ポストジェンダー
ジェンダーを自発的に廃棄することを説く人々が支持する社会的、政治的、文化的運動がめざす社会が、近年のバイオテクノロジーと生殖技術の進歩によって実現されたような社会が、ポストジェンダーである。さて、私達が生きている間にそれがやってくるかどうかは分からないが――フィクションでなら、その青写真を描けるのだ。ポストジェンダー社会での人々の有り様を想像し描けるのは、百合やBLの専売特許である。
ポストジェンダー社会が前提としているのは、固定したジェンダー役割が社会、感情、認識にもたらすものは人間の完全な解放を阻む障害である、という考え方だ。
完全なるポストジェンダー――そう、なもりの『ゆるゆり』はある意味でポストジェンダー社会である。ポストジェンダーを実現する過程を描いた百合作品も、当然存在している。ここには、結婚以外の第三の道の可能性を示すものが存在している。
根本的に新しい社会関係や<新たな人間>を想像しようとする二十世紀の革命プログラムの一部がセクシュアリティの解放であるとしたら、そうした野心は解消不可能な両義性を帯びることになるだろう。道徳的な偏見や法による禁止から解放され救い出されるべきなのはセクシュアリティなのだろうか――そうなれば、欲動はより開かれた多様なかたちで表現されるだろう。それとも、人間がセクシュアリティから解放されるべきなのだろうか――人間が実際は依存しながらも逆に人間を暴君のように縛ってきたセクシュアリティから、人間がついに解放されるべきなのだろうか。革命は、リビドーのエネルギーを解き放つのだろうか、それともそうしたエネルギーを、新世界設立という困難な仕事を妨げる危険因子とみなして抑圧することになろうのだろうか。一言で言えば、セクシュアリティは解放の目的なのだろうか、それとも解放の障害なのだろうか。
―― Aaron Schuster,『The Third Kind of Complaint』
こうした両極のあいだでの揺れは、十月革命の後の十年間にはっきりと認められる。革命後、セクシュアリティの解放を求めてフェミニストが声をあげたのだが、その声はやがて、ブルジョワの最終的な罠だとしてセクシュアリティそのものを無視するような、<新たな人類>を求めるグノーシス派コスモロジーの声にかき消されてしまった。
ジェンダーは2つ存在すると断言しようとすると、人はいつも臆病になってしまうが、ジェンダーの多様性についての話になるとその臆病さはどこかに消えて、ジェンダーは多数存在するときっぱり断言する。もしも性的差異をジェンダーという点から考えるならば、性的差異――少なくとも原理的には――それが完全に存在論化されるメカニズムと両立するようになる。
アレンカ・ジュパンチッチとスラヴォイ・ジジェクの私的な会話より
ここに問題の核心がある。近年のLGBTの流行は以下の3つの点において確かに正しい。標準的かつ規範的な性の二項対立を「脱構築」している点において。そして、性の二項対立を脱・存在論化している点において。最後に、性の二項対立を、緊張と矛盾に満ちた偶発的で歴史的な構築物として考えている点において。しかしながら、LGBTはこの緊張関係を次の事実に還元してしまう。
それは、性に関する立場の多様性は、男性/女性の二項対立という規範としての拘束衣を着るように強制されている、という事実である。われわれがこの拘束衣を脱げば、性に関する立場の多様性(LGBT等々)は完全に開花し、それぞれの立場は存在論的な一貫性をもつようになるだろう、というわけである。この二項対立の拘束衣を脱いだ途端に、自分がレズあるいはバイセクシュアル等々であることを十全に認識できるようになる。しかし、ラカンが語っていることのポイントは、敵性的な緊張関係は解消不可能であるということ、そうした敵対関係が性的なものそれ自体を構成しているということ、そして、性に関する立場の種類が増加し多様化してもわれわれがその敵対関係から脱することはできない、ということなのである。
さて、百合という力は、この問題に立ち向かうべきであろう。カール・マルクスは具体的な共産主義国家の青写真を描くことを拒み、それは自体は賢明な判断である事は誰の目に見ても明らかである。しかし、間違った共産主義――マルクス主義者を待ち受けるもっとも狡猾の一つの罠、それが失墜の切っ掛けを歴史における謬った転換に探し求めるという発想である。
晩年のエンゲルスにすでに観られた史的唯物論の実証主義的で進化論的な理解、国家発展段階への理解の混同に、失墜の端緒があったのでは?あるいは修正主義と第二インターの正統派が原因では?さらには、レーニンその人が元凶ではないのか?ロシアという遅れた間違った国で、プロレタリア独裁が樹立されてしまったことが原因では?はたまた、数十年前にある種の「人間主義的なマルクス主義者」たちが言い募ったように、後期マルクス自身の著作が初期マルクスにおける人間主義を放棄したことが原因ではないか?レーニンの崇高な計画を毀損した邪悪なスターリンこそ卑しくもマルクス主義を失墜させたのでは?――笑止!
肝要なのは、その失墜の原因自体を必然と捉え、弁証法的に包括しつつ歴史を進めることである。ゆえに我々が取らねばならない戦略はこうだ。百合という高潔なる力を偶然と必然が複雑に絡み合う歴史の中での媒介者とするのだ。今こそ百花斉放百家争鳴の時である。
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