第9話。千智と借金
「二人とも何してるんですか?」
黒蝉はベッドの横に座り込んでいて、菜乃の方はベッドで堂々と眠っていた。
「
あれから白葉にコーヒーの入れ方を教わっていたから帰るのが遅くなってしまった。でも、二人が家で待っているなんて想像もしてなかった。
「黒蝉さんは起きてたんですね」
「わたしは自分の布団じゃないと寝れない」
どうして、二人が部屋に居たのか。
きっと、ボクの報告を待っていた。
「白葉さんのコーヒーを飲みました」
「ふーん」
「黒蝉さんは白葉さんがコーヒーを入れられるって知ってたんですか?」
黒蝉は顔を逸らした。
「シロちゃんが喫茶店を始めると言った時、コーヒーはシロちゃんが入れると思ってた」
菜乃と同じように黒蝉も白葉がコーヒーを入れられると知っていた。ボクに誰も話さなかったのは初めから白葉が喫茶店では自分のコーヒーを出さないと決めていたから。
「白葉さんから事情は聞きました。だけど。今あの店に必要なのは確かな味だと思います」
黒蝉が顔を戻した。ボクの顔に視線を合わせたまま黒蝉は立ち上がり、傍に近づいてくる。そのまま黒蝉の手がボクの肩に触れた。
「キミの言葉は信用に値しない」
「……っ」
ボクは一度、白葉から逃げてしまった。
すべてを理解したとしても、ボクが誰かの期待を裏切ったことに変わりはない。黒蝉の揺らがない表情の裏に隠された感情は怒りのようなものだと思った。
「ボクは白葉さんと一緒に前に向かって進みたいです」
「キミの平凡な人生にはシロちゃんが必要かもしれない。でも、シロちゃんの希望になれる人間は他にいくらでもいる」
黒蝉の指先がボクの首に触れてくる。
「キミが裏切るたびにシロちゃんは傷つく」
正しいことを言われている。
だけど、今逃げてしまったら、また白葉が傷つくことはわかっていた。だから、ボクは黒蝉とも向き合うことにした。
「ボクは二度と白葉さんを裏切りません」
「言葉だけならなんとでも言える」
黒蝉を納得させられる言葉はない。
言葉を迷う程、黒蝉の爪が皮膚に食い込む。
「黒蝉、その辺にしなときなよ」
菜乃が体を起こして目を覚ましていた。
「寝たフリに飽きたの?」
「いや、ホントに寝てたけど。黒蝉が怖い声出してるから目が覚めた」
またボクは菜乃に助けられた。
でも、このままだとボクと黒蝉の間に出来てしまった溝に白葉を巻き込むことになる。今、ボクが自分の力で黒蝉と仲直りしないといけない。
「黒蝉さんには、これから先のボクの行動で示します。もし、ボクが白葉さんを裏切ったと思ったのなら、黒蝉さんに殺されても構いません」
「あ、千智」
菜乃の言葉がボクの耳に届いた時、既に黒蝉が動いていた。黒蝉は腕を上げて、大きく動かす。動作に気づきながらも、咄嗟に対応なんて出来ない。
「……っ!」
そのまま黒蝉はボクの顔に向かって力いっぱいの張り手を当ててきた。張り手のはずなのに鈍い音が聞こえたのは、黒蝉に本気で殴られたから。
後からやってくる鈍い痛み。もう一度、黒蝉から同じことをされたら反撃を考えるような痛みに耐えながらも、黒蝉と向き合った。
「どうして、殴ったんですか……?」
「命のことを軽々しく言葉にする人は嫌い」
菜乃がボクに言葉を向けた理由がわかった。
決して、軽い気持ちで黒蝉に言葉を口にしたわけじゃない。それでも、本当に死ぬ覚悟もない人間が口にしていい言葉ではないと思った。
だって、ボクが決めた覚悟は白葉と一緒に居ること。死ぬつもりなんてまったくなくて、裏切った時のことなんて考えてもなかった。
「ごめんなさい……」
黒蝉の手がボクの頬に触れてきた。
「これから、キミの行動で示して」
前半の言葉は聞き入れてくれていたようだ。黒蝉は手で優しく、ボクの顔を撫でててくる。手が冷たくて殴られたところが少しだけ痛みが引くようだった。
「それじゃあ、わたしは帰るから」
黒蝉が扉に向かって歩き出す。
「黒蝉さん、ありがとうございます」
「人を殴ってお礼を言われたのは初めて」
妙に強く殴られたとは思ったけど、優しさを感じたのも間違いじゃない。だから、ボクは黒蝉の行動に感謝している。
黒蝉が部屋から出て行った。それから玄関の扉が閉じる音が聞こえたから、黒蝉が帰ったことはわかった。
「黒蝉を説得するなんて凄いな」
「菜乃さんは帰らないんですか?」
「いや、もう終電ないし」
「菜乃さんの家は近所ですよね」
まさか、このまま泊まるつもりなのか。
「正直、千智には期待してなかった」
菜乃の口から吐き出される言葉は黒蝉とよく似ていた。それを聞いて、菜乃にとっても、白葉が大切な人間であることがわかってしまう。
ボクは二人にとって大切な人を傷つけてしまった。
黒蝉が怒ったのなら、菜乃が怒るの当然のことだった。それでも菜乃は黒蝉からボクのことを庇ってくれようとした。
「ボクには覚悟が足りていませんでした」
「アタシは黒蝉みたいに言葉の一つにこだわるつもりはないけど。簡単に覚悟なんて口にする人間は軽く見えるし、千智の言葉に重みは感じない」
「ボクは本気で白葉さんと……」
「それは無理だ」
菜乃の言葉はいつでも真っ直ぐしている。
「千智はまだ白葉のこと何も理解してない」
「……っ。なんでもかんでも理解なんて出来るわけないじゃないですか!」
黒蝉に殴られた痛みのせいで、感情的なってしまったのか。菜乃の何も話してくれない態度にムカついたのか。きっと、その両方だったと思う。
「悪い。アタシの言い方が悪かった」
「悪いと思ってるなら、ボクが何を理解していないのか教えてください」
菜乃はボクの目を見つめる。
「白葉の家族のこと」
白葉の家族。確かに白葉の口からおじいさん以外の話は聞いてない。
「一度でも考えなかったか?喫茶店をわざわざ改装した時、そのお金を誰が出したのかって」
「……白葉の両親ですか?」
「正しくは父親の方。白葉が頭を下げて、父親から金を借りた。その金は返済期限も決められてる」
今になって、白葉がお金にもこだわっていた理由がわかった。
「もし、返せなかったら……?」
「白葉は父親の言いなりになる。まあ、父親にとって、都合のいい相手と結婚くらいはさせられるかもな」
「……っ」
白葉が結婚する。急な話に考えが追いつかない。
「そんな話……あるんですか……?」
「白葉が子供の頃からおじいちゃんの喫茶店に入り浸っていた理由。そんなめんどくさい家から少しでも逃げたかったからでしょ」
ボクは本当に何も知らなかった。
白葉が店を改装したのはボクの為でもある。
「喫茶店なんてやらなきゃ、白葉が立場を悪くすることもなかったと思うけど。今さら言っても仕方ないし」
菜乃がベッドに寝転がった。
「アタシは誰かが悪いなんて言うつもりはない。白葉には白葉の願いがあった。それを叶える為に自分を犠牲にしただけ」
「菜乃さんは……いいんですか?」
ボクはベッドに近づいた。
「よくないに決まってる。でもさ、友達の願いを叶えたいと思うのは、普通のことでしょ」
菜乃も黒蝉も白葉の夢を本気で叶えようとしている。その夢を今になって白葉が諦めたとしても、白葉の未来は他人に決められてしまう。
「菜乃さん……ボクは……」
「もう今日は寝なよ。難しいことは明日から考えればいい」
ボクの考えがまとまならないことを見破られている。ボクは諦めて、菜乃の隣に寝転がった。どうせ、菜乃はこのまま寝るつもりだろうし。
「おやすみ。千智」
少しだけ、ボクは菜乃のような姉がいればよかったと思ってしまった。そうすれば、この胸に詰め込んだ不安も少しは減ってくれる気がしたから。
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