で最もモラルが失われる場において、彼らは人間をやめていた。
されど、
今や全員がボスの方へ目を向けており、彼女はまるでその種を統率する長のように映った。
「復活の予定はないんですか!」
小柄な影が前のめりになると、ご自慢のサイドテールが空を泳ぐ。本人曰く、いい土壌にパンという良質な肥料が加わって育まれた傑作なのだとか。自身の頭皮を土壌と喩えるのはいかがなものかと思ったが、なるほど確かに生き生きとしている。
「そう言われても、ウチでは何ともねぇ……」
購買の女性は困った様子で首を傾げる。どうやら小冬が言い争っている――否、一方的に責め立てている相手はこのおばちゃんのようである。気の毒に。
「そんなぁ……」
小冬は肩を落とし、じたばたと暴れていたサイドテールも生気を失う。意気消沈のご様子だ。
「ごめんねぇ……」
「うぅ、わかりました……。じゃあ、これとこれとこれとこれをください」
肥料は質も量も大事らしい。呆気にとられていた周囲が動き出すとともに、俺も即座に踵を返す。完璧なスタートダッシュも虚しく、小冬は頬を膨らませながら、走りと定義できそうなくらいの歩行速度で俺に詰め寄ってくる。
「うええぇん……ケンちゃぁぁん……」
「……なんだよ」
今だにそんな呼び方をしてくる小冬とは、幼いころから付き合いだ。背丈こそ伸びたものの、童顔とその振る舞いから感じ取れる印象は昔から何も変わらない。
とにかく、面倒事を持ち込んでくるという悪癖がすべてを台無しにしている。
小冬は腹からそのまま抜けてきたような、枯れた声で続けた。
「なくなったんだって……」
「ほう、何が?」
「しらたまクリームあんぱんだよ!」
俺は小冬に背を向け、二階の教室へ戻るべく歩き出す。
「まてまてまってーーーい」
小冬は息を荒げ、俺の肩を強引に掴む。
「これは……パンデミック!」
ちげーよ。
俺は説得にかかる。
「小冬、しらたまパン? は俺が待ったところで帰ってこない。わかるだろう」
「しらたまクリームあんぱんだよ!! でも正式には、おしるこ風ポイップパン!!」
パンでもナンでもいい。会話を成立させてくれ。
「なるほど。教室戻るぞ」
「タスケテ……」
ショックで海馬が損失している。
「もう助からないと思う」
ない手は尽くしましたが……。
「抗議に行こう!」
……は?
「講義?」
俺は見えないペンを持ち、勉強のジェスチャーをする。
「抗議」
子冬は足を前に踏み出し、俺のペンを握りつぶして拳を構える。
「いやだ」
「いこ」
小冬は都合の悪いワードは弾くBotと化している。こうなってしまっては、熱く反抗しても仕方がなかった。ひとまず質問に徹する。
「抗議って、どこにだよ」
「…………生徒会?」
なぜ疑問形。
「さすがに購買のメニューを決める権限まで持ってないだろ」
「だって! あたしが学校に来る理由第三位! 約二十パーセントを占めていたしらたまクリームあんぱんだよ!?」
……これはひどい。
「生徒会も、購買メニューの決定権までは持ってないだろ」
「学校に来る理由の約二十パーセントを占めていた、しらたまクリームあんぱんが食べたい!!」
再現性を確認。不自然極まりないレスポンスは仕様のようである。会話のホームランダービーならメジャー行けるで。行ってくれ頼む。
「せめて目安箱にしておけって」
こいつが暴れ回ると部活にも支障が出る。そろそろ食い止めないと。
「しかしこの怒り、どこかにぶつけずして何がパン愛か……ゴゴゴゴゴ……擬音……」
何がパン愛なんだ。
「矛先が間違ってるんだよ。付いていってやるから、目安箱な」
「……わかった」
今、こいつを一人で放っては危ない。
俺は小冬に同伴することを決意する。
その直前、周囲の生徒にやたらと声をかけて回っている怪しい連中を見かけたことは、とりあえず内緒にしておいた。
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