最終回
鍵を取り出そうとすると内側からひとりでにドアが開いた。驚いて顔を上げれば夏純がいて、当然のことのようにこちらに笑いかけ、
「ああ、お帰り」
「お帰り、じゃないよ。ここは私の部屋なんだけど」
「合鍵、くれたじゃん」
「勝手に作ったようなもんでしょう? 自分ちに帰ってよ」
「今日は彼氏がいないから暇なんだもん。ビール冷やしといたからさ、夜は付き合って」
溜息交じりに部屋に入り、ドアを閉めた。テーブルには食べかけのお菓子が広げられたままになっている。ずいぶんと寛いでいたらしい。
「窓、開けるよ。空気を入れ替えたい」
「せっかく冷房点けたのに勿体ない。冷気が逃げるじゃない」
黙殺してカーテンに手をかけると、姉はこれ見よがしに顔をしかめた。全開にし、ベランダへと出る。強烈な陽光と熱気。
「鳥ってさ、恐竜の進化系なんでしょう」
どこからか響いてくる囀りに反応してか、姉がそう話しかけてきた。
「始祖鳥は今の鳥とほとんど同じ構造の翼を持ってたけど、それ以前にも皮膜を使って木から木へ飛び移る恐竜がいたらしいよ。二翼で空を飛べるようになる前に、四翼での滑空っていう過程があったんだね」
「理論上はそれで自由に空も飛べるはずって思ったのかな。海から陸に上がって、それから空。どのくらいかかったんだろう」
「最初の陸上生物をイクチオステガとするなら、三億六千五百万年前。鳥の祖先の誕生が、一説によると一億六千万年前。ざっと二億年」
「二億か――長いね」
「私には三年だって長いよ」
進学を機に私は東京に出て、アパートで独り暮らしを始めた。入学して三か月ほどになるが、いまだに合格したことが幻のように思える瞬間がある。姉と同じ、音楽大学のピアノ科だ。
姉妹で相部屋にするという意見が、最初の段階ではあった。夏純は乗り気だったようだが、私は断固として拒否した。話し合いの末、子供向け個人レッスンのアルバイトで実家にお金を入れることと引き換えに、独り暮らしを許された。ちなみに紹介してくれたのは、例の姉の恋人、藤倉さんである。ちょうど後任を探していた、そのまま引き継いでもらえるように手配する、と提案された。なんの経験もない、単に入学を決めたというだけの私には破格の条件だった。
春、彼に付き添われて挨拶をしに行った。迎えてくれたのは小学生くらいの女の子と、そのお祖母さんだった。よろしくお願いします、と私たちに頭を下げるなり、ピアノの前へと駆けていった。私の教え子になるその少女は、秋穂ちゃんという名前だった。少し演奏を聴かせてもらったが、藤倉さんの指導が適切だったおかげで、舌を巻くほど上手い。
「そういえば、いま練習してる曲があるんだけど、ちょっと変わったエピソードがあってね」
休憩時間、藤倉さんが穏やかな声音で私に切り出した。細面の外見は似ても似つかないが、落ち着いた声のトーンはどこか、史郎くんを思わせる。ちなみに彼は莉々と一緒に、地元の大学に進んだ。今でも仲睦まじくしている。
先生も聴いてください、と秋穂ちゃんが言う。しばらく、自分がそう呼びかけられたのだとは気付かなかった。稲澤先生、と繰り返され、慌てて返答した。そうか、私はもう先生なのか。
「聴かせて。終わったらお話も」
「はい。じゃあ隣で見ていてくれますか」
ピアノに向かう少し緊張した面持ちを、私は記憶の中の少女と重ねていた。やがて耳に届いた旋律。幻聴かと疑ったほどだ。けっきょくただの一度しか弾くことのなかった、私の――。
「このピアノを買ったとき、同じフロアで流れてた曲なんです。お店のBGMじゃなくて、誰かが弾いてた曲。素敵な曲だなと思って、覚えてたんです。それを藤倉先生に譜面にしてもらって」
「俺もいろいろ調べたんだけど、まだ正体が分からないままなんだ。オリジナルを探し出して、きちんと弾けるようになるまで付き合いたかったんだけど、まあタイムリミットだね」
藤倉さんの指が鍵盤に伸び、巧みに、そして情感に満ちた調子で、主旋律を奏でる。
「素晴らしい曲だ。俺たちはこれを、ただ『ラヴソング』と呼んでた」
「私がそう呼びはじめたんです。今でも思い出すんですけど――この曲を聴いたとき、ああこれが恋なんだって感じがしたんです。よく分からないけど、そう感じたの」
秋穂ちゃんが少し気恥ずかしそうに笑う。大丈夫ですよ、と私は精一杯に声を保って、ふたりに言った。
「完璧な弾き方はまだ分からないけど、私が一緒にやります」
より時間を巻き戻そう。高校一年の合唱コンクールの結果は、指揮者賞だった。すなわち半分だけ約束を守った、ということになろうか。夏凛はつくづく審査員に恵まれない、とは姉の弁だが、私としては順当な結果だったと思っている。会場に駆けつける過程で、私はきっと気力を使い果たしてしまったのだ。
その冬、十二月の雨の日に、鼓ひまわりはアメリカへと旅立っていった。電車、新幹線、そして空港――島への旅行と同じ行程を辿りながら、私たちは最後の時間を過ごした。彼女のお父さんに対面したのも、このときが初めてである。冒険家らしく日焼けした、それでいて物腰は穏やかな紳士だった。
「娘は、いつも稲澤さんのことを話していたよ。娘とかけがえのない関係を築いてくれて、本当にありがとう。立派な友人に、もしかしたらそれ以上の存在に、娘が出会えたことを、父親として嬉しく思っている」
搭乗口へと向かう直前のこと、お父さんに続いて歩いていたひまわりが荷物を放り出して駆け戻ってきた。何事かと思う間もなく、私は抱きしめられていた。強く。
ごめんね、ありがとう、さよなら――。発しうる言葉を思い付かず、私はただ腕に力を込め、彼女の体を引き寄せた。離れる瞬間、ひまわりが泣き笑いしながら、
「『ワンダフル・ライフ』」
ワンダフル・ライフ、と繰り返し、遠ざかっていく彼女の背中を見送った。不思議な、不思議な生き物。五億年ぶりの偶然の出会い。化石。音楽。
私のすべて。
翌年の夏、アメリカから手紙が届いた。何枚かの写真が同封されていた。うち一枚に目が留まった。上半分が水色、下半分が黄色。
カンザスの向日葵畑の光景だった。本当に抽象画のように、地平線の端から端までを、ただ空と花だけが満たしているのだと知った。
ちっぽけな街に留まってくれる人では初めからなかったのだと、ようやく思うことができた。ここが、鼓ひまわりの居場所。夢を叶える場所。アメリカの大学で古生物学を専攻するつもりだと、手紙にはあった。今でも大切に持っている。太陽のネックレス、そしてオパビニアと一緒に。
「――夏凛、電話」
夏純が言い、記憶の中の私は十九歳の稲澤夏凛へと引き戻された。スマートフォンをこちらに寄越し、ちょっと出掛けてくる、と残して姉は部屋を去っていった。独りきりになってから、応じた。
「鼓だけど、夏凛?」
ひま、と私は呼んで、スマートフォンを耳元にあてがいなおした。懐かしすぎた声。
「音大に行ったんだよね。遅くなったけど、おめでとう。私、今ね、向日葵畑にいるんだよ」
「ポストカード、見たよ。本当にマーク・ロスコなんだね。あんなに広いんだって知らなかった」
小さな笑い声。
「違うよ、もっとしょぼいやつ。でも世界でいちばん綺麗な向日葵。今年も咲いたよ」
途端に私は息を呑み、それからゆっくりと、
「――日本?」
「島の博物館の、学芸員さんから連絡があってね。あのとき一緒に見つけた石、新種の化石かもしれないんだって。それに気付いた先生のいる大学が、うちの大学とちょうど提携しててさ。共同のプロジェクトが立ち上がったの。今年の秋から始まる発掘調査のチームに入れてもらえて――それで今は、日本に。発掘、地質調査、クリーニング、論文執筆。何年もかかるかもしれないけど、日本には慣れてるだろって、送り出してもらったんだ」
「本当? 本当なの? だってそんな――信じられない」
「今度は嘘じゃない。ただ生きて、ただ愛したら、どこへだって行けるって、夏凛が教えてくれたんだよ。国境も、時間も、なんだって越えられる。だからまた私と一緒に、新しい旅に出てくれる?」
「二人三脚で」
私は泣きながら叫び、スマートフォンを持ったまま部屋を飛び出した。道をふらふらと歩いていた夏純を追いかけていって捕まえ、
「お姉ちゃん、すぐ行ってほしいところがあるの。車で乗せてって」
「いいけど――」
「今すぐ」
泡を食ったように夏純が頷く。私たちは駐車場へと駆ける。夏の太陽の下、約束の場所へ向けて、青い車が走り出す。
Interstate Love Song 下村アンダーソン @simonmoulin
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