笑顔で消えるから幸せを願わせて

「お姉ちゃんには関係ないでしょッ!?」

ヒステリックに声を荒らげて、立ち上がる。

姉の咎めるような双眼から逃れたくて、わたしは早足でリビングを出た。

ひんやりした空気の廊下を通って自室に戻るとわたしはベッドに倒れ込む。

ギシリと軋む音がして、ライトグリーンのシーツに俯せになる。

頭と胸の中で、粘つく虫がぐるぐると這い回る感じがした。苦しくて、息が上手くできない。

異常な愛を押し付けてくる先輩にも、時折何か言いたげにする樋口くんにも、無神経なことを言うお姉ちゃんにも、何も言わずに転校したりーちゃんにも、先輩の言いなりになる風祭さんにも、帰りの遅いお母さんにも、海外から帰ってこないお父さんにも。


わたしは周りにいる全員が消えてくれたら良いのに、と思った。

実際に消えたら困るけど、それはわかっているけど、どうしようもなく心がゾワゾワして、落ち着かない。

現実世界から逃避するように、瞼を閉じる。

わたしの視界は光と言う光を全て遮断して、純粋なる闇を作り出していた。

黒一面の空間を歩き回る空想をする。

何も無い場所。どこに行っても果てがない世界をくるくると歩く。

そうすると、意識が暗闇に呑まれて、わたしは眠りについた。


次に目を覚ましたのは明け方で、リビングに行くと姉の姿はなく、代わりにお母さんがいた。

天井の電気はついておらず、窓から見える白い光が部屋を照らしている。

わたしは廊下の方に引き返そうとしたけれど、その前にお母さんがわたしの方を向いて、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。

それは内緒で男の子を連れ込んで、不純異性交遊に興じていた後ろめたさからかもしれない。

向けられた双眸に全てを見透かされたような気分になって、全身がピシッと硬直したのだ。

お母さんはそんなわたしを一瞥して、何を言うわけでもなく、ワインの入ったグラスに口をつける。


責め立てるような視線が外れて、わたしは小さく息を吐いた。

わたしはお母さんがちょっぴり苦手なのだ。

お母さんはとびきり美人というわけではないけど、全身から醸し出される生命力の揺れみたいな鮮やかな煌めきがある。

年相応のシワとか、少し悪い歯並びとか、よく見るとちゃんと人間らしい部分を感じることが出来るけど。

お母さんから溢れる活力と爛漫な雰囲気はどこか別世界の存在みたいで、少しだけ遠く感じることがある。

嫌いではない。

好きか嫌いかで言えば、もちろん好きだ。


わたしは家庭環境に恵まれている方で、お母さんは優しくて良い親だと思う。

お父さんだって仕事の都合で家に帰ってくることが少ないだけで、家族を大切にしている。

それに、普通の感性の持ち主だ。

少なくともお母さんとお父さんは、お互い浮気なんてしないし、どちらかが不貞を働いたら即離婚になるだろう。

もし愛する人が浮気をしたら、胸が張り裂けそうなほど悲しくて、裏切られたと感じる。

わたしなら、きっと相手を許せない。

それは普通で当たり前のことだった。

だから、この結末は必然なのだ。


「敷島、別れよう」

昼休みの空き教室で、樋口くんは言った。

わざわざ人がいない場所を選んだのは、人気者である彼なりの気遣いなのだろう。

窓から差し込む光に照り映える埃っぽいテーブル。

真夏のような空が憎らしい。

鮮やかな青色に背を向けて、樋口くんはわたしを見据えている。

少しも笑っていない。真剣な表情だ。

真摯な眼差しに気圧されて、わたしは口を噤んだ。

何も返せずにいるわたしに、樋口くんは眉根を寄せる。


それから、気が抜けたように眉を八の字にすると、ふっと短く笑う。

「おれじゃ、駄目なんだよ」

言って、樋口くんは続けた。

「敷島さァ、すんげー可愛いよ。でも、好きでもない男と一緒にいても辛いだけだろ?敷島は優しくて良い子だから。おれが引き止めたら傍に居てくれるかもしれない。でも、おれは敷島に笑ってて欲しいんよ。同情の愛ならそんなもんは要らない。だから、別れよう」

思いの丈を吐き出した樋口くんは、鋭い糸切り歯を見せて、いつもの笑みを浮かべる。

白いまっさらな歯がキラキラと光って、なんだかとても自分が汚くなったような気がした。


メガネ越しの蒼眼は今日の空みたいに晴れやかで、後悔の念は見えない。

言いたいことは色々あって、聞きたいことも沢山あった。

でも、どれも違った気がしたのだ。

結局、わたしの口から出たのは「そう、」という可愛げのない返事だけで、一瞬困ったような顔をした樋口くんは、それでもそれを了承と捉えて去っていった。

なんだか身体の芯が抜けてしまい、ペラペラの紙になったみたいだ。

一人で立ち続けるって、こんなに疲れることだったのか。

気を抜くと後ろに倒れ込みそうになった。


振られたことがショックなんじゃない。

わたしは彼を繋ぎ止めようとしなかった。

その事実が何よりも信じられなくて、わたしは絶望したのだ。

泣いて叫んでみっともなく縋りつけば良かったのに、涙は出なかった。

きっとわたしは人でなしなのだ。死ねば良い。

漠然と思考が死に向かうのを感じて、意識が虚ろになる。

期末テストが近いから、今日はわたしの家で一緒に勉強会ををしようって話をしていた気がするけど。

わたしは、自分が物事を上手く運んだことなんて一度もないことを思い出した。


樋口くんがわたしに愛想尽かした理由なんて、思い当たる節がありすぎる。

薄汚れた上履きを眺めて、まるで自分の心みたいだと自嘲した。

それから、午後の記憶は曖昧だ。

気がついたら、わたしは帰路を歩いていた。

ずっと上の空で授業を受けていたら、心配した担任に声をかけられて、クラスメイトに保健室へ連れていかれたのだ。

保健の先生に清潔なベッドに寝かされて、しばらく休んでから早退の手続きをした。よく分からない。

一人で歩くのは久しぶりのことだった。


先輩はまだ授業中で、きっとわたしが早退したことを知らない。

わたしはスマホのメールアプリを開き、先輩のアドレスを選択すると要件を手短に書いて、送信ボタンを押す。

思うと、わたしから先輩にメールをしたのは初めてのことだ。

返信を待たずにスマホの電源を落として、考える。

結局、わたしは誰を好きになれば良いかわからないだけなのだと思った。

そう考えたら、ストンと胸に落ちる。

しかし、やがて吐き気がするほどムカムカして、その激情の矛先は先輩へ向いた。

きっと、姉の言うことは正しいのだ。

でも、それがなんだと言うのだろう。

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