episode15 似た者同士で見つめるビターチョコ・アフォガート

第26話

 スタンド看板を店内に引き入れて、流したままにしていたピアノジャズのBGMを切ると、夕方に差し掛かろうとしている『波打ち際』は、寒々しい静寂に支配された。窓から入るだいだいの陽光が、ホットココアを飲んだ夏の再現のように、店内を明るく染めていて、テーブルや厨房にわだかまる影を濃くしている。

 店主が不在の喫茶店に、たった一人で立つ果澄は、掃除用具をバックヤードに片付けてから、二階の鮎川あゆかわ家に続く階段を上がった。一人きりの足音が、嫌に大きく耳につく。短い廊下を進み、開けっ放しにしていた寝室をそろりと覗くと、ベッドの掛布団に包まったふくらみが動いたから、驚いた果澄は、小さく言った。

「起きてるの?」

 応答はなく、代わりに小さな寝息が聞こえてきた。こちらに背を向けて眠る翠子に、果澄も背を向けて歩き始める。バックヤードの階段を下り切ったところで立ち止まり、ポケットからスマホを取り出した。最近登録したばかりの電話番号をタップしてから、耳に当てる。

 どうして電話を掛けようと思ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、今日の出来事を一人では消化しきれそうになくて、翠子の置かれた状況について、果澄よりも理解がある誰かの声を聞かなくては、これ以上前に進めそうになかった。

 故郷に掛けた電話は、三コール目で繋がった。

『お電話ありがとうございます。『大衆食堂たまき』です』

 すんなりと通話が叶ったのは、現在の時刻がランチタイムからディナータイムまでの間の、休憩と仕込みに当たる四時過ぎだったからだろう。先日の土曜日に聞いたばかりのハスキーな声の持ち主に、果澄は平常心を意識しながら、小声で名乗った。

珠季たまきさん……私、乙井おとい果澄です。先日は、お世話になりました」

『果澄ちゃん? こんにちは。こないだは、お店に来てくれてありがとうね』

「こちらこそ、ありがとうございました。今、お電話大丈夫ですか?」

『……どうしたの? 何かあった?』

 果澄の平坦な声音から、察するものがあったのだろう。問われた果澄は、ぽつりぽつりと話し始めた。

「実は、今日、翠子さんが……」


     *


 ――『翠子!』

 椅子にへたり込んだ店主の元に駆け寄ると、翠子は俯いたままかぶりを振った。

 ――『大丈夫、お腹の張りがきつくなっただけで……少し休めば良くなるから』

 口元は気丈きじょうにも笑みの形を作っていたが、翠子は顔を上げようとしなかった。今までに見たことがない異変を目の当たりにした果澄は、頭の中が真っ白になっていたが、自然と次の行動に移れていた。短いながらも今までに『波打ち際』で働いてきた経験が、果澄に決断を迷わせなかった。

 ――『果澄? 何して……』

 急ぎ足で厨房を出る果澄に、翠子が声を掛けてくる。構わず、果澄は『波打ち際』の外に出ると、扉に掛けた『OPEN』の札を裏返して『CLOSED』にした。すぐに厨房に取って返し、茫然の顔をしている翠子に、短く告げる。

 ――『今日は、お店を閉めよう。お客さんにも、今から謝ってくる』

 ――『ちょっと、待ってよ。これくらい、平気だよ。よくあることだし、子どもへの影響も心配しないで。あたしなら、大丈夫だから』

 ――『私には、全然、大丈夫に見えない』

 律せない動揺で、声が大きくならないように気をつけながら、囁き返した。震えを抑えた声を聞いた翠子は、ひどく痛ましげな顔をしてから、悔しそうに目を細めて、俯いた。そして、ほどなくして顔を上げると、哀しげに愁眉しゅうびを開いた。

 ――『お客様に謝るときに、ラストオーダーを取ってきてくれる? コーヒー以外のドリンクなら、果澄が作れるし、あたしも休みながら見守れるから……』

 ――『……分かった』

 苦しさを押し殺して答えた果澄が、座ったままの翠子に背を向けると、『ごめんね』とつらそうな声が聞こえたから、胸の奥がひどくきしんだ。『波打ち際』を閉められたのは、それから一時間後のことだった。

 最後の客が、心配そうな顔で喫茶店を出たあとは、翠子を二階の寝室に連れて行き、ベッドで横になるところを見届けた。それから、果澄は一人で閉店準備を終わらせて、眠っている翠子の様子を見に行って――現在に至っている。

『……そっか。うん、よく分かった。電話してくれてありがとう』

 果澄から一通りの話を聞いた珠季たまきは、落ち着いた声で礼を言ってから、『ごめんね。翠子のことで、心配と迷惑を掛けて』と言った。果澄は「迷惑なんて」と返事をしたが、スマホを持つ右手が今さらのように震え始めたので、左手で強く押さえつける。声も震えていたからか、スマホから聞こえる珠季の声が、より優しいトーンになった。

『身体がしんどくて横になることは、妊娠中にはよくあるんだけど……私も翠子を産んだとき、同じ感じだったから。でも、果澄ちゃんには怖い思いをさせたよね。今日は、大変だったね。私たちに代わって、あの子をそばで支えてくれて、本当にありがとう』

「そんな……私、何もできなくて……」

 謙遜けんそんではなく、本心からの言葉だった。今日の営業を切り抜けられても、作れる料理が少し増えても、飲食店を安定して経営していくには、まだまだスキルも経験も足りていない。翠子という店主がいなくなったとき、果澄ひとりでは喫茶店を決して守れないということを、完膚かんぷなきまでに痛感させられた一日だった。果澄の葛藤かっとう自責じせきの念を、珠季がどう受け取ったのかは定かではないが、こちらに掛けられた言葉のトーンは、今までと変わらず穏やかだった。

『翠子には、私からも言っておくから。近いうちに、そっちに行くね』

「え? 東京に……ですか?」

『うん。こうなる未来は読めてたのに、結果的にこうなっちゃったのは、気づいてたのに何もできなかった私の責任でもあるから。果澄ちゃんも、疲れたでしょ。帰ったら、ゆっくり休んでね。何かあれば、遠慮せずにまた電話してね』

「はい……ありがとうございます……」

 礼を何度も伝えてから通話を終えると、屋内の静寂から伝わる威圧感が、少しだけ軽くなった気がした。代わりに、身体の疲労は増していて、スマホをカーディガンのポケットに仕舞った果澄は、ずるずるとその場にへたり込む。先日初めて会った珠季が、大衆食堂で翠子に告げていた台詞が、ふっと脳裏によみがえる。

 ――『いざというときに、翠子のそばには家族がいない。他人しか周りにいないって現実は、変わらない。そのことで、困ることだって出てくるよ』

 珠季が教えてくれた電話番号は、果澄が自分から訊けばよかったのだ。東京で暮らす翠子のそばで、最も長い時間を過ごしているのは果澄なのに、受け身の姿勢のままここまで来てしまった自分のことが、情けなくて許せなかった。

 悔しさと不甲斐にさいなまれていると、突然に鳴り響いたインターホンが、静かな空間に音を取り戻させた。緩慢かんまんに立ち上がった果澄は、そばにあるモニターを覗き、息を呑む。液晶には、見知った顔が映っていた。

小海こうみさん……?」

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