第35話 謎の相手

 朝日の差し込む森の中には大きな湖も存在していた。森の中に忽然と出現するその湖はどこか神秘的で、訪れた者の心を清らかにするように感じられる。


 そこは王立カルロデワ学園の敷地内にある湖で、夏の長期休暇になれば学生たちが友人たちと訪れる有名な観光スポットだ。心地の良い風が辺りに根付く木々の葉を揺らし、水面にわずかな波紋を生じさせる光景はまさに絶景である。


 絶景ともいわれる湖には一人の人影があった。


 「ふふっ」


 ポチャリという水音を立てながら湖面に足を踏み入れるのはミルクのように白い肌と色素の薄い金色の髪をツインテールに括った翡翠を連想させる淡緑色の瞳を持った少女。しかし彼女の並外れた容姿よりもさらに目立っているのはエルフを想起させる長い耳だ。人族ではまずもって生まれることのない耳を持つその少女の正体は精霊族。


 湖面に足を踏み入れていたのは開幕を間近に控えた新人戦に精霊族側の代表として参加するシルフィーであった。シルフィーは一糸まとわぬ恰好で湖の中に入っていくと、両手で湖の水を掬いながら自らの肢体に流していく。


 このような開けた場所で生まれたままの姿をさらすことは一人の少女としていかがなものかと思われるが、幸いなことに時刻はまだ早朝である。それにまだ夏本番といえないこの時期に早朝から湖を訪れる学生は皆無だ。だからシルフィーは特に気にする必要なく水浴びを楽しんでいた。


 「やっぱり落ち着くね~」


 そう言いながら湖面に向かって仰向けに倒れ込んだシルフィーは空を流れる雲を見つめながら瞳をゆっくりと閉じる。


 耳に意識を集中させる水の音、風の音、木々が揺れる音、それに小鳥のさえずりまでもがシルフィーの耳に届く。彼女は今、この森の一部として時の流れに身を任せている。


 だからこそシルフィーはすぐにその存在に気づいた。森の中を湖に向かって歩いてくる一人の足音を。


 その足音は迷うことなくシルフィーの方に向かって歩いてきているが、不思議なことに気配を感じない。より厳密に言えば気配を殺していると言った方が適切だろう。


 何者かが気配を殺しながら自分の方に向かって歩いてきている。そのことがシルフィーの警戒心を強めるとともに、彼女もまた気配を殺す。


 そして自らの耳に意識をさらに集中させる。相手が気配を消しているならば、音や空気の流れを頼りにまだ見ぬ相手の位置を特定できるのがシルフィーだった。


 相手が敵か味方かわからない状況ではあるが、気配を殺して移動している以上は只者ではない。シルフィーは先手必勝とばかりにその相手に向かって魔術を行使する。


 魔術といっても殺傷能力は皆無に等しく、ただ強めの風を吹かせて相手のバランスを崩すものだ。まだ相手との間に距離はあり、風の強さを調整するのは難しいが、そこは精霊族側の代表選手に選ばれるほどの実力だ。


 相手のバランスを崩すほどの絶妙な強さの風がその相手に襲い掛かる。


 いきなりバランスを崩されるほどの強風が吹いたならば驚くに違いない。しかし驚いたのはその相手ではなくシルフィーの方だった。


 「今のって……」


 湖の中で気配を殺しながらも驚きの声を上げたシルフィー。彼女は自分の手を見つめながら今ほど体験した感覚に違和感を覚える。


 シルフィーが謎の相手に向かって魔術を使って生みだした風は確かに相手に襲い掛かろうとした。けれどもその直前でその風が忽然と消えたのだ。


 避けられたり、防がれたというのならまだ理解できる。それでも無味無臭で無色の風に対処できることには驚きを隠せないが理解はできる。


 だが今の相手は避けるのでもなく、防ぐのでもなく、単純に打ち消したのだ。一体どうやって打ち消したのか、初めての感覚に驚きを隠せないシルフィーは続けて魔術を行使する。


 今度は多少の殺傷能力を備えた風の刃。といっても、被弾したところで頬の薄皮が一枚ほど切れる程度の風である。


 シルフィーはその風の刃を三発、その相手に向かって撃ち出した。そして今回もまた撃ちだした風の刃が相手に被弾する直前で忽然と消えた。まるでその魔術が突然活動を停止したかのような事態に今度こそシルフィーは確信する。


 この相手は精霊族であるシルフィーであっても警戒すべき存在だということに。


 シルフィーが警戒した直後であった。今度はその相手側からの反撃がシルフィーのことを襲う。森の奥からシルフィー目掛けて撃ちだされたのは風の刃。その刃は先ほどシルフィーの撃ち出した風の刃と同等か、それ以上の威力を有しているように見える。


 シルフィーは自らも風の刃を撃ち出すことで、相手の刃を相殺する。両者の刃がぶつかり合って霧散した刹那、シルフィーは相手の刃が魔術的な要素を一切有していないことに気づく。


 「まさか今のは魔術じゃなく斬撃!?」


 相手の刃が魔術によって生み出されたものではなく、剣によって生み出された斬撃だと確信したシルフィーは信じられないといった表情を浮かべる。


 精霊族にも剣士は存在するが、その中に単純な腕力だけで今のような斬撃を生みだせる剣士は数えるほどしか存在しない。普通の剣士なら魔術的な補助を受けるはずである。それが非力な人族なら猶更。


 だが相手の剣士は紛れもない単純な剣の実力だけでその攻撃を繰り出した。相手が一体何者なのかという疑問が生じると同時に、このまま戦いを続けるのは危険だとシルフィーは判断を下す。


 シルフィーは湖から飛び出ると風を操って身体に着いた水滴を一瞬にして振り払う。そして近くに置いてあった着替えに身を包むと、すぐにその場から姿を消した。


 謎の相手が一体何者なのかという興味もあったが、この時期に問題を起こすわけにはいかないシルフィーはその興味を無理やり抑えつけてその場を後にするのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る