第19話。千智と傷痕

 年が明けた後の営業はいつもと変わらない。


 昼の営業が終わり、ボクは白葉しろはの為にコーヒーの準備をしていた。菜乃なのは買い物に出かけていて、黒蝉くろせみはこれから帰るところだった。


「黒蝉さん」


 ボクが黒蝉に声をかけたのは用があるから。白葉は店の奥に居るけど、ボクと黒蝉の会話は聞こえない。


「なに?」


「ボク……黒蝉さんの期待に応えられましたか?」


 不安になって聞いてしまった。


 黒蝉に怒られてから半年以上経っている。


「コーヒーの味は認めてる」


「いえ、白葉さんことですよ……」


「もう答えた」


 そんな言葉を口にして、黒蝉は扉の前に立った。


千智ちさと、ゴミ捨てておいて」


「わかりました」


 結局、ボクが上手くやれているかわからない。まだまだ不安は残っているけど、不安な気持ちを白葉に知られないように上手くやるつもりだった。


「白葉さん、ゴミ捨ててきます」


 ボクはゴミ袋を手に持って、裏口から店の外に出ることにした。そこから、ゴミ捨て場の方まで歩いていくけど、ボクは何かが焦げるような臭いを感じた。


 そこにはゴミ箱の影になって見えないところがある。臭いの元を辿れば見つけることは簡単だった。


「……っ!」


 赤く、揺らぐ炎。咄嗟にボクは火元を靴で踏んで消そうとした。まだ火が小さかったおかげか、それでも消化することが出来た。


 心臓が激しく動いている。落ち着きを取り戻すまで動き出すことが出来ず、これが何者かの手によって放火されたものであると理解するのに時間がかかってしまった。


「……っ」


 目の前に何かが転げるように倒れた。


「やっぱり、何かしてたか」


「菜乃さん……」


 菜乃の前に倒れている男。この場から逃げ出したところを菜乃に捕まったのか、男が地面に顔を伏せているのは自分が悪いことをしたと理解しているからなのか。


「おい、顔上げろ」


 その言葉で男が顔を上げた。


「この人……」


 男の正体は以前、白葉に言いがかりをつけていた人だった。ボクも顔を殴られ、菜乃が仲裁してくれた。あれ以来、店に姿を見せないと思っていたけど。


「前に店の窓ガラスを割ったのはアナタですか?」


「……」


 男は黙ったまま何も言わなかった。


 その沈黙は答えているようなものだ。


「千智、コイツは警察に突き出すからな」


「待ってください」


 このまま男を連れて行ってしまったら、何も問題が解決しない。だから、この人の事情をボクは知りたいと思った。


「アナタが怒っていたのは、コーヒーが美味しくなかったからですか?」


 男は眉間にしわを寄せる。閉ざされていた口が僅かに開いたのは、何かを語る気になったからか。


「……マスターの店をお前達はめちゃくちゃにした。店の内装もメニューも、そして、コーヒーも」


 やっぱり、この人は以前の店では常連客だったのか。白葉は以前からのお客さんも大切にしたいと言っていたけど、こんな結果は誰も望んではいなかった。


「店をめちゃくちゃにしてんのは、お前だろ!」


 菜乃が男に掴みかかった。


 窓ガラスを割ったことだけじゃない。この男は店に火をつけようとした。もう、話し合いですべてを解決出来るような問題ではなくなった。


 いくら自分が覚悟を決めても、それが相手に伝わるとは限らない。わかっていたことなのにボクは選択を間違えてしまった。


「白葉さん……」


 気づけば、菜乃の後ろに白葉が立っていた。


 もし、この場で白葉が男のことを庇ったりしたら菜乃が本気で怒ることはわかる。今の菜乃は感情を隠そうとしていない。


「菜乃ちゃん。離してあげて」


「白葉、アンタは!」


 菜乃が白葉に近づこうとした時、急に菜乃が動きを止めた。それは白葉の手に握られたケータイが既に役割を果たしていたから。


「白葉……通報したのか……」


「うん。すぐに来てくれるって」


 恐ろしいくらい無慈悲に思える白葉の行動。だけど、次の白葉の行動は予想外だった。男に近づいて、その体を起こそうとする。


「──さん」


 白葉が名前を呼ぶと、男は一人で立ち上がった。


「千智くん。コーヒーをお願い」


「え、あの……」


「お願い」


 ボクと菜乃は状況が呑み込めないまま、店の中に戻ることにした。コーヒーはちょうど準備をしていたものがあるからすぐに出せる。ボクはコーヒーをカップに注いで、店の中で待っていた白葉に渡した。


「ごめんね」


 白葉が受け取る時、そんな言葉を口にした。


 コーヒーが運ばれた先は、店の出入口で立っていた男のところ。白葉はコーヒーを男に渡していた。


 男は戸惑いながらも、カップを手にして、コーヒーを飲んだ。ただ、一口でやめたのは、美味しくないと思ったからか。


「え……」


 その時、男の瞳から涙がこぼれおちた。


「俺は……なんて、馬鹿なことを……」


 吐き出された男の言葉。それは後悔したからこそ出た言葉なのか。ボクのコーヒーを飲んで、男の中で何かが変わっただろうか。


「千智のコーヒー。マスターの味を思い出すって、お客さんが言ってるの知らないか?」


 菜乃がボクに教えてくれた。だけど、ボクは白葉がコーヒーの入れ方を教えたれたから、似たんだと思っていた。だから言葉の意味に気づくことが出来なかった。


「千智、自信持ちなよ。千智のコーヒーは誰かを幸せにすることが出来る。たった今、一つの憎しみが消えたのは千智のおかげだ」


 駆けつけた警察官に男は連れて行かれる。その時の男の表情は穏やかで、自分のやったことをすべて認めていた。


 事情聴取が終わり警察官が居なくなった時。


 白葉は地面に座り込んだ。白葉は子供のように泣きじゃくり、自分の選択を後悔しているようだった。


「白葉さん……」


 自分の願いを切り捨てででも、白葉はみんなと店を守ろうとした。例え、男が改心したとしても、ボク達に刻まれた傷は簡単には消えない。


 その傷を忘れる為には必要なこともある。ただそれで、白葉が傷つくのはおかしくて。ボクは胸の奥が苦しくなる。


「菜乃さん……?」


 菜乃がボクの肩に手を置いてきた。


「千智、アタシさ。千智のこと、ちょっとくらい好きだったと思う」


「いきなり、なんですか?」


「ケジメ。いや、後押しってやつかな」


 押された背中。振り返れば、菜乃が優しい笑顔をボクに向けていた。きっと、それは姉が弟に向けるような表情だったと思う。


 ずっと、ボクのことを助けてくれた菜乃。菜乃みたいな姉がいれば、ボクはもう少し上手く笑顔を作れたのだろうか。


 ただ、ボクが一つ言えるのは菜乃には本当に感謝をしているということだ。菜乃のおかげでボクと白葉の絆が途絶えることがなかったのだから。


「白葉のこと傍で支えてやりなよ」


「菜乃さん、ありがとうございます」


 ボクは白葉に近づいた。その小さくなった背中を手でさすり泣き止むまで待つことにした。菜乃が先に帰って、二人きりになった後も、ボクは白葉の傍に居続けた。


「千智くん」


 そして、涙の止まった白葉がボクと目を合わせてきた。白葉の白い指先がボクの頬に触れる。白葉の顔が近づき、ボクの顔を白葉の吐息が撫でる。


 いったい白葉が何をしようとしているのか。


 ボクは白葉のしたいことを待つことにした。


「ありがとう」


 白葉の真っ赤に腫れた目。優しい笑顔。初めて見る子供ように無邪気な表情にボクは心が引かれる。


 これが今のボクと白葉の辿り着ける場所だった。


 信頼という目に見えないモノでボクと白葉の心は確かに結ばれた。


 それを愛というにはおおげさで。


 ボクと白葉は恋の始め方すら知らない。


 でも、それでもよかった。


 きっと、これから先の未来はもっとよくなるから。


 もう少しだけ、このままでもいいと思えた。

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