第15話
午後六時を過ぎた頃に、玄関扉が開く音がした。ちょうど風呂場を洗い終えた果澄が、洗面所から顔を出すと、短い廊下の先の玄関で、父親が嬉しそうに
「果澄、おかえり。久しぶりだな!」
果澄を
だが、この程度の言葉を掛けられるのは、
香りの
――そんな愛情を承知の上でも、どうしても
「お昼に達也さんの話をしてたんだけど、お父さんからも果澄に言ってやってよ。せっかくの婚約を
「
父は、母の言い方を
「果澄。母さんも心配してるから、まずは達也さんと話し合ってみたらどうだ? 仲直りできれば、果澄が今の仕事で苦労する必要だって、なくなるだろうから……」
「嫌よ」
果澄は、両親の
「もうとっくに終わってる達也と、今さらやり直すなんて無理。そのことは、達也にも分かってもらった。喫茶店の仕事も、続けるから」
食卓の空気が、
「果澄! あんたは、まだそんなことを言って!」
すぐさま噛みついてきた母に、果澄も負けじと言い返した。
「そんなに達也が
あまりの
「無理でしょ、ねえ! 私だって、同じなの! お母さんは、お父さんに
「待て、果澄、待ってくれ。三股? あのな、お父さんに、そんな人はいないぞ」
父が、箸を置いて狼狽え始めた。実際に愛人はいないと信じているが、父には少し浮ついたところがあって、美人にめっぽう弱いことは、昔から知っている。父の
「分かった」
そう重々しく告げた父が、改めて果澄をじっと見る。
「破談になったと聞いたときは、がっかりしたけど……そんなことになっていたとは……果澄の気持ちは、分かったよ。……なあ、恵利」
父は、次に隣の母を呼んだ。そして、普段は感じられない
「恵利は達也さんを気に入ってたし、娘が三十になる前にって、焦る気持ちも分かるけど、そんな男に
「お父さん……」
しっかりと父親らしいことを言ってくれたことに、果澄は心を打たれた。感動の視線に気づいた父が、得意げな顔になった所為で、
「もったいないけど……達也さんのことは、もうどうしようもないんだなって、分かりました。やり直せないか、なんて二度と言わないから、安心なさい」
「本当に?」
果澄は、思わず両手を合わせて
「あなたのお仕事の件は、納得していませんからね。ここで親の言うことを聞かないと、後悔するわよ」
翠子と一緒に、喫茶店がある町に帰るときには――果澄は、翠子が『無敵の主役』だと言ってくれた自分に、もっと、もっと、近づきたい。ダイニングテーブルの上で拳を握りしめた果澄は、キッと表情を引き締めると、母の険しい目を真っ向から見つめ返して、この瞬間に感じたことを、ちゃんと
「私だって、お母さんの決めつけに納得してない。ここで言いなりになるほうが、絶対に一生の後悔になる」
母は、目に見えて顔を赤くした。頭に血が上ったと分かる顔で、箸を乱暴に置くや否や、「もう!」と感情的に
「本当に……あなたは
昔から散々聞かされ続けて、心が痛むこともなくなったはずの
――ガチャリ、と。リビングの扉が開く音がして、続いて能天気な声が聞こえた。
「ただいまー。俺のこと、呼んだ?」
父も、母も、そして果澄も、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、声の主を
「
果澄と同様に、都内で一人暮らしをしているはずなのに――ぽかんとしたままの果澄に、二つ年下の弟は、ヘラッと軽い笑みを見せてきた。
「おかえり、
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