第29回
実は、と園山さんが切り出した。私は身を固くした。
「稲澤さんに会ってほしい人がいるの。ずっと言いたかったんだけど、タイミングが掴めなくて」
「誰?」
「私のお姉ちゃん」
「ピアノの?」
「そう。お姉ちゃんに稲澤さんのことを話したら、会ってみたいって。もし迷惑じゃなかったら、一回会ってあげてほしいんだ。お姉ちゃんも、稲澤さんのおかげで人生が変わった人だから。お礼を言いたいって」
園山さんの表情から、悪い方向に、ではないのが分かった。私が姉を追いつづけてきたように、彼女のお姉さんも私を――私の幻を、見つづけてきたのだろうか。
「お姉さんと話せばいいの?」
「うん。私は口を挟まない。ただ、今のお姉ちゃんを見てほしい。それだけだよ。約束する」
自分が誰かの人生を変える――特別な意識しないうちに、それは起こりうる。ほんの小さなきっかけから、なにかが始まってしまう。私にとっては失敗したコンクールの苦い思い出にすぎなかったものが、園山姉妹の目にはまったく違った映り方をしている。
来て、とだけ言って、彼女は歩きはじめた。私を急かすことも、手を引っ張ることもなかった。しかし断るすべを、私は持たなかった。
やがて古めかしい、洋風の家に着いた。一見すると民家なのだが、入口に店名を記した立て看板があった。レストランらしい。ドアには「CLOSED」の札がかかっていたが、園山さんは平然とそれを無視して、中へと入っていった。
雰囲気はビストロと酒場の中間といったところ。小規模な店内の奥まった空間にピアノ、隣に簡易的なドラムキットが置かれている。窓際にテーブル席がふたつ。カウンターの向こうには女性二人組の姿があった。その片方が立ち上がる。目が合った。
「お姉ちゃん、こちらが稲澤さん」
「コンクールの――初めまして、園山あかりです」
この人だ、と思うなり緊張した。どぎまぎとしつつ、自己紹介をした。一見した印象は、まるきりみらいさんとは異なる。長い髪に、物静かそうな眼差し。あかりさんは微笑し、
「忙しいのに、わざわざ来てくれてありがとう。みらいと同じクラスだって知って、いつでもいいから連れてきてって無理を言っちゃった」
「この子がそうなの?」
あかりさんの傍らにいた女性が訊ねる。私に関する話はすでに伝わっているものらしい。
「確かにそう。稲澤夏凛さん。この三年間、忘れたことなかった」
「ふうん。だったら手っ取り早く、三年間の変化を見せたら?」
言いながら、カウンターを出てくる。ドラムキットに陣取った。座ろう、とみらいさんが私を促す。近くのテーブル席に着いた。
「じゃあ、ちょっとだけね」
あかりさんがピアノに向かうのかと思いきや、彼女はいったん隅へと姿を隠した。なにか――と思っているうちに戻ってきた。目を瞠る。セミアコースティックのベースを手にしていたからだ。
しゃらしゃら、と静かにシンバルが震える。控えめな、しかし軽妙な遊びを混ぜ込んだようなリズムが刻まれる。ジャズ風だが、どこかダンスミュージックめいてもいる。
そこに低音が絡みついた。あかりさんの指が目まぐるしく指板の上を動いている。
私の聴き慣れている、ロックバンドの基盤を支えるようなベースではない。音色はより柔らかく、全体をすっぽりと包んでしまうかのようなのに、楽曲を確かに牽引する存在感に満ちている。それでいて、リズム体ふたりで完結するアンサンブルという感じでもない。メロディ楽器が入るべき余地があるのだ。
私ならどう弾く? この音の波にどう乗る? 考えながら、想像上の鍵盤に指を走らせていて、はっとした。あかりさんとドラマーが目配せし、それから楽しげに唇を湾曲させる。
私のためにわざと空けてあるのだ。いったん気が付いてしまえば明白だった。「ほら、弾いてみてよ」と言わんばかりではないか。これはセッションへの誘いなのだ。
立ち上がり、ピアノの前に立った。ベースとドラムが愉快そうに跳ねてから、いったん音量を下げる。静かに、しかしありったけの期待を込めて、私の飛び入るタイミングを見計らっている。
切り込んだ。最初は様子を見るつもりでいたのだが、ふたりはまったく許してくれなかった。にやりとしている様子が手に取るように分かる。ならばやるしかないと一瞬で腹を括って、私は前のめりになった。鍵盤を抱え込むようにして、音を叩き出す。計算と反射、先読みと開き直り、チームワークと大胆不敵な独走――理屈と感情とその他もろもろとが混然一体となり、結局は音楽といううねりに身を委ねて泳ぎ切るほかない、という境地に私は至った。なんというスリル。なんという快楽。
私はすっかり夢うつつでいた。合奏を終えてテーブルに戻っても、ふわふわとした感覚はしばらく失せなかった。
「三年ぶんの対話、ちゃんと聴いてた?」
ドラマーの悪戯っぽい問い掛けに、みらいさんは強く顔を上下させて、
「よかった。また泣きそうになっちゃった」
ベースを片付けたあかりさんが、私の向かいに腰を下ろした。あれから、と彼女は切り出した。
「今だから告白するんだけど、一度、音楽をやめちゃおうかと思ったの。年下の子に負けてやめるって格好悪いにもほどがあるよね。それでもやめたかった」
すみませんでした、と言いかけて思い止まる。黙って続きを聞くことにした。
「身近な誰か、それこそみらいが一緒だったら、ここで折れたくないって見栄を張れたかもしれない。でもみらいはもう陸上に夢中だったし、昔みたいに私を追いかけてくる感じじゃなくなってた。みらいが私から離れて――私は独りになったような気でいたの。上手くもない、自分で満足もできない、誰も必要としてないピアノを、独りぼっちで弾いてるのがつらかった」
あかりさんは、ふふ、と短く笑ってから、
「それでも音楽をやめないで済んだのは、ベースっていう居場所を見つけたからかな。弦楽器を触るのは初めてだったし、一からやり直しではあったんだけど、バンドの一員になれるっていうのが楽しかった」
「ピアノからキーボードへ転向する人ってよくいますけど、なぜベースだったんでしょう」
「ピアノとはぜんぜん違うことがやりたかったから。弦楽器がいいかな、ギタリストは周りにけっこういたからベースかな、程度。深い理由なんかなかった。ピアノを始めたときと一緒。軽率なんだよね、昔から」
「でもぴったり嵌った――んですよね?」
「うん。最初に入ったバンドがよかったってのもあるけどね。ソロでコンクールを勝ち抜ける人間じゃなくても、メンバーが集まれば思いがけない化学反応が起きる。爆発を引き起こす材料のひとつでいるのが、私の性には合ってたんだね。独りでは味わえなかった楽しさを、私はベースを通じて見つけた」
「ピアノへの執着はなかったんですか。せっかくここまで来たのにって、思いませんでしたか」
「少しはね。でも決断できたのは、みらいのおかげかな」
名前を呼ばれたみらいさんがきょとんとする。
「私、なんにも言ってないよ」
「言葉じゃなくて行動。私にくっついてくるのを止めて、自分の意思で陸上を始めたこと。みらいを見てたら、自分にもっと向いてることを探したほうが前向きになれそうだって思えたの。無理して同じ場所に留まらなくてもいい、やってきたことがぜんぶ無駄になるわけでもない。実際にピアノの知識は役立ってるし、ベースをあるていど覚えてからまたピアノを弾いてみたら、ぱっと視界が開けた感じがした。担える役割がこんなにたくさんあったって」
凄い、と私は声を洩らしてから、
「自由になれた――そういうことですか」
「たぶんね。完全な自由なんてありえないけど、コンクールに拘ってたら手に入らなかったものが手に入ったのは間違いない。あなたに負けても逃げ出さないでいた自分を想像してみることはあるよ。でもやっぱり、今のほうが幸せだって思える」
「素敵だと思います。さっきの演奏も、すごく楽しかったです」
楽しかったかあ、とドラマーが私の隣に来て、肩に腕を絡める。
「じゃあさ、たまにここに来て弾いてくんない? お客さんに適当に合わせてくれてもいいし、演奏会にだけ出てくれるでもいいし。バイト代は出すから」
アンナさん、とみらいさんが窘めたが、ドラマーは続けて、
「ここは私んち。ゆくゆくは私の店。有望な人材は、発見しだい引き入れる」
「このお店の方なんですか」
「一人娘だからまあ、順当に行けば次期オーナーってやつ」
ドラマーは名を水瀬杏奈さんといった。店を引き継いだら本格的なジャズ喫茶にしたい、と彼女は語った。穏やかな時間の流れる、しかし新しい風が吹き込みもする店。そうした音楽にふさわしい場を作るのが、彼女の希望なのだという。
「もちろん今すぐ店を好きにできるわけじゃないんだけど、このトリオが一回で終わっちゃうのはもったいないと思うんだよ。叩いてて、これだって気がしたんだよね。あかりも手応えあったでしょ?」
「それはもちろん。一緒にできたら嬉しいけどね。もしもバンドに興味があるなら」
バンド――と私は唇を動かした。彼女たちの提案は確かに、私の心を揺さぶっていた。
ジャズにダンス要素を掛け合わせたような、現代的な音楽。クロスオーバーに意欲的で、ロックやエレクトロミュージック、ブラックミュージックなどを取り入れた曲もあるという。話を聞いていると昂揚した。
園山姉妹はやはり私に似ている、と思った。夏純に、ソロのピアニストに、固執しなかった世界の私は、こういうふうだったのではないかと想像した。物心ついてからずっと守り通してきた価値観を脱却したなら、新しいことを始められたなら――。
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