第15話

 午後六時を過ぎた頃に、玄関扉が開く音がした。ちょうど風呂場を洗い終えた果澄が、洗面所から顔を出すと、短い廊下の先の玄関で、父親が嬉しそうに破顔はがんした。

「果澄、おかえり。久しぶりだな!」

 果澄を歓迎かんげいした父の声は、最初こそ明るいものだったが、すぐに表情を取りつくろえなくなったらしく、気まずそうな苦笑いで「その、まあ、あんまり落ち込まないで、ゆっくりしていきなさい」と言ってきた。婚約が破談はだんになった娘に、普段通りに接しようと努力したものの失敗して、ストレートなはげましを選んだといったところだろうか。母のような強気の態度も疲弊ひへいするが、露骨ろこつれものあつかいもつらかった。

 だが、この程度の言葉を掛けられるのは、覚悟かくごの上での帰省きせいだった。「うん」と短く答えた果澄は、昼食のときのように心が乱れなかったことに安心しながら、廊下からリビングに移動して、なつかしいげ物の匂いに気づき、愁眉しゅうびを開く。

 香りのみなもとであるダイニングテーブルには、ごはんと味噌汁、サラダが並んでいて、中央にはとりの唐揚げをいくつも積み上げた大皿があった。果澄の好物を用意してくれた母は、なんだかんだ言っても、心から娘を案じてくれている。

 ――そんな愛情を承知の上でも、どうしてもゆずれないことがある。せめて、熱々の鶏の唐揚げが冷めないうちに、家族と決着をつけようと心に決めて、果澄は夕食という対決の席にのぞんだ。父と母が並んで食卓に着き、対面の椅子に果澄が座ったところで、母が意気揚々いきようよう口火くちびを切った。

「お昼に達也さんの話をしてたんだけど、お父さんからも果澄に言ってやってよ。せっかくの婚約を白紙はくしに戻したことも、仕事をいい加減に考えてることも、不安で仕方がないわ。そんな生き方で大丈夫なわけがないんだから、もっと真剣に考えてくれなくちゃ」

恵利えり、そんな言い方をしなくても」

 父は、母の言い方をたしなめつつも、内容については否定しなかった。困ったような薄笑いで、果澄に話し掛けてくる。

「果澄。母さんも心配してるから、まずは達也さんと話し合ってみたらどうだ? 仲直りできれば、果澄が今の仕事で苦労する必要だって、なくなるだろうから……」

「嫌よ」

 果澄は、両親の意向いこうをぴしゃりと拒絶した。

「もうとっくに終わってる達也と、今さらやり直すなんて無理。そのことは、達也にも分かってもらった。喫茶店の仕事も、続けるから」

 食卓の空気が、こおりついた。顔色を変えた母が、眉をり上げる。

「果澄! あんたは、まだそんなことを言って!」

 すぐさま噛みついてきた母に、果澄も負けじと言い返した。

「そんなに達也がしいなら、お母さんが達也と結婚すればいいじゃない!」

 あまりの暴論ぼうろん動揺どうようしたのか、父は口をあんぐりと開けて固まり、はしでつまんでいた唐揚げを、ポロリと取り皿に落っことした。箸を握っていた母も、呆気あっけに取られた顔で絶句ぜっくしている。勢いを得た果澄は、感情のままにたたみかけた。

「無理でしょ、ねえ! 私だって、同じなの! お母さんは、お父さんに愛人あいじんがいても許せるの? 三股さんまたも掛けられてたって知っても、自分に可愛げがないからだって納得したり、反省したりできるの? それってどんな聖人君子よ!」

「待て、果澄、待ってくれ。三股? あのな、お父さんに、そんな人はいないぞ」

 父が、箸を置いて狼狽え始めた。実際に愛人はいないと信じているが、父には少し浮ついたところがあって、美人にめっぽう弱いことは、昔から知っている。父のまぎらわしい態度を見た母が、おに形相ぎょうそうで「あなた、どういうことよ!」と詰め寄ると、父は大いに慌てていたが、「そんなことよりも」と強引に追及を断ち切って、まれに見る真面目な表情をこしらえてから、やがて溜息をついた。

「分かった」

 そう重々しく告げた父が、改めて果澄をじっと見る。

「破談になったと聞いたときは、がっかりしたけど……そんなことになっていたとは……果澄の気持ちは、分かったよ。……なあ、恵利」

 父は、次に隣の母を呼んだ。そして、普段は感じられない威厳いげんが宿った声で、母に滔々とうとうと語りかけた。

「恵利は達也さんを気に入ってたし、娘が三十になる前にって、焦る気持ちも分かるけど、そんな男によめにやらなくて、僕はよかったと思うよ」

「お父さん……」

 しっかりと父親らしいことを言ってくれたことに、果澄は心を打たれた。感動の視線に気づいた父が、得意げな顔になった所為で、希少きしょうな威厳が早くも損なわれた点は残念だが、ともあれ――二対一で不利になった母は、くやしそうに押し黙った。そして、先ほどの父に負けないほど大きな溜息を吐き出すと、ばちな口調で言った。

「もったいないけど……達也さんのことは、もうどうしようもないんだなって、分かりました。やり直せないか、なんて二度と言わないから、安心なさい」

「本当に?」

 果澄は、思わず両手を合わせて安堵あんどする。しかし、母は「でもね」ととがった声を発すると、怖い顔でにらんできた。

「あなたのお仕事の件は、納得していませんからね。ここで親の言うことを聞かないと、後悔するわよ」

 おどされた果澄は、怖気おじけづく。昼間のように、言葉が喉につかえかけたが、翠子と電話で話したときを思い出して、手放しかけていた勇気をつなぎ止めた。

 翠子と一緒に、喫茶店がある町に帰るときには――果澄は、翠子が『無敵の主役』だと言ってくれた自分に、もっと、もっと、近づきたい。ダイニングテーブルの上で拳を握りしめた果澄は、キッと表情を引き締めると、母の険しい目を真っ向から見つめ返して、この瞬間に感じたことを、ちゃんとくじけずに言い切った。

「私だって、お母さんの決めつけに納得してない。ここで言いなりになるほうが、絶対に一生の後悔になる」

 母は、目に見えて顔を赤くした。頭に血が上ったと分かる顔で、箸を乱暴に置くや否や、「もう!」と感情的に怒鳴どなってくる。

「本当に……あなたは頑固がんこなんだから! 弟の素直さを、少しは見習いなさい!」

 昔から散々聞かされ続けて、心が痛むこともなくなったはずの常套句じょうとうくが、リビングの空気を荒々しくふるわせたときだった。

 ――ガチャリ、と。リビングの扉が開く音がして、続いて能天気な声が聞こえた。

「ただいまー。俺のこと、呼んだ?」

 父も、母も、そして果澄も、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、声の主を凝視ぎょうしした。この人物と顔を合わせるのは、確か正月以来だろうか。近年では夏と冬の長期休暇にしか会わないので、会社帰りと思しきスーツ姿なんて、久方ぶりに見た気がする。学生時代の茶髪を黒髪に戻しても、どことなく軟派なんぱな雰囲気は相変わらずだ。かつて乙井家で暮らしていた『もう一人』の肉親に、果澄は茫然ぼうぜんの声で呼びかける。

とおる……? えっ、なんで、あんたがここにいるの?」

 果澄と同様に、都内で一人暮らしをしているはずなのに――ぽかんとしたままの果澄に、二つ年下の弟は、ヘラッと軽い笑みを見せてきた。

「おかえり、姉貴あねき

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