第20話 夏の始まり 六

わんっ 食わんと言ったら食わん!」

「食わんちゃうわ! 絶食してさっきみたいに倒れられたら敵わんのはこっちなんや。 ええから、出されたもん全部食べ! 口け!」


 祖父が早めの夕食をとって二階に上がった居間での事。

 夕飯が並べられた座卓を前にして、箸を構えた直と、バケツから逃亡した八景が、前述のとおり膠着こうちゃく状態を演じていた。

 一日と半日飲まず食わずで目を回した八景だが、それでも潮守としての矜持きょうじのほうが勝っているのか、用意された食事を断固として拒否していた。

 しかし、それも虚勢であろう。

 肌の色は悪いし、体がふらついているのも目に見えて分かる。

 どうせ限界のくせにと、直は呆れかえりながらじりじりと椀を八景へ近づけた。


「八景、そんに言わんと、ちょぉっと食べてみぃ。 陸の食いもんゆうのも、中々どうして、美味いもんじゃぞ」


 浮子星があいだを取り持とうと割って入るが、赤黒くなって威嚇する蛸は、腕を振り回して吐き捨てる。


「何を呑気なことを言っている浮子星っ お前もお前だ、陸者の食い物なぞ口にしよって! 毒でも入っていたらどうするつもりだ!」

「毒なんぞ盛られとったら、ワシ、もうとっくにくたばってしもうとるじゃろが……」


 昨日から潮守たちは、直たちが用意している食事を、何の恐れもなく口にしている。

 むしろ、初めての味だと言って、興味深げに味わっているくらいだ。

 直たちも初めは彼らの食文化への知識もないために、自分たちの食べているものが彼らの口に合うのか悩んでいた。

 しかし、人と繋がっている間は潮守と言えど食事も同様なものを口にして平気らしく、魚介類もおいしそうに食べるのである。

 直と尋巳が口を滑らして「共喰い……」と呟いたりしたが、文都甲曰く、厳密に言うと潮守と魚介類の間には隔たりがあり、同族というのは語弊があるのだという。(この説明に直たちは首を傾げたが、自分たち人間と他の哺乳類の関係と似たようなものだろうと納得した)


「あーもうっ ええ加減観念しない! 食べんことにはアンタやって身が持たんのやから。 また倒れて、それこそウチらの世話になるだけやろうが」


 人の世話になりたくないなら、自分の体くらい、自分で養え。

 そう言って直は八景の腕をつかみあげ、その下にあるくちばしへ箸を突っ込もうとする、が。


「いったあ!」


 じくりと左手に走った痛みに、直はおもわず八景を取り落とす。

 痛む箇所を見ると、手の甲に赤い噛み跡が残り、じんわりと血がにじんでいた。


 嘴で噛まれた。


 一拍遅れて、そう気が付く。


「こんのっ 何してくれとんじゃアンタは――――!」

「うるさい、この猿めが! 俺に気やすく触るんじゃないっ」

「えらっそうに! こっちがいつまでもええ顔しとると思うたら大間違いやけんなっ」

「上等だ、何と言われようが貴様らの世話になぞなるものか!」


 なんじゃ、このたあああこっ

 黙れ、さあああるっ


 零れた茶碗を挟んで、二人はののしり合う。


 するとその横を、しゅっと何かがかすめて、背後の畳に弾け散った。


「「…………」」


 目の前を過った物体に不意を突かれ、直と八景は飛び散った物を見下ろす。

 居間の畳へ飛び散ったのは、水の弾だった。

 背後で夏子が、ちょっとっ 雑巾! と台所へ駆けていく足音がする。

 水の弾こんなもの、一体どこから。

 二人そろって飛んできた方をそろりと振り返ると、座卓を囲んで座ったまま、しれっとした顔つきで尋巳がおもちゃの水鉄砲を構えていた。

 

「何やってんの?」

 

 訝しげに直が問いかけるが、それを無視した尋巳は、すっと冷たい顔を作って八景を睥睨へいげいした。


「そりゃあ、お前が飲まず食わずで野垂れ死のうが、俺らは痛とぉもかゆぅもないけどな」


 飯食わしてやろうゆう相手に噛みつくなんぞ、ええ根性しとるやないか。

 ドスのきいた物言いに、全員が気まずげに箸を止める。

 そんなところへ、夏子が ああ、染みができる! と雑巾を手に戻ってきて、静止していた空気が幾分和らいだ。


「尋兄ぃ、それ、なんなん?」

「尋、そりゃあまさか……」


 直と浮子星が眉を顰めながらおずおずと聞くと、尋巳はああと頷いて、


「別に? ふつーに水道水」


 と、水の入った銃を振ってみせた。

 水道水。

 それは分かるが、どうしてそんなものを。

 直が疑問符を飛ばしていると、席に着く潮守たちの様子が、にわかにおかしくなり始めた。

 浮子星はぎゅうと顔を顰めて仰け反り、心なしか文都甲も顔を青くして尋巳が握っているおもちゃを見つめている。

 その上八景までが、落ち着きをなくして畳の水気から身を引いているのだ。


「もしかして… 浮子星さんたち、」


 真水が苦手なん?

 孝介がきょとんとした顔で潮守たちを見まわす。

 するとその視線に苦笑いを浮かべた浮子星が、そうなんじゃと孝介の頭を撫でた。


「陸に上がる前から、感じとったことなんじゃけど…… どうも陸の気が強い水は、ワシらにとって害がある様でな。 触れればそこが、熱を持ったように痛みだすんじゃ」

「でも、それをなんで尋兄ちゃんが知ってるん?」

「昨日、浮子星を風呂に落としかけた時にかしたからな」


 浮子星が説明することには、三人が迎山を探して川の河口近くを通った時のこと。

 何も知らず真水の混じった海水に触れてしまった浮子星たちは、突然の痛みに何が起こったのか判断しかねて往生したらしい。

 術で直たちと繋がった今も、真水に近づくと嫌悪感で吐き気をもよおすということだ。

 そんなものにまみれたら、どうなることだろう。

 流石に身の危険を感じたのか、八景はぱったり口を噤んで、尋巳を睨みつけている。

 視線を受けて、尋巳はあと一回だけ猶予をやろうと不敵に笑い、水鉄砲を構えた。


「出されたもんは、しっかり食え。 この家に居る以上、それもお前らの義務や。 それが嫌やゆうんなら……」


 言いかけたかと思うと、尋巳は八景めがけて水鉄砲を乱射した。


 ぎゃああああ! やめろ貴様ッ

 尋ちゃん?! いやあああ水浸しぃ!

 尋兄ぃストオオオップ!

 うわぁああ! 尋、ちょっと待てぇ!?



 カシュッ…



 ――――はあ、はあ、はあ……



 全容量撃ち切った尋巳は、つまらなそうに水鉄砲を一瞥いちべつする。

 直が立っていた一角は、畳の上に水が飛んでひどい有様だ。

 水飛沫というとばっちりを食らった直は、上から下までぐしょ濡れ。

 直を盾に辛くも避け切った八景は、唯一無事な直の頭上で同じく荒い息を吐いている。

 穏やかだった(?)夕飯時が一転、とんだ惨状である。

 

「――――ほんなら一段落したことやし、さっさと飯食うて――『ゴンッッ!』いづッ!!」


 ふんぞり返って事を収めようとした尋巳に、その頭上から固い拳が一本勢いよく落された。

 人体が発するにはいささか危なげのある音に、直と八景がそろり、そろりと視線を登らせてゆけば…………尋巳の背後には、無表情で雑巾を握りしめている夏子が仁王立ちで立ち尽くしている。


「お兄ちゃん? 食事中に騒がない。 バカみたいな事はしない。 後始末は自分でする」


 平坦なはずの声が、異様なすごみを持って降り注ぐ。

 かと思えば、くるりと直と八景の方へ顔を向けて、


「御夕飯、味はどうかわからんけど、頑張って作ったから、ちゃんと食べてね(にっこり)」


と、ほほ笑んだ。


 これはまずい。

 即座に察した直は乾いた笑いを浮かべて箸を取り落とし、八景は腕を引き寄せてこてんと丸まる。

 

「お返事は?」

「「「……はい」」」


 仁王も斯くやとばりの有無を言わせぬ声音に、三人は大人しく返事をする。

 ここで下手を打つほど、全員馬鹿ではなかった。

 



***




 二階は部屋が分かれるからと、直たちは一階の二間続きの居間に敷布団を敷いて寝ることにした。

 万が一のことがあればすぐ対応できるようにという、尋巳の発案である。

 この場合の万が一とは、潮守たちがこうむる異常だけでなく、彼らの不審な動きというのも含まれている。

 寝る位置は、直たち三人と潮守たちは二人一組ということで、直と八景、尋巳と浮子星が一間。

 夏子と文都甲、そして晴真と孝介で一間という並びで布団を敷いた。


「いやだぁ~っ ここがいい! ここったらここ!!」

「だぁめぇや、文都甲こいつ隣にしたら、お前ら話ばぁして寝んやろうが。 孝介と二人は、並んで端から寝ぇ。 間に夏子挟んで、端が亀や」

「ばか! 横暴ゆうなバカ!」


 夕飯時も片時も離れず話を聞きたがった年少組が文都甲を挟んで寝たがるのは当然のことで、それを尋巳に止められた二人は口を尖らせて渋ってみせた。

 あれだけ喋ってもまだ足りないとは、小学生の好奇心おそるべし、である。

 しかし夏子からも明日の学校があるのだからと説き伏せられて、残念そうにしつつも尋巳の言った並びを了承し、全員十時には床に就いた。


「尋兄、明日、ホンマに大丈夫かな」


 盛り上がっていた割に布団に入ってすぐ眠りについた孝介たちの寝息を聞きながら、直は不安を紛らわせたくて従兄あにに小声で話しかける。

 相変わらず黙り込んでいるバケツの蛸は、眠っているのか、起きているのか、その様子はうかがい知れない。


「心配してもしゃーないやろ、休むわけにもいかんのやし。 夏はともかく、俺とお前は学校同じなんやから、困ったらうて来い。 なんとかしちゃるわ」

「うん……」


 珍しく気遣う言葉を聞き、直は小さく返事をする。

 尋巳の言う通り、無駄な心配ばかりしていても仕様がない。

 寝てしまおう、そうすればやがて朝が来る。

 開けた窓から、虫の音が響く。

 薄布団の下で、直は寝返りを打った。


 明日は、いよいよ潮守たちとの学校生活が始まる。

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