滞在三日目も変わらず晴天。

 空はどこまでも高く広く、日差しは夏らしく刺すような鋭さだった。

 祖母に自転車を借りた海斗は、姦しく鳴く蝉の声を聞きながら昨日の海岸を目指し、道路沿いの道を疾駆していた。

 目的はあの少女。

 会って一言、たった一言昨日の礼を言う。ただそれだけだのためだった。

 名前も何も知らない少女に、約束もアテもなく会いに向かう海斗を他人は酔狂と言うかもしれないが、海斗自身には不思議と確信があった。彼女はきっとあの場所に今日もいるという。

 なお、春香は「行かない」と何故かヘソを曲げていたため、海斗は祖母に自転車を借りて片道30分以上も炎天下の中走る羽目になっているのだが。


 ひなびた町を抜け、いくつかの田んぼを抜け、国道を走り、海の見える海岸沿いへ。緩やかな上り坂の道の脇には夏の鋭い日差しを浴びてキラキラと光る海が見えるが、押し寄せる熱気を孕んだ夏の風と、自身にも降り注ぐ直射日光、そして自転車には意外と堪える長い緩やかな上り坂のため、ロケーションに気をまわしている余裕は海斗にはなかった。坂を登りきると今度は一転短い下り坂。そしてその先に昨日も訪れた遊泳場があった。昨日と同じように人の姿は疎らで、波も穏やかなものである。

 海斗は砂浜に沿う道の脇に自転車を置くと、人の疎らな砂浜を服を着たまま横切り、昨日自分が溺れた岩場の方へと進んでいく。靴を履いたままの海斗には岩場の凹凸は大した痛痒も感じさせるものではなかったが、靴を通して感じる感覚に、咄嗟のこととはいえ、よくもこんな場所で駆け出そうとしたものだと、昨日の自分に変な感心をしてしまう。

 暫く何を思うでもなく、まるで導かれるかのように岩場を進む。

 横手には海面から突き出した大きな岩が幾つも見え、その大岩に当たる波の音が不規則に、しかし優しく包み込むような音を響かせていた。

 そして、その大岩の中でも頭一つ大きい岩の近くの海面に、海斗は少女の姿を見つけた。

 仰向けに空を見上げ、ゆらゆらと波に揺られている姿。

 時たま思い出したかのよう平泳ぎの足で水を掻きすいーっと進んでいくその姿は、まるで海月くらげか何かのようだと海斗は思う。

 少女は何を思っているのだろうか、遠目に見るその表情は伺い知れず、しかし何となく声をかけるのも憚れるような気がした海斗は、周囲を見渡し手ごろな岩を見つけるとその岩に腰を下ろした。そして、波間をゆらゆらと漂う少女に視線を向け、彼女が泳ぎ飽きるまで、ただその姿を静かに眺めているのだった。



「雲~雲~、綿飴水飴葛切り餅~♪」


 暫くすると何か楽しくなってきたのだろうか、少女がよく分からない即興の歌詞を口ずさむ声が聞こえてくる。波の中で仰向けに歌うのは難しそうだが、歌は途切れることなく紡がれる。

 雲の形を食べ物に見立てているのだろう、次々に聞こえてくる食べ物の名前。

 綿飴から始まった歌は、ずんだ餅になり、鳥取名物『打吹公園だんご』になり、やがて「『天女のわすれもの』は巻~き巻き」に至ったところで、そのシュールさに耐えられなくなった海斗はついに「プッ」と吹き出してしまった。その瞬間――


「うへっ!?」


 少女は素っ頓狂な声を上げ器用に水の中から飛び上がると、一度潜り、海面から首だけ出したような状態に。キョロキョロと辺りを見渡し、岩場のに座る海斗の姿を認めると、すいーっと滑るように海斗の座る岩場の手前まで泳いできた。

 その顔は羞恥のためか真っ赤に染まり、その眼はジト目、とでもいうのだろう。


「キミ…… 聞いてたの?」


 昨日見た柔らかな笑顔とは違う表情の少女。あまり好意的な視線ではないが、嫌悪とも違う雰囲気。海斗はそんな少女の問いかけに昨日と同じように首を縦に振り応える。

 先程の歌を忘れろとでも言うのだろうか、真っ赤な顔でじぃっと海斗の顔を見つめる少女は、ぽつりと一言――


「…… えっち」



「は?」


 えっち? 変態と罵倒する意味での「エッチ」で間違いないのだろうか? 唐突に予想外の言葉を告げられた海斗は、その言葉を理解できず目を丸くし、思わず口を開けたまま固まってしまった。


「覗きは、イケない」


 真剣な表情で続ける少女の言葉にハッと意識を取り戻した海斗は、あまりにも楽しそうに泳いでいたために声をかけることを躊躇っていた、と慌てて釈明をしたが、その言葉に少女はジト目のまま――


「…… ナンパ?」


 ただ礼を言いに来ただけの自分が、なぜナンパ男扱いになっているのか。

 これまでの人生で一度も体験したことのない謂れのない窮地に、見るも無残に慌てふためく海斗は、兎にも角にも自分がここに来たのは礼を言いに来たのだと少女に告げる。


「お礼?」


 訝しげに少女は首を傾げる。

 海斗の言葉がイマイチぴんと来ていないような感じだが、果たして溺れた人間を助けておいて忘れるということがあるのだろうか。もしかして自分が何か間違っているのだろうか、海斗自身妙な不安に襲われ、思わず「昨日の……」と切れ切れな言葉で自分をアピールする。

 そんな海斗の姿を上から下まで舐めるように見ながらしばらくうんうん唸っていた少女が出した答えは、自信なさげな声で海斗の耳に届いた。


「もしかして…… 溺れてた子?」


 何故そんなに少女が自信なさ気なのかは海斗には分からなかったが、改めて「溺れていた子」という認識を聞くと何とも恥ずかしく思え、海斗は照れ笑いを浮かべながらも大きくその言葉を肯定し、そして岩場から海面を見下ろすような形だったが、深々と頭を下げて彼女に礼を述べた。

 海斗の目に映るのは自分の足と足元に広がる岩場。少女の応えはなく、耳に聞こえるのは波の音だけ。少女に応える様子がないため、少し不安に駆られた海斗が頭を上げると、目の前の水面には少女の姿はなく、代わりにいつの間にか海斗の左横ににこやかな顔で立っていた。


「キミ、名前は?」


 今度は棘のない優しい声。昨日、自分の身を案じてくれたものと同じ声に、海斗は素直に自分の名を告げる。


「カイト…… 海斗、うんうん」


 少女は海斗の名を噛み砕くかのように何度か反芻し、そして大きく頷くと、右手を海斗へと差し伸べた。まるで大輪の向日葵のような見事な笑顔で。


「私の名前は陽子だよ、よろしくね」



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