第17回
「いったんストップ。ひま、ちょっと動きが固いかもしれない」
「ぎこちない?」
「ぎこちないっていうか――もっと伸び伸び振ってもいいよ」
「うーん。夏凛に合わせてるつもりなんだけど」
「伴奏に合わせるんじゃなくて、指揮者は指揮しないと」
繰り返し言及してきたことを、ひまわりがそう簡単に忘れているはずはない。歩調を指示するのは指揮者の役割だ。
合唱団であれバンドであれ、自身がないメンバーほど目立つ音に追従しがちである。初心者の集まりならばまず間違いなく、それは起きる。
もっとも力量のある者が全体を牽引すれば、総崩れには陥らずに済むかもしれない。一年二組でいえば、私のピアノがその役割を担うこと自体は可能だ。しかしそれは筋ではないのだ。私はひまわりに、自信を持って振ってほしかった。
「難しい。今日、ちょっと駄目かも」
彼女はクッションの上に座り込んでしまった。表情もあまり芳しい感じではない。
好調時の彼女は、小柄な体を目いっぱい使った優雅な指揮ができるはずなのだ。今回はどうにも動きが小ぢんまりと、ぎくしゃくとして見える。
「少し休憩しようか。下からお菓子でも持ってくる?」
「いい。あんまり食欲がないから」
さすがに心配になり、近づいて顔を覗き込んだ。
「体調が悪いの?」
「悪くない。ただ調子が出ないだけ」
「あんまり無理してもよくないから、今日は切り上げる? 少し間を置くのも必要だよ」
「やだ」
ひまわりは小さな子供のような頑なさで、ふるふるとかぶりを振った。
「だけど、調子のよくないときに詰め込んでも効率が悪いでしょう」
「たとえば、夏凛がピアノの先生に同じこと言われたら、納得して練習やめる?」
「……やめないかな」
「じゃあ私もやめない」
私たちは練習を再開したが、ひまわりの指揮は明らかに精彩を欠いていた。普段の長所がまるで出ていない。本人もその自覚があるのか、顔つきがすっかり曇っている。私は演奏を中断して、
「やっぱり今日はやめたほうがいいよ。楽しくないでしょ? そんなにつらそうなのに、続けさせられない」
「違うよ」
「なにが違うの」
「苦しいならやめればって、私が言ってほしいのはそういうことじゃない」
はっとし、ベッドに腰かけて俯きがちになっているひまわりを見やった。化石を探しに行ったデパートの楽器売り場でのことを、私は思い出していた。あのときの言葉が甦っていたのである。私はひまわりの隣にゆっくりと座って、
「ごめんね。私が鈍感だった」
彼女は顔を上下させた。それから、ううん、と呟いて、
「夏凛は音楽に熱心なだけだよ。私がついていけてないだけ」
「それだけじゃないって、さすがに分かった。話して。話せることなら」
少し間が開いた。ひまわりはためらいがちに、
「私が身勝手だった。また独りで暴走した」
「暴走?」
慎重に訊ねる。返答は、小さく震えがちな声でなされた。
「夏凛、このあいだ私のこと、大きい人だって言ってくれたよね。自分でも、けっこう大らかな人間だと思ってたんだよ。でもそうじゃなかった。私は凄く小っちゃくって、みっともない」
ひまわりは私の両肩に掌を置き、揺さぶるようにして、
「自分でも分かってるよ、馬鹿だって。でもどうしようもなくなっちゃった。ただ園山さんと喋ってるのを見ただけなのに、凄く動揺してる」
私は息を詰まらせた。言葉を探した。
「園山さん、単に雑談がしたかったわけじゃないのかもしれない。なにを考えてたのかは分からないけど、ただそんな感じがした」
「本当に分かんなかった?」
私は吐息を挟んだ。
「他人の気持ちをまったく想像できないわけじゃない。でも、こうじゃないかなと思っても、それが確信に至らないと行動できない。それでもちろん、確信に至れることなんてほとんどなくて――考え込むと最後は分からなくなる」
「私と足して割ったらちょうどよくなるかも」
私は少しだけ笑い、
「自分はこう受け取ったって正直に話すべきタイミングがあるのは分かるよ。今がきっとそう。園山さんは、私に似たところがある人なんだと思う。自分が抱えてきたものを、特別な誰かに打ち明けたい。それが――好意の告白に繋がるっていう人」
「園山さんは陸上の話をしたの?」
「うん。始めたきっかけも話してくれた」
そっか、とひまわりは頷いた。
「ピアノと陸上ってぜんぜん違うけど、喜びや苦しみは一緒だって私は言った。園山さんのことを戦友みたいに思うって。誠実に話してくれたから、私も誠実に応えたかった」
「間違ってない」
「でもそれだけだよ。私の二人三脚の相手は園山さんじゃない」
彼女はわずかにむくれたような表情を見せた。泣き出してしまうのではないかと思った。彼女の小さな掌に、おずおずと自分の手を重ねる。拒まれはしなかった。私は肩を寄せた。
「私のせいで不安にさせた」
「私が勝手に暴走しただけだってば。私が悪い」
「私が――いちいち分かりにくいのが悪いんだよ。はっきりした態度が取れなくて」
「誰に対して?」
「ひまに。私がちゃんと伝えられていれば、不安にさせることもなかった」
私は、と呟いてひまわりがこちらに体を傾け、凭れかかった。
「こうやってたら安心する。なにも言わなくても」
「言おうと思ってたこと――頭から飛んじゃった」
「思い出さなくていいよ、今は」
彼女は私の肩からゆっくりと頭を持ち上げた。空いたほうの手を伸べて、私の髪に、耳に、頬に触れた。まさぐるように動いていた指先がいったん静止し、そっと咽まで滑った。首筋に至ったところで離れた。私はかすかに唇を開いた。なにか告げたかったのだろうが、ひとつの言葉も浮かびはしない。
「あれ」
ひまわりが掠れた囁き声をあげた。
「飾ってくれてるんだね」
机の棚にあるオパビニアのことだと分かった。私は彼女の耳元に唇を近づけて、
「うん。私が――私が私の名前で獲った、あの楯のいちばん近くに置いてある」
「今度はふたりで獲りたい」
私は短く笑って、
「クラス一丸となって、じゃなくて?」
「そういうの、今は言わなくてもよくない?」
「そうだね」
目を閉じた。触れ合うか触れ合わないかくらいの唇の感触があった。逃げるように離れようとするひまわりの肩を掴んで引き寄せた。折り重なるようにして倒れる。私は薄く目を開けたが、とてもではないけれど見つめ合ってはいられなかった。横を向いて浅く呼吸した。
剥き出しにした首筋に、続いて鎖骨のあたりに、熱を帯びた吐息を感じた。布の擦れる音。内側へと潜り込んでくる掌、その温度と感触。思わず身を固くすると、
「これも――これも望んでたこと?」
一瞬だけ視線を交わし、それから頷いた。力を抜き、両腕を体の横に投げ出した。
「望んでたことだよ。なにもかも、全部」
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