二人で夜空を眺めていると、小雪さんがポツッと呟きました。

　言葉の響きには親しみがこもっています。

「アナスタシアさん……」

　アナスタシアさんはすこし嬉しかった。

　常にクールで冷たい感じの小雪さんが、自分の事を『さん』づけで呼んでくれたのです。

　アムリア帝国第一皇女が、ささやかな友情というものを感じた瞬間でした。

「なんですか？」とアナスタシアさん。

　小雪そんが、

「いや……あと五日も行けばキリーにつく、貴女はイシュタル様にお会いになるが……こんなことをいってもいいのか……」

　アナスタシアさんが、

「いって下さい、構いません、私は覚悟を固めています」

「イシュタル様は夜伽の最中に、高ぶって相手を殺すとか、しかし私の代価は支払われているし、父が私を売り渡した以上、私はそれも運命と思っています」

「私は長くありません、いまさらそれがどのような形で、どのような時であっても、驚きはしません」

　アナスタシアさんは小雪さんが、そのことを教えてくれようとしていると思ったのです。

　しかし小雪さんは、

「いや、違うのだ、よく聞いて欲しい、貴女をこの道中見ていた、貴女は肝が座っている、しかも優しい、さすがはアムリアの第一皇女と思った」

「私は他人にこんなに親しみを感じたことは滅多にない、友情という感情は、陳腐な物と理解していたが……貴女にはイシュタル様の愛人仲間に感じるそのような親しみを感じる」

「だから一言お願いしたいのだ、イシュタル様と出会われたら、イシュタル様のこと、貴女の素晴らしさを見抜かれるだろう、そしてご下問があると思う」

「その時は、今思われている事を、思うままに返事されればいいが、『私の為になんでもできますか』との趣旨だろうが、そのようなご下問があれば、出来れば良い返事、従う覚悟を申し上げて欲しい」

「小雪さん、そのようなことをいっては……」とアナスタシアさん。

　小雪さんが、

「我が主は千里眼ともいえる方、そんなことはお見通しで有ろうし、配下の者がそのような行動を起こしても、怒こられる方ではない」

　そして、すこし考えたが、こうも云ったのでした。

「イシュタル様は、貴方たちがいう黒の女神様がお作りになったような、この世のものとは思えないほどの美しい方、そして十七八にお見えになる……しかも、黒い髪と黒い瞳……」

　アナスタシアさんは戦慄しました。

　黒い髪と黒い瞳……アムリア宮廷図書館で、その乙女の話を読んだことがあるし、誰もが知っている、この世界の創世の神話の中に出てくる、女神の約束、遣わされる乙女……

「それって……」といいかけたが、アナスタシアさんは言葉を飲み込みました。

　聞いてはいけない、小雪さんは私を信じていってくれたのだ、このことは死ぬまで鍵をかけなくては……

「ありがとう、小雪さん、必ず従う覚悟を示します」

　アナスタシアさんは心から感謝とともに、そう返事しました。

　イシュタル女王は、キリーの通称亡霊の館の謁見の間で、アナスタシア皇女を見下ろしています。

「私がイシュタル、貴方の主です」

「このキリーの町の施政権は貴方にゆだねます」

「本日をもって、ジャバ王国がアムリア帝国よりあずかり、防衛はジャバ王国が持つことになります」

「アナスタシア皇女、長旅ご苦労でした、すこしお休みください」

　そのあとは、ほぼ小雪さんの云った通り……

　そしてアナスタシアさんは、イシュタル女王の配慮で身体を治し、愛人として側に侍ることになったのです。

　蛇足でありますが、エラムの動乱が終わり、アナスタシアさんがホッパリアを訪れたことがありました。

　その時、一人の商人の妻が小さな銀のブローチを差し出し、これをお見せすればお会いくださると、謁見を申し出てきました。

　もちろん、アナスタシアさんはすぐに謁見、互いの無事を喜んだのです。

　商人の妻は小さい男の子をつれ、さらに生まれたばかりの女の子を抱いていました。

「できればアナスタシア様、この子に名前をつけてくれませんか？」

「私の名前はどうでしょう」

　その子はアナスタシアと名付けられました。

　　　　ＦＩＮ