第15回
実はアルトがいちばん進んでいる、という史郎くんの言葉は本当かもしれないと思った。現時点での纏まりのよさはソプラノにまったく引けを取らないし、低音が豊かに出ている。全員が基礎から発声を学んでいるらしいと分かった。アルトでの伴奏は驚きの連続だった。
「まだ出せないとしても、出したい声、理想とする声を、頭の中で細部まで再現できるように意識してください。同じ出せないでも、目標が分かってるのとそうじゃないのとでは、大きな差があるから。じゃあ、最後にお手本をもう一回だけ聴いて、終わろうか」
そう言いながら、内田さんがステレオを操作した。全員で参考音源を通して聴く機会を、繰り返し設けているのだという。テノールでも実施されている習慣らしい。
あとで莉々と史郎くんにも提案してみようと思いながら、私は『空も飛べるはず』に聴き入った。終わると、内田さんが私にプリントを差し出して、
「これ、アルトの目標シート。みんなで取り組んでおく課題を決めたの。次に来てくれたときは、注意して聴いてみてほしいんだ。絶対に今日より上手くなってるから、楽しみにしててね」
「ありがとう。アルト、凄く効率的に練習してるんだね。メニューは内田さんが考えたの?」
「私が考えた部分はちょっとだけで――合唱部がこんな感じなんだ。景と相談して、うちのクラス向けに作り直したの。けっこうよくできてるでしょ?」
「うん。私も伴奏を見直して、もっと歌いやすく弾けるように頑張るね」
プリントを折り畳んで仕舞い、教室を出る。廊下に備え付けてある自動販売機の横で立ち止まり、テノールの練習に出ているひまわりに連絡を入れた。
〈今日の二人三脚、予定どおりでいい?〉
休憩中なのか、すぐに返信があった。
〈いいよ。図書室で待ってて〉
別棟に向かおうとしたとき、こちらへ歩いてくる人影に気付いた。少しどきりとする。園山さんだったのだ。手を振って近づいてくる。
「稲澤さん、お疲れさま。今日はありがとね」
にこやかに笑いかけられた。うん、お疲れ、などと応じると、彼女は財布を取り出しながら、
「飲む? ちょっとだけお話したくて。奢るから」
「話は大丈夫だけど、飲み物は別に――」
「もう五百円入れちゃったし。なにか好きなのを」
小さな紙パックのジュースを選んだ。並んで、狭い休憩スペースのベンチに腰掛ける。
「稲澤さんのピアノ、生で聴いたのは二回目ってことになるんだね。やっぱりすごくよかった。受験勉強、頑張った甲斐があったな。まさか再会できるなんて」
「私も驚いたよ。覚えてる人がいるなんて思わなかった」
「忘れられるわけないよ。お姉ちゃんの応援に行ったはずなのにさ――正直言って、どうでもよくなっちゃった。ピアノにはぜんぜん関心なかったし、お姉ちゃんの出番になったら起こしてって感じだったんだけど、一瞬で目が覚めた」
「そんなふうに聴いてくれてたんだ」
園山さんは俯きがちに微笑し、
「演奏自体もそうだし、出てきた瞬間からかな。魔法みたいだった」
「当事者としては、転ばないでピアノまで辿り着くのに必死だったんだよ。今でも覚えてるんだけど、あのときはがちがちに緊張してて。堅苦しい演奏になっちゃったんだ。思い出すたびに悔しかったよ。本来の実力が、とか偉そうなことは言えないけど、ただ――」
「ただ?」
私は少し迷ってから、
「今だから正直に話すね。失望されただろうなって思ったの。出るように勧めてくれた人が、客席にいたんだ。私とは比べ物にならないピアニストだよ。その人に少しでも近づきたくてずっと頑張ってたけど、あの日、これが私の実力なんだなって、私じゃ絶対に追いつけないんだなって、気が付いた」
「それって、稲澤さんの先生?」
「みたいなもの。ずっと追いかけてた相手。その日以来、私はピアノが苦しくて堪らなくなった。だから合唱コンクールの伴奏者なんて、なるつもりはなかったんだよ」
「そうだったんだ。私、余計なことしちゃったかな」
表情を翳らせた園山さんに向かい、私はゆっくりと、
「引き受けたのは自分の意思だから。最近、本当に最近のことだけど、私には私のピアノが弾けるんじゃないかって思えるようになったの。だから、今は前向きでいるよ」
「ずっとピアノを弾きつづけて乗り越えたの?」
「ううん。続けてはいたけど、自分だけじゃどうにもならなかった。助けてもらえたおかげ」
園山さんは考え込むように視線を下げ、ストローを咥えた。しばらく沈黙したのち、
「私、本当に小さかった頃はね、お姉ちゃんの真似ばっかりしてたんだ。髪型も服装も。だからお姉ちゃんがピアノをやりたいって言ったとき、とうぜん自分もやる気でいたの。でもピアノが届いた日、なにか違うなって思った」
「直感で?」
「うん。理由は分からないけど、とにかく違うって。新品のピアノに触りもしなかった。で、独りで――それまで独りでなにかするなんてことなかったのにね――外へ飛び出していった。くたくたになるまで走り回って、これだって気付いたの」
「それで陸上?」
「そうなるのかな。その日、自分はお姉ちゃんと一緒じゃなくてもいいんだって分かった。髪を切りたい、お姉ちゃんのお下がりももう着ないって宣言した。親は喧嘩したんだって勘違いして慌てたけど、私は違うって説得した。ただお姉ちゃんとは別の生き物になるだけなんだって」
思いがけないその告白に、私は胸のざわめきを覚えていた。夏純より足が速く、縄跳びが上手く、カブトムシを見つけるのが得意だった、かつての私。夏純とは違う道を、そう、たとえば陸上競技を選んでいたなら、その勇気があったなら――。
「走るのは苦しいし、思いどおり体が動かないこともたくさんある。でも百分の一秒ぶんでも自由に近づくための苦しさなんだって、今は信じてる」
あはは、と園山さんは照れたように笑い、
「いきなり変なこと言っちゃった。でも聞いてほしかったんだ。稲澤さんになら伝わるような気がしてたから。ずっと」
「陸上とピアノ、やってることは違うけど、自由に近づくための苦しさっていう点ではきっと同じなんだと思う。だから私も、聞かせてもらえてよかったよ。戦友がいるみたいで、勇気が湧いてくる」
「嬉しい。ほんの少しでも、力になれたら」
園山さんは上半身の向きを変え、正面から私を見て、
「稲澤さんが自分のピアノを弾けるようになったきっかけって――家族?」
「違う」
「友達?」
私は答えに詰まった。友達。まっすぐにこちらを向いた視線から逃れるように、少し俯いた。園山さんは膝の上で両手を握りしめていた。息を吐きだし、私はまた顔を上げ、
「それは――」
ぱたぱたと廊下を駆けてくる音がした。ふたり同時に頭を巡らせた。
「こっちにいた。図書室で探しちゃったよ」
ひまわりだった。はっとして立ち上がる。よほど慌てたように見えたのか、彼女は少し怪訝そうな顔つきで、
「話し中だった? なら待ってるよ」
「ごめん、鼓さん。ちょっと雑談してただけ」
園山さんが言い、薄い笑みを浮かべた。荷物を抱え、空き缶をごみ箱に放ると、
「付き合ってくれてありがとう。またね」
足早に離れていった。廊下の角を曲がってその背中が消えるまで、一度もこちらを振り返ることはなかった。
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