アリス――鏡の中の(12)



 その日は朝から雨だった。


 忘れもしない。

 冷たい雨が降る夏の終わりのある木曜日のことだった。




「ねえ、行くんでしょ? 行くのよね、お墓参り?」

「俺は……行かない」

「ひょっとして……まだ怒ってる? 昨日のこと」


 俺はそれには答えずに、低く唸るような声を漏らしてベッドの上でごろりと背を向ける。


「具合が悪いんだ。吐き気がするし、痛い」




 具合が悪いんじゃないだろ、罰が悪いだけ。

 吐き気がするのは、守られ弱い自分自身に。

 しくしくと痛むのは、ちっぽけなプライド。




「えっ!? 大丈夫? 熱は計った? 痛いのはどのへん? 頭とかお腹とか――」

「良いって。寝てれば夜までには治ると思うし。だから、俺は行かない。行けない」

「そっか」


 その時あいつは寂しそうに呟いたんだ。




 いつもそうだった。

 甘えん坊で寂しがり屋の、黒づくめで不吉なアリス。




「じゃあ、代わりにあたしからママに伝えておくね。白兎はくとは家でお留守番するって」


 じゃあね――困ったように眉根を寄せた笑みを浮かべた安里寿ありすは控え目に手を振ってドアを閉める。俺はそれが妙にかんさわって仕方がない。あいつは――そう、あいつはきっと、俺が仮病をつかっていることも、墓参りに行きたくない本当の理由も分かってる。気付いてるんだ。


 糞っ、良い子ちゃんぶりやがって。


 俺は苛立ちささくれ立つ気持ちを押さえつけようと、ブランケットをすっぽりかぶったまま胎児のように身体を丸める。が、押さえ込もうと、隠そうとすればするほど頭の血管はどくどくと脈打ち、しまいにはずきずきとうずき出した。不満と不平が混じり合ううめきを飲み下し、息を殺して潜めば潜むほど胸のつかえは大きく育ち、しまいにはきりきりと胃袋を締め上げた。


「えっ? …………じゃあ…………そうね…………がいいわね」


 お袋の声が階下から途切れ途切れに聴こえてくる。ときおり相槌を打っているのはもちろん安里寿だ。あいつのことだ、当の本人が言うよりよっぽど上手く説明してくれることだろう。


 糞、糞、糞っ。


 こん、こん、こん。


「それじゃ、ママと二人でパパに会ってくるね。具合、酷くなったら病院に――」

「行くって。子供じゃない。大丈夫だって言ったろ」

「うん。……ごめんね?」


 とんとんとん、と安里寿が小走りで階段を降りていく音がして、俺はようやっと息をつく。




 何だよ、ごめんね、って。


 ごめんね、置き去りで出掛けてってことかよ。

 ごめんね、子供扱いしちゃってってことかよ。




 じきセルモーターの廻る音が響き、水溜まりを蹴り上げるようにしてエンジン音が遠ざかっていく。俺は締めきったカーテンの隙間からそれを見届けると、まだ降り止まない陰鬱にくらくけぶるにび色の空に視線を向けた。


 残ったのは――後ろめたさと罪悪感。

 残されたのは――俺ただ一人。


 すがるように差し伸ばした俺の手と指は、自然と覚えたての奇妙なサインを形造っていた。両手の親指と人差し指を合わせ、そこにできた三角形から遠い曇天を睨み付けて吐き捨てる。


「……全て糞ったれだ。優等生で偽善者のアリス。お前なんかこの世からいなくなればいい」











 ◆◆◆











「その日……安里寿とお袋は夜になっても帰ってこなかった。俺が吐き出した呪いどおりに」


 ぼつり、と呟いた白兎さんの声は、まるで老人のそれであるかのように皺枯れていました。


「俺はいつの間にか眠っていたらしい。夢の中で俺は、騒々しい目覚ましの音の止め方が分からなくて部屋の中をうろつき回っていた。やがてその音の正体が、現実世界の電話のベルだと気付いて仕方なく階段を降りて行った。が……まだ、止まない。溜息を吐いて受話器を取ることにした」


 ぶるり、あたしは唐突に襲ってきた寒気に身を震わせます。


「そうしたら、やけに平坦な男の声でこう言われたんだ――ご家族に、四十九院つるしいん祥歌しょうかさんという方はいらっしゃいますか、と。それは母です、そう答えた。男はひと呼吸置いてこう続けた――祥歌さんと同乗者の方が交通事故に遭われ現在〇〇救急病院に搬送されています、すぐ来ていただけますか、と。病院の住所も言われたが、もう俺にはまるで聴こえていなかった」


 同乗者、という単語が妙に耳朶じだの中でひっかかりましたが、あたしは無言で頷きます。


「どうやってそこへ辿り着いたのか、正直俺はまったく覚えていない。タクシーに乗れたのか、行先を伝えられたのか、それすらさっぱり分からない。気付いたら集中治療室ICUの前にいた。分厚いガラスの向こう側に血塗れの女が横たわっていた。両脇に立つ男たちが言う。あれがお前の母親だ、と。俺は愕然としつつも、より優先度の高い質問をした――安里寿はどこだ?」




 じゃりっ――しゅぼっ――ふぅ。




「両脇に立ついかつい男の一人が済まなそうに身を縮こませてこう言った――検視解剖中なので、それが終わるまで同乗者には会わせることも帰すこともできない、と。もちろん納得いかなくて喰い下がった。同乗者なんてどうでも良いから安里寿に会わせてくれ、と。すると男はこう言ったのさ――会っても誰か分からないくらいに遺体の損傷度合が酷かったんです、と」




 はは。

 ははは――。


 白兎さんの感情に欠けた乾いた笑いがあたしたちを取り囲む闇に滲んで消えていきます。




「あとで聞いた話だ。俺はその直後、その警官に殴りかかったんだそうだ。だってそうだろ? 安里寿は『同乗者』でも『遺体』でもない。ちゃんとした安里寿って立派な名前があるんだ。けれど、なぜ警察の連中が揃ってそんな言葉を口にしたのか、あとになって俺にも分かった」


 白兎さんはジャケットの内ポケットから使い込まれた手帳を取り出すと、ページに挟まれていた一枚の古びたー写真を探し出してあたしにも見えるようにかざします。


「……これが事故直後の写真。現場は見通しの良い直線道路。トレーラーと正面衝突、乗用車の助手席はぐしゃぐしゃだ。トレーラーの運転席も電柱に激突して跡形もなく潰れている。生存者はお袋だけ。そのお袋も衝突の衝撃で頭蓋骨が砕けて、脳の一部に甚大な損傷を負った」


 白兎さんが、ちょんちょん、と指先で指し示したのは額のあたりでした。


「それでやっと分かった。どうして警察の連中があんな言い方をしたのか。それは、助手席に乗っていた人間が、からだ、って。検視解剖をしたのも身元が特定できなかったからだ、って。それが分かった」

「――っ!」

「けれど、どうしてそうなったのかは誰にも分からなかった。双方ともに通い慣れた道だったことが事情聴取から分かった。だが、事故当時は雨の勢いが一段と激しかったらしくってな。ワイパーをフル稼働させてもまともに前が見えなかったに違いない。どちらにもブレーキこんは無し。きっと衝突寸前まで相手の存在に気付いてなかったんだろうな。そして――どんっ!」


 突如悪意を伴って飛び出したその音に耐え切れず、あたしは思わず目を閉じ耳を塞ぎます。




 なんて――なんてこと。

 あたしはがくがくとただ震えるばかりでした。




 じゃりっ――しゅぼっ――ふぅ。




「唯一の生き残りとなったお袋は、その時、その瞬間、そこで何が起こったのか知っている。だが……事故で負った頭部へのダメージは深刻だった。お袋は……過去の一切を失ったんだ」



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