第6話。千智と流血

 昨日、白葉しろは菜乃なのが喧嘩した。


 いや、そもそもあれが本当に喧嘩なのかもわからない。二人のことを何も知らないボクには理解なんて出来ないのだから。


「ふーん」


 今、ボクの目の前には黒蝉くろせみがいた。


 もう少しで待てば喫茶店の営業時間になる。白葉は表の方で開店の準備をしているけど、ボクと黒蝉は店の奥にある部屋で向かい合って話をしていた。


 白葉から昨日のことを黒蝉に話しておくように言われたからだけど、ボクが適任だとは思えなかった。


「黒蝉さんはどう思いますか?」


「ただのくだらない言い争い」


 ボクも本気で喧嘩したとは思ってはいないけど。


「放っておくべきですか?」


「なーは呼べば来る」


 菜乃を店に呼んだところで昨日と同じことを繰り返す気がした。菜乃はボクのことを庇ってくれたけど、二人が喧嘩をした原因はハッキリしていた。


「昨日、お客さんが怒ったのって……ボクのコーヒーが美味しくないからですよね?」


 黒蝉は手元にあったカップに口をつける。


「美味しくない。でも、飲めなくはない」


 本格コーヒーを宣伝しておいて、そんな最低な評価では怒られて当然だった。昨日はボクも頭に血が上っていたけど、冷静に考えればあれは起こるべくして起きたことだった。


「昨日は菜乃さんが止めてくれましたけど、もう一度同じことが起きたらどうすればいいですか?」


「バットで殴る」


「もっと平和的な解決方法を教えてください」


「なーは、昨日それをした」


 確かにボクとは違って、菜乃は暴力じゃない方法で仲裁をしていた。だけど、見た目も中身も子供のボクが同じことをやったとしても相手のことを逆上させるような気がした。


「キミが頑張っても、問題は解決しない」


「でも……」


 問題の放置を続けるほど白葉は傷つく。


「そんなに偽善者になりたい?」


「嫌な空気の中で働きたくないだけです」


 嘘は言ってない。


「シロちゃんは自分さえ傷つけばいいと思ってる」


「それが菜乃さんが怒った理由ですか?」


「そう。シロちゃんの悪い癖」


 白葉の自分自身に対する扱いが、あまりにも軽いように思えた。それは自分で自分に価値がないと思っているからこその行動なのだろうか。


「黒蝉さんは白葉さんが傷ついても平気なんですか?」


「わたしはシロちゃんの自傷に付き合うつもりはない」


 黒蝉が席から立ち上がった。


「一度シロちゃんとよく話し合ってみるといい」


 そんな言葉を残して、黒蝉が部屋を出て行った。


 ボクもそろそろ準備をしようと思った。座っていた椅子から立ち上がろうとした時、バタバタと足音が近づいてくる。


 部屋の扉が勢いよく開け放たれ、血相を変えた白葉が飛び込んできた。


千智ちさとくん!」


「え、なんですか……?」


「黒蝉ちゃんが千智くんが大変だって言ってた!」


 白葉が確かめるようにボクの顔に触ってくる。


 すぐにボクは黒蝉が白葉に何かを吹き込んだとわかった。なにもこのタイミングで話し合いの場を用意する必要なんてなかったのに。


「あれ?なんともない?」


「黒蝉さんにからかわれたんですよ」


 ボクは顔を引いて、白葉の手から離れた。


「白葉さん。準備は間に合うんですか?」


「だいたい終わってるよ?」


「なら……」


 黒蝉に言われた通り、白葉と話し合うべきか。


「あれから、菜乃さんと話しましたか?」


 質問をすると白葉が目を逸らした。ボクが怒ってると思ったのか、白葉が反応は子供のようで。少しだけ自分の行動に迷いが生まれてしまう。


「菜乃ちゃんは忙しいみたいだから」


「黒蝉さんは呼べば来ると言ってましたよ」


「でも、今日お店は忙しくないと思うから……」


 白葉は自分の言葉が逃げる方に進んでいると気づいているはずだ。いくら二人が強い絆で結ばれていたとしても、生涯喧嘩をしないなんてありえないのだから。


「ごめんね」


 その言葉を聞く度にボクはイライラした。


 きっと、白葉は本気で謝っている。でも、謝ること以外に何も考えていないように見えて、ボクは白葉の考え方が受け入れられなかった。


「ボクのコーヒーが美味しくないのなら、あのコーヒーメーカーを使えばいいじゃないですか」


 ボクは感情的になって言葉を吐いた。


 だけど、ボクの口にした言葉は正しい。素人が見よう見真似で作った物よりも、ちゃんとしたコーヒーメーカーで作った方が美味しいに決まっている。


「それは……」


 白葉だって、わかっているはずだ。


「いや、かな……」


「……っ!」


 今なら菜乃がどれだけ冷静に対応していたのか理解が出来る。こんな白葉は目にすれば誰だってイラついてしまう。


 何も決めてくれない。何も受け入れてくれない。何も出来ない。何もしない。何も。白葉は何も。


「この店、潰れますよ?」


「うん。わかってる」


「何もわかってないじゃないですか!」


 ボクは感情的になり、手元にあった菓子の缶を白葉に投げつけた。缶は白葉の顔にあたって、大きな音を鳴らしながら地面に落ちた。


「あ……」


 やった後に後悔した。


 白葉は顔から血を流している。


 その姿を見て、ボクには過去の記憶が戻る。


 ボクが家に引きこもることになった原因。自分の気に入らない相手を殴り倒して、傷つけて。周りの大人から責められて。そんな大人に向かってボクは反抗して。全部、壊してしまった。


 自業自得なのに。今でも納得出来ない。


「千智くん」


 白葉が近づいてくる。


 ボクは白葉から逃げようとしたけど、それよりも先に白葉から抱きしめられた。いつもと変わらない白葉の抱擁。だけど、そこに優しは感じない。


「ごめんね……」


 白葉の流した血がボクの頬に触れる。


「……っ!」


 気持ち悪い感覚に満たされ吐き気がする。ボクが力を入れれば、白葉の体は簡単に引き離すことが出来た。


「……」


 白葉と顔合わせて、ボクは確信した。


「ボクに同情してるんですか?」


「同情なんてしてないよ」


「だったらなんで!ボクのことを叱ってくれないんですか!」


「……っ」


 父がボクのことを叱らないのと同じだ。


 同情して、哀れんでいるから。ボクのことを責めようとしない。それがボクの方に原因があるとしても、何も言ってくれない。


 そんなの優しさでもなんでもない。


「ボクのことなんか、どうでもいいんですよね……」


 体が触れ合っても、心はどこまでも遠い。


 だけど、心に触れられるのは煩わしくて。拒絶してしまうのはボクが駄目な人間だからだ。こんな感情なんて無ければ、苦しまずに済んだのに。


 今になって、ボクは菜乃の味方をしなかったことを後悔した。白葉のやっていることはボクが嫌いなことと何も変わらないのに。


 ボクは白葉から離れた。


「千智くん……」


 ボクの腕を掴もうとする白葉の手を避けた。


 ただ、この場所から逃げ出したい。


 そんな考えに支配されて、体は突き動かされた。


 ボクは白葉から逃げるように部屋の出入口に走り出した。勢い任せに扉を開けて、廊下に出た。


 部屋を飛び出した時、黒蝉にぶつかりそうになった。だけど、黒蝉に体を押されて、なんとか回避出来た。


「黒蝉さん、ボクは……」


「そんな顔でお店に立たない方がいい」


 ボクは今、どんな顔をしているのだろうか。


「今日は二人でも平気」


「すみません……」


 あんな声を出して白葉と喧嘩していたら、黒蝉にも聞こえていたと思う。今は黒蝉に任せて家に帰ることにした。


 でも、ボクは心のどこかで気づいていた。


 もう、ボクがこの場所に戻って来ることはないのだと。こんな息苦しい場所に居るくらいなら、あの部屋に閉じこもったままの方が辛い思いをしなくて済む。


 だから、ボクはもう一度逃げ出すことを選んだ。

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