第24回
危うく叫び出すところだった。夏純が興味津々といった風情で近づいてきたので、余程のことぶってやろうかと思った。姉ながらどうしようもない女だ。口を利きたくないと身振りで示してそっぽを向いた。
「相思相愛だ。羨ましい」
「うるさい」
「大袈裟なぐらいでちょうどいいんだって。連発すると安っぽくなるとか、ここぞというときに取っておくべきだとか、そんなの嘘。普段から褒めまくったほうがいいし、感情はそのたびに素直に言葉にしたほうがいい。真面目なアドヴァイスだよ」
「なんでちょっといいこと言った、みたいな感じになるの」
「実際にいいこと言ったから。溜め込んだ感情を一気に爆発させるタイプっていうのは、だいたい上手くいかないの。こんなに思ってきたのに、こんなに我慢してきたのに、あなたはどうして、なんて言ってもさ、相手は知ったことじゃないわけ。ひとつひとつ言語化して、擦り合わせる。でないと長続きしないよ」
「長続きしたことのない人に言われても説得力ない」
「あります。自分の恋愛事情を一から十まで見せてないだけ」
驚きに目を見開いたが、当然だという気もした。もう私が間近に見てきた、高校生までの姉ではないのだ。反駁はできなかった。
「私だって、真剣なときは真剣なの」
姉との関係を修復したとひまわりに伝えた手前、あまり喧嘩腰になるわけにもいかず、私はしぶしぶといった調子で頷いた。それですべて水に流されたとでも認識したのか、夏純はすぐに満足げな表情に戻った。悪びれるということを知らない。
「誰といつ、どのくらい続いたの?」
「私だけ喋るのはフェアじゃないな。夏凛が喋るなら」
「じゃあもう訊かない」
姉はわざとらしく肩をすくめてみせ、
「つまんない。せっかく泊まりに来てるのに」
「墓穴を掘りたくない」
「真剣なときは真剣なんだってば。それは信じてくれるでしょう?」
「信じるよ。でもお姉ちゃん、真面目なときと不真面目なときの区別がつきにくいんだもん。真顔で冗談言ったり、本当に深刻なのに真剣に訴えなかったり、そういうことばっかり」
「まあ、それは確か。じゃあ今から勝手にひとりごと言うから、適当に聞き流して。私のいちばん長続きした恋人は、同じピアノ科の人。技術的には平凡だったし、目立った存在でもなかったから、別に気に留めてなかった。でもそれまでの彼氏とは決定的に違う部分があったの。私を屈服させようとすることも、逆に卑屈になることもなかった」
「対等に接してくれたってこと?」
ひとりごとだと言われたのに、思わずそう問う。夏純は気にした様子もなく続けて、
「ひとことで言えばね。突き詰めたくて音大にまで来たんだから、基準が音楽になるのは仕方ないと思う。でも才能のあるなしとか、どっちが上とか下とか、四六時中そんな話ばっかりしてるのも厭になるでしょう? 競争するときは本気でする。そうじゃないときは争わない。言ったよね、音楽は私の手段。かなり重要な部分を占めてるにしても、私という人間そのものじゃない。すべてを音楽と結び付けては思考できないし、してほしくもない。生温いと思われても知ったことじゃない。それが私の限界で、生き延びるための戦略だから。彼はそれを理解してくれた、本当に数少ない人。夏凛でさえ、私には卑屈になることがあったよね? 彼にはなかった」
「そういう人だって分かったから付き合ったの?」
「付き合ってから分かった。この人いいなって思うようになったきっかけはね、ストリートピアノ。あるでしょう? 駅とかに置いてある」
「ああ。でも技術的には平凡だったんじゃないの?」
「最初から話そうか。独りでふらついてて、たまたまストリートピアノを見かけた。小さい女の子が興味ありげにしてたのね。初めて楽器に触るような子で、やってみたいけどやり方が分からないって感じだった。そこに通りかかったのが彼でね――ピアノを教えはじめたの」
情景を思い返すように、姉はゆっくりと視線を上げ、
「もちろん本当に基本的なことをちょっとだけ。でもその数分で、女の子は簡単なメロディを辿れるようになった。凄く笑顔で、お兄さんありがとうって喜んでた。ピアノを習いたいってお母さんに言いますって。ああ、この人は音楽の楽しさを伝えられる人なんだなって――それで近づいてって、私から声をかけた」
初めてひまわりに連れられて化石探しに行った日にデパートで見た少女のことを、私は思い出していた。お祖母さんと一緒に初めての楽器を買いに来ていたあの子。やりたい、と小さく、しかしはっきりと宣言していたあの少女は、姉の恋人との出会いを機に、音楽を志したのではないか――。
「その人とは、今は?」
「彼?」
「まだ続いてる?」
夏純は途端に意地の悪い笑みを覗かせた。
「無料公開ぶんはここまで」
「は?」
「ひとりごとだって言ったでしょう? もう終わり。気が向いたら喋るかもしれないけどね」
平然と言ってのける。私は唖然とし、そしてむくれた。
「言わせて。そういうところ、心の底から嫌い」
「なにか提供すれば喋るって」
「なにを引っ張り出す気なの」
「彼女のキスが上手いかどうかとか?」
立ち上がり、クッションを掴んで投げつけた。姉は妙な反射神経を発揮して、胸の前で受け止めた。暴力反対、などと文句を言いはじめたので、
「柔らかいものだっただけ感謝しろ。私じゃなかったらコンクリートブロックかなにかを投げてた」
「そんな物騒なものはこの部屋にない。ちなみに彼とはまだ続いてる」
ぽかんとした。
「それって――」
姉の投げ返してきたクッションが顔面に命中する。まさか正面から食らうとは思っていなかったのか、彼女は彼女で呆けたような顔になっていた。
「――本当?」
「本当だけど。ていうか、大丈夫?」
大丈夫、と私は素っ気なく応じた。なにか言ってやりたくなったが思い至らず、
「その人のこと、大事にしてね」
「ご心配なく」
「私を泊めてる場合?」
「そのへんは了解済みだから。普段だって四六時中一緒ってわけじゃないし」
夏純はクッションを拾い上げ、ソファの片隅に戻した。少なくともこの部屋に、誰かが入り浸っていたような気配は感じられなかった。私の来訪に備えて片付けたのか、あるいは相手の部屋へ行くことのほうが多いのかもしれない。
「そっちはどうなの。彼女、家に来たりする?」
「合唱コンクールの練習に。向こうが指揮者、私が伴奏だから」
なるべく平静を保ってそう答えた。夏純はかすかに笑った。私は語気を強めて、
「ちゃんと練習してるよ」
「別に疑ってないよ。曲は?」
「『空も飛べるはず』」
「ああ、あれ好き」
表情をぱっと明るくして、姉は卓上のパソコンを起動した。ややあって、画面にあのオレンジのベストアルバムのジャケットが表示された。『空も飛べるはず』が流れはじめた。
「このジャケ、よく見るとアンモナイトみたいな渦巻きだって知ってた?」
画像を拡大する。姉は唇を薄く開いたまま顔を上下させて、
「知らなかった」
「デパートの壁の化石もそうだったでしょ。目の前にあるのに、注意して見ないと気が付かない」
「そうだね。もしかしたらなんでもそうなのかも。人生のあらゆることが」
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