第22回

「マーク・ロスコ」

 夏純がつぶやき、私を振り返った。本当、と返し、坂を上り切ったところに並んで見下ろした。澄んだ空の水色に比べると、海は少し色濃い。遠目にはエメラルドグリーンに近い。砂浜の金色が、それらと鮮やかな対比を成している。

 石段を下りると、靴裏に柔らかな感触が伝った。きゅ、きゅ、と足首を捻るようにして砂を踏んだ。顔を上げ、漣だった海面のきらびやかさを目の当たりにして、思わず頬を緩ませる。ふたりで波打ち際まで近づいた。爪先が濡れないぎりぎりの位置に立って、寄せては返す白いしぶきを眺めた。

「急に勢いよく来るときがあるらしいから、気を付けて」

 姉は少し離れた場所に留まっている。そこが安全圏なのだと思って後退した。素足ではしゃぎまわっている子供、学生らしい集団、カップルの姿も浜辺にはあった。遠くのほうに見えるのはサーファーだろうか。

「もう少し、相談したいことが」

「なに? また違う話?」

「さっきの続き」

 海から風が起き、私たちの髪を揺らしはじめた。歩き出す。私は手短に、園山さんとのあいだに起きたことを話した。

「いちおう確認だけど、気持ちは決まってるんだよね?」

「うん」

「好きなのは鼓さん。で、園山さんとはなんにもなかった」

 頷いた。じゃあいいじゃない、と夏純は安堵したように笑ったが、私は俯きがちに、

「自分で不誠実だったって思うの」

「誰に対して?」

「園山さん」

 姉は考え込むように顎に触れた。足許の砂を眺め、海を眺め、最後にこちらを見やって、

「振ったのが?」

「違う。ちゃんと言えなかったせいで、却って悲しい思いをさせたって。真正面から向き合えなかったのが申し訳なくて」

 いまひとつ要領を得ないという感じの表情だ。私は付け足して、

「相手は勇気を出してくれたのに、私は出せなかった」

「はあ。別に、そこまで気に病む必要ないと思うけど。付き合ってる相手がいるのに流されて別の子と――っていうんだったら拙いけど、そうじゃない。なら充分じゃない?」

「充分じゃないよ。ちゃんと、誠実に、自分の考えを話したかったの」

 思わず語気を強めた私を、姉はなだめるように、

「夏凛は真面目だね」

「普通だよ」

「じゃあ優しいね、かな」

「優しくない。傷つけた」

「少なくとも私よりは優しい。私はそういうふうに、自分に向いた感情のすべてに真剣になるっていうのはできないから」

 冷静な口調だった。身内贔屓を差し引いても、姉は昔から異性に人気があった。実家にいた頃、友人、と称する男の子をよく家に連れてきては、私に紹介していた。顔も名前も、もうひとりも覚えていない。長続きした相手はいなかった。単に気に入らなかったのか、あるいは次々と恋人を取り換えるのを楽しんでいる節すらあったと思う。

「私はね、何事も手段としか見做してないの。妹だからよく知ってるよね? 私の自分勝手さ」

 昔から、気ままに振る舞うのを許される人でもあった。誰にとっても姉は特別な人間なのだろうと、私は想像していた。

「それはお姉ちゃんだからだよ。美人でピアノが上手くて」

「かもね」

 さらりとそう認めた。昔から自分の才能を客観的に理解し、下手に謙遜しない。姉は稲澤夏純として相応しく振る舞ってきた。常に。

「ピアノも、恋愛も、私にとっては自分が幸せになったり気持ちよくなったりする手段。夏凛はきっとそうじゃないんだね。音楽とか恋愛とかいう概念が、自分よりずっと大きいものだと思ってるでしょう?」

「大きいよ。私が小さいだけかもしれないけど、それでも大きいと思ってる。一生かかったって本質には触れられないって」

「本質に触れられないってのは同意する。でも地球上の誰も触れられないんだから、それぞれがどこかで折り合いをつけるしかない。自分の音楽、自分の恋愛。理想を目指すのは立派だけど、結局は自分の心と体でできることしかできない」

 夏純は考えを巡らせるように間を置いてから、

「私には私の限界があって、どこになにを振り分けるかを考えなくちゃいけない。だったら私は聴いてくれる人の拍手や、目先の快楽が大事。自分の心と体で受け止められる幸せが大事。永遠に届かない概念に殉じて死ぬ気はない」

「私、そんな大袈裟なこと考えてないよ」

 姉は薄く笑った。

「考えてるようなもんでしょう。相手をまったく傷つけないで振ることなんかできないに決まってる。賭けてもいいけど、どうリアクションしたって夏凛は後悔してたよ。理想の断り方なんてあるわけないんだから」

「私はただ――自分に精一杯向き合ってくれる人に、精一杯応えたかっただけだよ」

「精一杯は全方面には発揮できない。違う?」

「できないかもしれないけど、したいの。相手への礼儀として」

「礼儀ね。嫌われたくない、酷い人間と思われたくないっていう感情はなしで?」

 返答に詰まった。彼女は続けて、

「ないわけないよね。傷つけたくない、嫌われたくない、酷い人間と思われたくない、そういう感情はもちろん理解できるよ。だけどお互い納得して、握手して諦めてもらうなんてのは、滅多にできることじゃない。他の全員に泣かれて、恨まれて、それでも自分はなりふり構わずひとりを選ぶ。そういう割り切りが必要な場合もあるってことだけは、胸に留めておいたほうがいいと思うよ」

「お姉ちゃんの言うこと、なんとなくは分かる。でももう少し、もう少しだけ私がしっかりしてれば、園山さんにあんな思いをさせずに済んだんだって考えたら――」

 反論を遮るように姉は吐息した。

「夏凛は完璧主義すぎる。恋人がいる状況で別の子に告白された。浮気しなかった。それで合格点だって思えなかったら、生きていくのがつらすぎない?」

「自分がつらいのは仕方ないと思ってる。相手のほうがもっとつらいはずだから」

「そうやって自分を追い込んでどうするの? なんにもならないよ」

 言葉を探した。私とて自分の考えが子供じみていると理解していなかったわけではない。姉はきっと正しい。

「お姉ちゃんからすれば、そんなことでって、もどかしく感じるかもしれない。でも本当に分からなかったんだよ。恨まれるのはいいの。どうやって断ればいいのか、その場ではぜんぜん考え付かなかった」

「上手い断りの科白なんて咄嗟に思い付くわけがないでしょう。ごめんなさい、でいいの」

「ごめんねとも言えなかった」

「例えだよ。なんでもいいんだってば。駄目ですのニュアンスが伝わった。相手は引き下がった。それがすべてなの。どうしても納得できないなら、今から考えれば。きっちり言わないと気が済まないなら言いに行けばいいんじゃない? 逆に可哀相だと思うけどね」

「そうだけど――」

「じゃあそれで終わり。園山さんだっけ、その子のことで悩むのはやめる。諦めきれずにまた告ってきたりしたら、今度こそちゃんと断る。あとはいちばん好きな人、鼓さんのことだけ考えてればいいの。他の子を気にしてそわそわしてたら申し訳ないでしょう?」

 姉は足取りを速めて私から離れた。慌てて追い縋ろうとすると、こちらを振り返って、

「ちょっと待ってなさい。ついてこないで。そのへんで座れるところを見つけて座ってて」

 早口で言うなり、駆け足になった。遠ざかっていく。指示に従うことにして、近くにあった安っぽいベンチに腰掛けた。小さなバッグを下ろして、隣に置く。

 呆れられてしまった。私が優しさだと思っている――そう思い込みたがっている態度が実は中途半端さであり、そのせいでいつも周囲を苛立たせているのだと、いい加減に認めるほかはないのだろう。まさに姉に指摘された理由で、ひまわりとの関係がぎくしゃくとなりかけたことを考えた。あのときは仲直りできた。しかしずっと私がこのままだったなら、また同じような事態に出くわすに違いない。

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