第19回
「お姉ちゃん?」
とひまわりがこちらを向く。ちょうど曲が終わったところだった。私はステレオを停めた。
「三つ年上で、今年から音大生になった。ピアノ科だよ」
それだけで察したのだろう、彼女の表情は少し神妙になった。
「前に話してくれた凄い人って――お姉さん?」
「うん」
「音大のピアノ科か。半端な実力じゃ入れない――よね?」
「もちろん。私、ずっとお姉ちゃんのことが羨ましかった。お姉ちゃんみたいになりたかった。どうやったって追いつけないって分かったとき、悔しくて、悲しくて、どうにもならなかったの。それで、高校ではピアノのことを、いっさい知られないようにしようって」
「そっか。それで」
「お姉ちゃんは、私のことも褒めてくれてたんだよ。それでも自分で自分を認められなくて、お姉ちゃんと顔を合わせると、ふっと苦しくなることがあった。仲が悪かったわけじゃないのに、引っ越しの日もちゃんと見送れなくて。お姉ちゃんが新幹線に乗って行っちゃってから、こっそり独りで泣いた」
私は机の引き出しを開け、鍵を取り出して見せた。
「お姉ちゃんが置いてったんだ。一階の居間にあるピアノの鍵。私には相応しくないって――私には弾く資格もないって思ってた。楽器を見るたびに苦しかった」
「でも、やめなかったんだね」
「やめなくてよかった。ひまに会って、やっと自分のピアノへの気持ちを整理できたから」
呟くようにそう発してからひまわりに近づき、ありがとう、と言った。彼女は私に身を寄せ、髪を掻き分けて額にくちづけをした。やはり一瞬だったが、済んでも体は離さないままでいてくれた。
「お姉ちゃんが憎かったわけじゃない。ただ――嫉妬して。私、馬鹿だね」
「分かるよ。お姉さんだって分かってるはず」
「お姉ちゃんのこと誰かに相談したの、初めて」
ひまわりは私を抱きしめたまま、掌で軽く私の背を叩いた。
「大丈夫だよ、きっと大丈夫。苦しさとか、悔しさとか、嫉妬とか、そういう感情から完璧に自由になれる人なんかいない。夏凛がお姉さんを憎まなかったなら、お姉さんだって憎んでないよ」
「ごめん」
「謝ることなんかないよ。ね」
落ち着くと空腹を覚えはじめた。洗濯物が乾ききるのを待ってもよかったのだが、タイミング悪く日は翳った。作るのも気だるいので、近くで買ってくることに決めた。
「私の自転車、乗っていってもいいよ」
鍵を受け取った。サドルこそ少し低かったものの、気になるほどでもなかった。快調に走ってスーパーに向かい、弁当やお菓子を買い込む。袋を提げて駐輪場に戻ると、小柄な男性がひまわりの自転車の傍らに屈みこんでいるのが見えた。
初めのうちは単なる勘違いなのだと思った。しかし私が近づいても男性は去らなかった。執拗に弄り回しているような風情で、さすがに違和感を覚えはじめた。
「あの」
と声をかけるのとほぼ同時に、男が平然と自転車に跨った。顔を背けてペダルを踏み、加速していく。盗まれた、と判じるまで一瞬の間を要した。
「待って、返して」
声を張った。慌てて駆けだしたが、自転車泥棒の姿はすでに遠い。こうなってはもう、距離は広がるばかり――。
息を切らし、足を止めかけた私の横を、影が走り過ぎた。凄まじい速さだった。逃げる自転車をまっすぐに追いかけていく。
ふたつの影がやがて視界から消えてしまったので、いかなる追跡劇が展開されたのかを知る由はなかった。盗人の正体もいまだ不明なままだ。それでも奇蹟のように、水色の自転車は私のもとへと戻ってきたのである――あまりにも意外な人物と一緒に。
不可思議すぎて、しばらく現実を認識できなかった。
「――園山さん?」
自転車を押して引き返してきたのは、園山みらいさんだったのだ。
「犯人には逃げられちゃった。ごめん」
と言って、彼女は私の眼前で立ち止まった。なにが起きたのか分からず、私は半ば呆けたままでハンドルを受け取った。
「ありがとう。これ、取り返してくれたの?」
「というか、走ってって荷台を掴んだら勝手に捨ててった。携帯で顔撮ってやろうかと思ったけど、さすがに間に合わなくて」
あはは、と園山さんは事もなげに笑い、
「おかしいなと思ったんだよ。単に鍵が見つからないって感じでもなさそうでさ」
「びっくりした。よく追いつけたね」
「相手が油断してたせいもあるけどね。呑気に走ってたの。でもスプリンターの意地を見せてやれたんじゃないかな」
彼女は私と並んで歩きながら、改めて自転車を見やり、
「これ、稲澤さんのだったんだね。どこかで見たことあると思った」
「違うよ。これはひまわりの。借りてるだけ。だから本当に、盗られたらどうしようかと思った」
「鼓さんの?」
「うん。買い物に行くのに使わせてもらってた」
前籠に入れたスーパーの袋を示す。たまたま遊びに来ており、今からふたりで夕食なのだとだけ話した。
「園山さんが取り返してくれたって、私から話しておくね」
「別にそんな――大したことじゃないし」
園山さんはそう応じたが、口調はどことなく歯切れが悪かった。ひまわりの名を出した途端に顔色を曇らせたのも、おそらく勘違いではなかったと思う。しかしそれも一瞬のことで、彼女はすぐさまいつもの快活そうな表情になって、
「今度、一緒にご飯でも行かない?」
「もちろん。今日のお礼もあるし、もしなにか好きな――」
「お礼なんかいいよ。ただ一緒に出掛けたいだけ。ふたりで行きたい」
即応できなかった。ためらいが胸中に立ち込めていた。私はできるだけ平然と聞こえるよう、
「予定、確認しておくよ」
やんわり断ったように思われただろうか。園山さんは視線を下げて微笑していた。
私たちは並んで歩きつづけた。沈黙が息苦しかったが、どう声をかけていいのか分からなかった。
たとえば莉々がひまわりと親しくしていたからといって、不快に感じたりはしない。しかし園山さんの私への態度は、そうした友人どうしのものではないのだ。特別な意識を向けられていることに気付きながら、ふらふらと引き延ばすべきではないのは分かっている。傷つけたくないという感情を、言い訳に使うのは許されない――。
「鼓さんは、指揮の練習をしに来てるの?」
黙ったまま頷く。横顔を見つめられている。自転車のハンドルを握った手許から視線を引き剥がして、園山さんのほうへ向き直った。
「稲澤さんのピアノを間近で聴けて羨ましい。でも鼓さんは、自分でその立場を掴み取ったんだもんね。ただ外側から、綺麗だな、素敵だなって思ってるだけじゃ駄目だった。でもね稲澤さん、私はあのときからずっと――思いつづけてきたんだよ」
言葉は少しずつ震えを帯び、やがて鼻声に変わった。「ごめんね」とも「ありがとう」とも、私は言えなかった。咽の奥が締め上げられるように苦しい。泣き出したいのは向こうだろうに。こんな態度を取るほうがずっと、相手を傷つけることになるのに。
「話、聞いてくれてありがとう。練習、頑張ってね」
じゃあまた、と彼女は静かに言い、私と水色の自転車から離れていった。園山さんの背中が細い路地に折れ、完全に見えなくなってしまうまで、私は同じ場所に立ち尽くしていた。
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