第3章 第1話 女子高生はじめました その1
これ以上ないほどに爽やかな気分で、安藤龍二は目を覚ました。
枕元の携帯を手に取って時刻を確認すると、目覚ましのアラームが鳴る五分ほど前だった。
気怠さもなく、二度寝の誘惑も皆無なほど、理想的な目覚め方だ。
ゆっくりと上半身を起こし、腕と背中を伸ばす。
指先まで目覚めていくような感覚に、大きく息を吸って、吐く。
立ち上がってカーテンを開け、その眩しさに目を細めた。
今日から九月になるが、まだまだ暑い日は続くと宣言するような強い日差しを全身に浴びる。
目覚めたばかりの身体に、日差しが染み込んでいくような感覚だった。
「学校、か」
夏休みは昨日で終わり、今日から新学期が始まる。
龍二にとっては、一際特別な新学期になる。
「よし」
気持ちを切り替えるように頬を軽く叩き、丁寧にアイロンがけされた制服をハンガーから外して着替える。
アイロンをかけてくれたのは、安藤家の家事の八割を担う安藤静恵だろう。あとできちんとお礼を言っておかなければと、新品同様のシャツに袖を通しながら龍二は思った。
鞄の中身は昨晩のうちにチェック済みだ。
携帯を忘れずにポケットへと入れ、最後に机の上に置いてある腕時計を装着する。
これをつけ忘れると、色々と面倒な事になるので忘れる事は許されない。
忘れ物がない事を確かめた龍二は、軽い足取りで部屋を後にし、一階のリビングへと顔を出す。
「おはよう、姉さん」
「おはよー」
ソファの横に鞄を置いた龍二は、台所にいる安藤奏に挨拶をする。なにやら調理中の奏は、一瞬だけ龍二に視線を向けて挨拶を返した。
「えっと、姉さんだけ?」
「うん。お父さんから資料を届けて欲しいって連絡があって、お母さんはさっき出て行っちゃった」
「相変わらず忙しそうだね」
「本当にねー」
いつもの事だから慣れたとばかりに笑みを浮かべる。奏の父親である安藤聡は研究職の人間であり、なかなか自宅に帰ってくる事がない。決して家庭を蔑ろにしているわけではないと、静恵も奏も理解を示していた。だからこその笑みなのだ。
「朝食とお弁当、もうすぐできるから。龍君は先に顔、洗ってきたら? まだでしょ?」
「そうさせて貰うよ。終わったら僕も手伝うから」
「ありがと。でももうすぐ終わるから大丈夫」
「そっか。じゃあ、間に合ったらってことで」
いつも通りの会話を交わした龍二は、安堵のため息を小さく漏らして洗面所へと向かう。
さも当たり前のように奏と話していたが、この状態に戻るまではかなりの時間と労力を要した。
事の始まりは数週間前の、あの花火大会まで遡る。
奏に言われて花火大会がある事を思い出した龍二は、息抜きになるだろうと二人の少女を誘った。
彼を守るために送り込まれたエージェントである久良屋深月と、神無城うてなだ。
花火大会には深月と共に行く事になったのだが、同時にある事件も起きた。
結果として事件は無事解決したのだが、龍二はすっかり忘れていたのだ。
奏が花火大会の話をした時、彼女も龍二と一緒に行くつもりがあったのだという事を。
それをすっかり忘れていた龍二が安藤家に帰宅したのは、当然の如く花火大会が終わった後だ。
連絡を入れる事も忘れていた龍二を待っていたのは、浴衣で着飾った安藤奏だった。
玄関先の石段に座り込んでいるその姿を見た瞬間、龍二は己のミスを絶望的な気分で理解した。
仮に玄関先で待っていた奏が、怒りも露わに仁王立ちでもしていれば多少は気が楽になったかもしれない。
だが、龍二を待っていたのは、上質な浴衣に身を包んで膝を抱える奏だった。
近づいてみれば、薄っすらと化粧をしているのもわかった。
玄関の陰に蹲り、死んだ魚のような目をしていなければ、見惚れてしまっただろう。
錆びついた玩具のようにゆっくりと顔を上げる奏に、龍二はすぐさま謝った。謝り倒した。
が、そう簡単に許しては貰えなかった。
よくよく考えると、奏と花火大会に行くという確かな約束をしていたわけではない。
とは言え、提案してくれたのは奏なのだから、一言断りや報告をしておくべきだったのだ。
その日龍二は、報連相の大切さを学んだ。
とにもかくにも、それからが大変だった。
かつてないほどに奏の機嫌を損ねてしまった。
どうにか機嫌を直して貰おうと、なりふり構わず謝って謝って謝り倒した。
途中からは明らかに奏自身も面白がっていたような気はするが、とにかく許して貰えるように頑張った。
おかげでどうにか、新学期を迎える前には仲直りをする事ができたのだ。
その間、相談できる相手が神無城うてなくらいしかいなかったのは、彼にとって不幸と言えた。
やや常識がズレている彼女に相談しても、参考になる意見が返ってくるわけがないのだが、その時の龍二にしてみれば藁にも縋る思いだったのだ。
「気をつけないとなぁ」
もう二度とあんな苦労はしたくないと、龍二は苦笑する。
水で濡れた顔をタオルで拭き、鏡の中の自分を眺める。
特に変わったところはない、いつもと同じ顔がそこにはあった。
軽く頭を掻き、龍二は洗面所から出てリビングへと戻る。
「いいタイミング。朝ごはん、そこにあるから。あとこれ、お弁当ね」
「あれ、姉さんの分は?」
「私はいいの。もう出るから」
「え? いつもより早くない?」
「今だと電車が一本早いのに間に合うんだよね。それだと混まないから」
「でも、少しくらい食べたほうが……あー、いや、うん」
奏が急いでいるからといって朝食を抜くようなタイプではないと思い出し、なんとなく察した龍二は曖昧に頷いた。
ここで素直に『ダイエット?』などと口にしないのが、姉を持つ弟としての処世術である。
「そうだ。だったらこれ」
ふと思い出した龍二は、鞄からスティックタイプの携帯食料を取り出し、奏に差し出す。先日、うてなと会った時に貰った物が残っていた。
「ありがと。それじゃ、行ってくるね」
「うん。気を付けて」
「龍君も。遅刻しちゃダメだよ?」
「わかってるよ」
上機嫌に出て行く奏を見送り、龍二はテーブルに座って用意されたばかりの朝食に手を付ける。
つけっぱなしだったテレビから流れる、特に代わり映えのしないニュースを横目に、食事を腹に収めた。
奏が用意してくれた弁当も忘れずに鞄へ入れ、戸締りなどを確認して玄関を出る。
「おはよう」
そこに待っていたのは、久しぶりに顔を合わせる少女――久良屋深月だった。
「おはよう。なんて言うか、元気そうでなによりだ」
「えぇ。今日から任務に復帰するわ」
安堵の笑みを浮かべる龍二に、深月も笑みを返す。
龍二が最後に彼女を見たのは、ストレッチャーに乗せられて運ばれていく姿だった。
それからおよそ三週間。
普通の病院ではなく、組織の医療施設に運ばれて治療を受けていた深月とは、顔を合わせる事ができずにいた。うてなを通じて交渉はしてみたが、さすがに許可は下りなかった。
見た目ほど酷い怪我ではなかったと聞いてはいたが、実際にこうして会うまでは、拭いきれない不安があった。
咄嗟の事態に上手く対処できなかった負い目など、本来なら龍二が感じるべきものではないのだが、彼の性格的にそれは難しい。
深月もそれをわかっているからこそ、なにも問題はないと態度で示して見せる。
どうしても彼が負い目を感じてしまうのなら、少しでもそれを軽減できるように振舞う。それがエージェントとして深月が出した答えだった。
「改めて、よろしくお願いするわ」
「それは僕の方だよ。また、よろしく……って、もう襲われたりなんだりは勘弁して欲しいけどさ」
「私もそう願っているわ」
冗談めかす龍二に深月は苦笑する。お互いに、心の底から願っている事だった。
何事もなく日々がすぎ、彼の安全が確認され、深月とうてなは任務を解かれる。
一日でも早くそうなればと思うが、不思議な感覚が深月の思考を掠めていった。
あえてその引っ掛かりには目を向けず、深月は携帯端末を取り出して時刻を確認するふりをする。
「さて、行きましょうか」
「うん」
頷いて歩き出す龍二の隣に並び、学校へと向かった。
「そう言えば、さ……どうなってるんだろう? その、色々と」
校舎が遠目に見えて来た頃、龍二が遠慮がちに深月へと疑問を投げかけてきた。
随分と曖昧な問いかけだが、彼が聞きたがっている事に見当はついている。
「前に説明した通りよ。彼女……逢沢くのりは転校した事になっているわ」
「やっぱり、そうなんだ」
急場を凌ぐための言い訳だったはずだが、結局はそのまま押し通す事になったようだ。龍二は一抹の寂しさを覚えるが、表情には出さないように努力した。
「みんな、驚くかな。急な話だし」
「その点は大丈夫よ。組織が対処済みだから」
「え、なに? どういう事?」
「あなたは除外されていたけど、あの爆発事件の後、生徒や教師を対象にメンタルケアが行われたのよ。精神的なショックを受けた生徒がいるかもしれない、という理由で」
「そうだったんだ」
自分だけが除外された理由は、なんとなく察しがつく。四六時中彼女たちに監視され、会話もかわしていたのだ。あえて特別なケアをする必要はないと判断されたのだろう。
「でもわかんないな。メンタルケアの話とくのりの話がどう関係するのさ?」
「彼女に対する興味をそれほど抱かない。そういう暗示かなにかをかけた、と聞いているわ」
「暗示って……なんか怖いんだけど」
「わかりやすく言えば、という事でしょうね。私もそういった方面の話は詳しくないの。でも、大丈夫よ。悪影響はないそうだから」
「そっか」
具体的な方法はわからないが、そういう事ならくのりについて勘繰られたりする心配はないのかもしれない。
真実を話す事などできるはずがないのだから、それが一番いい方法と言われれば、そうかもしれないと頷ける。
だが、なんだかそれは少し寂しい気もすると、龍二は視線を落とす。
夏休み前まで一緒だった少女がいなくなっても、みんな気に留めない。
転校してしまった、その一言で納得して、通り過ぎてしまう。
それで良しとしてしまえるほど、龍二にとって彼女は、軽い存在ではなかった。
「それに、今日はきっと別の問題にみんなの目が向くでしょうし」
「なにかあるの?」
「すぐにわかるわ」
深月はそう言って、意味深な笑みを浮かべる。彼女がこういう表情をするのは、非常に珍しい事だった。
だからこそ龍二は、嫌な予感を覚えずにはいられなかったのだ。
「はい、では早速ですが、転校生の紹介をします。はい、静かにー」
そして龍二は、すぐにその意味を理解した。
夏休み明け、最初のホームルーム。
まだ夏休み明け特有の緩く、浮足立つような気配に包まれた教室の空気が、担任教諭の一言で一気に沸き立つ。
沸き立っているのは主に男子生徒だが、それも当然だろう。
転校生として担任に呼ばれ、教室に入って来たのは女子生徒だ。
真新しい制服に身を包み、やや緊張した面持ちで教壇の横に立っている。
その背後にある黒板に担任が白いチョークで名前を書き記す。
「……神無城うてな、です。よろしく」
聞き間違いでも見間違いでも人違いでも他人の空似でもない。
転校生として紹介された少女は、龍二がよく知る少女――神無城うてなだった。
深月と同じ組織に協力しているエージェントであり、普段は少し離れた場所から周囲の警戒や護衛をしてくれている少女だ。
夏休みの間、それなりの頻度で顔を合わせていたからこそ、龍二は気づく。
やや緊張しているように見えるその表情は、若干の苛立ちや気恥ずかしさが織り交ざった結果、引きつるようにして彼女の顔に張り付いているのだと。
呆けたような龍二の視線に気づいたうてなは、教壇の上で一瞬だけ目を細める。
なにか言いたい事でもあるのか、と言いたげな鋭い視線だった。
だが、龍二が間の抜けた表情になってしまうのも仕方がない。
龍二がうてなと直接顔を合わせるのは、三日ぶりになる。
その僅か三日の間に、うてなの姿は以前とは劇的な変化を遂げていた。
まず驚くのが、皺ひとつない制服に身を包んでいる姿だ。彼女は任務でもプライベートでも、スカートを着用する事がない。少なくとも龍二や深月は、一度として見た事がなかった。
だからその膝上数センチのスカート姿というのは、新鮮どころの話ではないほどに、神無城うてなという少女のイメージを一変させていた。
そして、今までのうてなを知るからこそ、彼女の艶やかな髪に目が行く。
無造作に結い上げられていたあの長い髪が、今は肩に届かないほどまで短く切り揃えられていた。
どういう心境の変化なのか、知りたくなるのは仕方がないだろう。
最後の決め手は、その顔を彩るように添えられた眼鏡だった。
視力が悪いという話も、実はコンタクトレンズを使用していたという話も聞いた事がない。
結果的に、その全身を使って龍二を混乱させに来たのではないかと思うほど、神無城うてなの姿は衝撃的だった。
一通り間の抜けた顔で呆けていた龍二は、いろいろと言いたい事や訊きたい事を飲み込んだ。このシチュエーションとタイミングで渦中の人物に声をかけるのは、自殺行為に他ならない。
これまでの経験から、龍二は賢明な選択をした。
「久しぶりね、神無城うてなさん」
が、第三者が同じように賢明な選択をするとは限らない。
簡単な自己紹介を済ませたうてなは、担任に促されて都合よく空いている席に座ろうとしていた。
空いている席はもちろん、龍二の一つ前の席。夏休み前まで、別の少女が使用していた席だ。
小さくため息をついてうてなが着席しようとした、まさにその瞬間だった。
「何年ぶり? またクラスメイトになれるなんて、面白い偶然よね」
気さくな口ぶりでうてなに話しかけたのは、龍二の左隣に座っている少女――久良屋深月だった。
よりによってなぜ彼女が、と龍二は目を見開いた。
深月はそんな龍二の視線に気づいていないのか、気にする様子もなく、柔らかな笑みを浮かべたままうてなに話しかける。
「もしかして覚えてない? ほら、私。久良屋深月」
「……覚えてる。よろしく」
この状況は想定外なのか、うてなは胡乱げな表情で簡潔に答えた。視線が一瞬だけ龍二に向けられるが、小さく首を振って関与を否定する。なぜ深月がこんな風に話しかけているのか、皆目見当がつかない。
「転校しちゃったあなたは知らないかもしれないから、一応言っておくね。私ね、今、彼と付き合ってるの。親の都合で一度は離れ離れになったけど、この度めでたく復縁する事になったから」
「え、ちょ……あの、久良屋さん?」
なぜそんな火種にしかならない発言をするのかと、龍二は戸惑う。
新学期という事で、明らかな設定ミスをリセットするチャンスだったのに、なぜ蒸し返してしまうのか、理解ができない。
うてなと以前から知り合いだとアピールする事は、特に問題はないだろう。むしろ、プラスに働く要素と考えられる。
「それは、おめでとう。で?」
付き合っているからなんだと言うのか、とうてなは怪訝な表情を浮かべる。
「だから、龍二と復縁しようとか、考えないでって事。私の一つ前の彼女さんに」
「――――なぁ⁉」
その妙な叫びは、龍二とうてなの口から同時に発せられた。驚愕に目を見開く二人の表情は、シンクロした叫びにも匹敵する。
「だだ、誰がこいつの――」
「そういうのはいいから。私はただ、宣言しておこうと思っただけ」
やれやれと言いたげに肩を竦める深月に、うてなは絶句する。言いたい言葉が喉の奥で渋滞を起こしてしまっていた。
だから、というわけではないが、うてなの気持ちを代弁するように、龍二が口を開く。
「あ、あのさ、いくらなんでもそういう冗談は――」
「本当のこと、でしょ?」
冗談という事にしてしまいたい龍二の引きつった笑みを、短くも揺らぐ事のない声で深月は断ち切る。
どういうつもりなのかはわからない。正気とも、思えない。
だが深月は、大真面目に、神無城うてなも安藤龍二の元カノだという設定にするつもりのようだ。
うてなもそれを理解したのか、やや頬を引きつらせて机に手をつく。自分が宛がわれた机ではなく、深月の机に、だ。
「オッケー。言いたい事はわかった。改めてよろしくね、久良屋深月さん?」
首を僅かに傾け、深月を見下すうてなの姿は、なんだか悪役のように見える。
あまり感じたくはない懐かしさを覚え、龍二はため息をつく。
これは、深月が転校してきた時と似ている。
あの時も、元カノがどうとかいう話でこじれた。
まさか、また繰り返す事になるとは、思いもしなかった。
深月の爆弾的発言によって、案の定ヒートアップするクラスの男子たちも、あの時を髣髴とさせる。いや、その熱はあの時以上かもしれない。
なぞの火花を散らす二人のエージェントを前に、龍二は考える事を放棄してこれから始まる授業の準備を始める。
そのような逃避が許されるとは思わないが、極力無関係を装う事にした。
少なくとも、事情を説明して貰うまでは、迂闊な発言をするつもりはない。
最終的に追い詰められるのは、他ならぬ龍二自身なのだから。
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