①
何故、何故俺はこんな状況になっているんだ、と八島は思った。
過去を遡れば、学生時代に興味本位で体験した消費者金融のバイトから始まったヤクザ人生は、順風満帆だった。
経営学、心理学を学んでいた八島にとって、誰にどのように貸して、どのように取り立てれば良いかは息をするように簡単だった。
最初はインテリがなんだと、偏見を持った先輩からの折檻で血反吐を吐くこともあったが、圧倒的に結果を出した八島には次第に誰も手出しできなくなり、結果に比例して組長からの評価も上がった。
最近では華僑との取引を行うために必要なある物品を敵対組織から強奪し、さらにその件で来た警察のガサ入れを躱したばかりだった。
全てが上手く行っていた。
貸金業で得た資金を元手に華僑との取引を推し進め、更なる実績を手に入れれば、組長の座、本家の幹部になることも夢ではない。
八島は今、華僑との取引に必要な物品、印鑑を体に隠している。
ガサ入れを躱すためにとっさの機転で飲み込んだのだ。
印鑑自体は手のひらに収まる程度のサイズであったので、嚥下するのに何ら苦は無かった。
口に入れる際に見た、印鑑に埋め込まれている青い宝石の輝きは、これからの栄光を予感させるように八島の目に映った。
明日には上位団体も含めた幹部会の予定がある。
時間の半分以上は飲み会に費やされるが、内容自体は企業の業績報告会議のようなもので、月のシノギの収益、抗争等の問題点報告、人ことなどがある。
八島はその場で、今後の華僑との取引から予想される収益を発表するつもりであった。
いま、八島を襲っている猛烈な便意の原因は下剤だ。
自然に出るのを待つこともできたが、あえて下剤を東谷に買いに行かせた。
万が一にも、明日の幹部会で「して、件の品は?」と聞かれた際に「は。未だ体内でクソに塗れております」等とは口が裂けても言えないからだ。というか言ったら体を裂かれるだろう。
しかし、東谷から聞いた効果が出る時間まではあと二時間以上ある。
取り立てに同行した後で家に戻っても十分に間に合うはずだった。
可能性としては偶然薬の効果が早く出過ぎたか、中卒の東谷が数字すら識別できない低能だったということだ。
八島としては後者の可能性が高いと思う。
以前三十万の取り立てに行かせたとき、八十万を取り立ててきたような逸話を持つ男だ。
ともかく、一刻も早く取り立てを終わらせる必要がある。
実際の所、八島の下半身状態は無理に歩くことですら戦線の崩壊を招く恐れがあるほどに切迫していた。
東谷は組織内で全方向拡散型SNS装置、意志を持った歩くスピーカー、と言われるほどの噂好きである。
組の裏切り者を山中に埋めている際に写真を撮り、インスタグラムに投稿しようとしたほどの馬鹿野郎であった。
取り立て中に漏らしたなどいうことになれば、文字通り光の速さで組織内外に問わず情報が世界に発信され、八島の極道人生は終わる。
二度と這い上がれないこと実上の死だ。
学歴のある八島ならば、極道の世界を追われたとしても何とか一般企業への転職や起業は出来るだろう。
その時のためのダミー会社もある。だが、立つ鳥跡を濁さずの文字通り、重要になってくるのは終わり方であると八島は考えている。
極道という生き方に疲れ、平穏な生活を求めてのリタイアならいい。
組織内での権力抗争に敗れ、命の危険を避けるために一般社会へ隠れるでもまだいい。
ただ、糞を漏らしたことが原因の、文字通り跡を濁しまくるこの終わり方だけは許容できない。
金では消すことの出来ない一生モノの負債を、八島は背負うことになる。
目下の条件は二つ。
一つは迅速に取り立てを終了させること。
二つは清潔なトイレで用を足すことである。
「兄貴! 兄貴、どうしたんすか⁉」
唐突に話しかけられ、八島の意識が下半身から目の前の取り立て行為に引き戻される。
「すげぇ汗ですよ?」
見ればプレッシャーを与える作業を中断して東谷がこちらを見ていた。
どうやら八島に話を振った際に呆けた顔と、我慢からくる発汗を見られてしまったようだ。
「な、なんでもねぇ」やや声が裏返りながらもなんとか返答する。
「あ! 気が利かなくてすみません! オラ! テメェが電気代払ってねぇから兄貴が汗かいちまっただろうがボケ!」
そう言いながら東谷は家近の頭を叩いた。
「すみません! すみません!」
叩かれた家近から自然と謝罪の言葉が漏れる。
「電気代も払わないで借金するとか常識無ぇのかよ、クズ!」
恐らく金貸しをやっているようなヤクザには言われたくないセリフだろうが、東谷は気にせず再び東谷の頭部を殴った。
「おい、もうその位にしてとっとと……」
取り立てを進めようとした八島を東谷が遮る。
見れば家近を押しのけて部屋の隅、ちょうどPCラックの前に置かれているものを手に取っていた。
「兄貴! とりあえずこれに座ってください!」
床に散乱するごみを押しのけ、東谷が持ってきたのはリクライニングチェアだった。
安物であるが座る部分がメッシュになっており、長時間座っていても蒸れず、「座り心地の良さ」が見てわかる。
これに座るのは完全に悪手である。八島は瞬時にそう判断した。
現在八島の下半身はかつて無い緊張状態にある。
具体的に言うと内腿をくっ付け、踵を内側に向けるイメージで下から上へ筋肉を絞り上げるような状態で門を強引に閉じている。
座るということは即ちその緊張状態を一度解く、つまりは門に隙間を開けてしまうということだ。
ブツは門から頭こそ出していないものの、緊張を解いた次の瞬間には映画『シャイニング』のジャケット絵のような状態になる気が八島にはしてならなかった。
しかも人間は反射の生き物である。
普段洋式トイレで用を足している八島の体は緊張状態+座る=出しても良いという誤作動を起こす可能性もあるのだ。
普段風呂で用を足す人間が、床屋で髪を洗われた瞬間に放尿するという例もあるという。
思考を廻らす。今まで数々の修羅場を潜り抜けてきた八島は、状況を的確に把握し、最適な行動を選択することには慣れていた。
口先一つ、行動一つで首か指が飛ぶ極道の世界を無傷で渡るには、必須の能力である。未だすべて残る五指をきつく握りしめる。
回答ここに得たり。八島はゆっくりと口を開く。
先ほどとは違い、意識的にドスの利いた声でこう言った。
「敏ぃ。テメェ何言ってんだよ。お客様がお立ちになってるのに、俺らが座るなんて出来るわけねぇだろ」
完璧だ。八島は確信した。
威厳を出しつつ、目の前の家近にもプレッシャーを与える。
そして自然と座らなくてもいい状況を作り出せるセリフだ。
東谷も思わず椅子を握る手に力が入り、「なるほど、流石兄貴……」と感嘆の言葉を漏らしていた。
(あとは目の前のガキから取り立てるだけだ。パソコンにフィギュア、適当なもん売り払って金にしたら、後は親に連絡すればいいだろ)
馬鹿は扱いやすくて良い。そう思った八島は息を漏らす。
できれば今後とも漏らすのは息だけにしたいと考えていた時、東谷が振り向きざま、家近に強烈なローキックを食らわせた。
回転が効いており、家近が背中から転がりながら後ろにあったローテーブルに頭をぶつける。
「クルルルルゥゥゥゥアアア! クソガキ! テメェが立ってるから兄貴が座れねぇだろうが! とっとと正座せいやぁ!」
突然の痛みに呻く家近を東谷は無理やり正座させる。
硬いローリングでの正座は堪えるらしく、家近の顔は苦痛に歪んでいた。
そして満面の笑みを湛えて振り返る東谷。「こういうことですよね! 兄貴!」と言わんばかりのその顔を見て、八島は東谷の前歯を全損させたいという気持ちが湧いた。
ヤクザは常にハッタリの吐き合いだ。
常に相手の言葉の裏を考えろという日々の教えが、無駄なところで活きてしまった。
「さ、兄貴。お客様はお座りになりやがりましたので、どうぞこちらのお椅子にお座りください!」
そこはお掛け下さいだろ、と反射的に心の中で突っ込んだ八島をよそに、振り向いた東谷は「なんだぁその顔はクソガキ!」と顔面に蹴りを食らわせている。
自然と、八島の視線はリクライニングチェアに向く。もう、「あ、いや、本当に座りたくないから」などと言える雰囲気ではない。
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