なぜ人は時折「パーッと散財したくなる」のか。
なぜ人は「理由なく」他者をいじめるのか。
そしてなぜ人は生贄を捧げ「戦争を始める」のか。
これらすべてが同一のメカニズムのもとに起こっているとしたら。
黒幕も悪党も例外もいない。欲と業の思想を分かりやすく説明した評論。
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ジョルジュ・バタイユの思想は人を選ぶ。生と死があまりにも近い場所にあるのだ。ぎらつく太陽のようなエネルギーを持ち合わせながらも、それは読む者を励ましたりはしない。干ばつを引き起こす熱線のようなものである。
しかし、その強烈な力が多くの人を魅了している。そして、現代においては更に説得力が増していると言ってよいだろう。
欲望に貴賤はない。ただ常に「過剰」であることを宿命づけられたヒトが生み出し続ける副産物である。
その好例が「デスゲーム」に対する盛り上がりである。
常識的に考えれば、そのような催し物は狂気の沙汰であり、開催者はとんだ冷血漢だとなるわけだが、バタイユ的に見るなら、これは視聴者(ひょっとするとゲーム参加者すら)も含めた壮大な蕩尽なのである。
もちろん、この「視聴者」には作中だけでなく、そのデスゲーム作品を見る現実世界のユーザーも当てはまる。
全人類が血も涙もない、他人の不幸を望む存在だと述べているわけではない。
話は逆だ。血も涙もあるからこそ、無性に浪費したくなる瞬間が生まれるし、そういうサガを持たざるを得ないと言っているのだ。
それはパーティーで食い散らかされたオードブルであり、動画の企画で大量に買われた(大半が捨てられるだろう)商品であり、人の命や尊厳ですら「祭り」の場では射的の景品と化す。
バタイユの思想は受け取り方によっては、かなり誤解を招きそうな内容であるし、他者に気軽にお勧め出来るものでもない。
ただ、特定個人/組織に対する善悪によるレッテル貼りや、みんなや社会が一様に悪い、あるいは自然のままで良いみたいな、何となく「自分には関係ない」方向に持ってきがちな思想に比べると、まだバタイユのギラギラした意見の方が肌に合った(個人の感想)。
蕩尽を前に、人は恍惚を浮かべる。
それは夏祭りの終わり、打ち上げ花火を見つめた時の感覚に近いだろう。