第29話

 果澄は、目を見開いた。話の腰を折りたくなかったので、静かに拝聴はいちょうしていたが、密かな驚きを感じていた。弟のとおるの顔が、脳裏のうりよぎる。両親に可愛がられる人懐こい表情と、深夜に油淋鶏ユーリンチー炒飯チャーハンを作ったときのドライな眼差しが、今も記憶に焼きついている。美貌にうれいをたたえた小海は、淡々とした口調で語り続けた。

「出来のいい兄を意識していた僕は、誰かと自分が比べられることに、昔から強いコンプレックスがあったんでしょうね。翠子は、優れた料理人です。僕には『波打ち際』の味を作ることはできますが、技術面でも、センスの面でも、翠子にはかなわない……そう感じることが、二人で厨房に立つうちに、少しずつ増えていきました。『波打ち際』のニーズに合っていないモーニングを提案したとき、僕は焦っていたんだと思います。翠子の目を気にして、翠子を言い訳にして。本当に意識しないといけないのは、お店に来てくださっているお客様であるべきなのに、周りが見えていませんでした」

「……私。小海さんは、翠子と張り合って焦ってただけじゃない……と、思います」

 何の気休めにもならないと知りながら、果澄は言った。内面を包み隠さず明かした小海も、本当は果澄のように気が動転していたのかもしれない。今も翠子との復縁を考えていて、本当に翠子が大切なら、強く心配していて当然だ。

「私にも、優秀な弟がいて、両親に可愛がられていて……小海さんと、境遇が少し近いのかもしれません。家が居心地のいい場所じゃないって感じたことも、ありました。でも、それは弟の所為ではありませんし、むしろ、私が頑固がんこな所為でもあって……とにかく、いろいろありましたし、それなりに喧嘩もしてきましたけど、久しぶりに帰省きせいしたときに、元気な姿を見られてよかったと思えるくらいには、私は恵まれているし、家族が大事で……」

 何が言いたいのか、分からなくなってきた。もどかしさと恥ずかしさで目が回りそうになりながら、伝えたい答えを見失わないように、果澄は言葉を繋いでいく。

「たとえ小海さんが焦ってたんだとしても、何かを提案して、元々ある形を変えていくことって、すごく大変で、勇気がいることだと思います。それでも挑戦しようって思ったのは、お店のためだったり、お客様のためだったり、翠子のためだったりするんじゃないかなって……私は、思いました。……まあ、だからといって、それは浮気をしていいって理由には、全然ならないと思いますけど」

 最後に文句もキッチリ添えつつ言い終えると、小海は不意をかれた顔をしてから、初めて純粋な笑みをのぞかせた。それでも憂いのくもりが晴れない顔を見つめていると、以前にも小海にシンパシーを感じたことを思い出す。器用に振る舞うことができるのに、不器用さもあわせ持っている小海は――ひょっとしたら、果澄に似ているのかもしれない。翠子のことが大嫌いだった過去を持ち、昔から抱え続けてきた恨みつらみに固執こしゅうして、本当に嫌いな人間が誰なのか、心の底では気づいていたのに、ずっと気づかないふりをしていた、劣等感のかたまりの――以前の果澄に、似ているのかもしれない。雲のように捉えどころがなかった男の輪郭りんかくが、やっと見えたような気がしたとき、どこか寂しげだった小海の笑みは、大人の余裕を感じるものに戻っていた。

「翠子が、あなたを特別な存在だと思っている理由が、僕にも分かった気がします」

「……そういうふうに言えば、私が困ると思って、楽しんでませんか?」

「そういうふうに見えますか?」

「問いかけに問いかけを返して、答えを誤魔化そうとするのは、ずるいと思います」

「手厳しいですね」

 ふっと微笑みかけてきた小海は、やはり天性の人たらしだと思う。やりにくさを感じた果澄が、つい憮然ぶぜんとしたときだった。「お待たせいたしました。アフォガートです」と女性店員の声が掛かり、テーブル席に二つの瀟洒しょうしゃなカクテルグラスが配膳はいぜんされた。

 透明な器には、小海から聞いていた通り、バニラとチョコレートのアイスクリームが二段重ねで盛られていて、乳白色とココア色の雪だるまのようなたたずまいが可愛らしい。ツートンカラーを収めたスノードームのようなカクテルグラスの隣には、透明なカップに注がれたエスプレッソが添えられていて、夜闇のように黒々とした水面には、ほのかな湯気が立っていた。どちらからともなく「いただきます」と言って、エスプレッソのカップにそれぞれ触れる。

「熱いので、お気をつけて」

「は、はい」

 指をいったん引っ込めてから、慎重にエスプレッソのカップを持って、店内の照明を照り返すカクテルグラスに、漆黒と見紛うカフェインの熱を注いでいく。冷たいアイスクリームがじわりと溶けて、色彩が闇に取り込まれ、ビターなチョコレート色を拡げながら、次第にマーブル模様を描いていく。柔らかくなったアイスクリームをスプーンですくい、零さないように気をつけながら、口に運んだ。温かいコーヒーを纏うアイスクリームは、苦みが良いアクセントになっているというよりも、なくてはならない一部として、柔らかい甘みに共存している。

「苦くて、甘い……」

 熱い苦みと、冷たい甘みが奏でる対比は、翠子と十三年ぶりに再会した日に振る舞われたライムジュースを想起させた。また涙腺が緩みそうになったから、スプーンを動かせないでいる間に、みるみる溶けていくアイスクリームが、少しずつエスプレッソに呑み込まれていく過程を、なすすべもなく見送ってしまった。

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