第11話
「……果澄。来てくれて、ありがとう」
翠子は、
いつも果澄が出勤する時刻には、この豊かな風味が店内を満たしている。喫茶店の開店前に、翠子が毎朝コーヒーを
ホットコーヒーと、翠子がよく飲んでいる麦茶、それから二人分のホットサンドが
「このカツサンド、どうしたの? 『波打ち際』のメニューにはないのに」
「
そう簡潔に説明した翠子は、「電話に出られなくて、ごめんね。果澄に連絡を入れてから、清貴さんと話してたんだ」と付け足して、
「一緒に、モーニングを食べてくれる? 清貴さんと離婚して、別々に生きるって決めて、
果澄は、ほとんど驚かなかった。先ほど
「薄くスライスした、リンゴ……? リンゴとトンカツって、意外と合うんだ。見た目も、すごくお
「こういう、ちょっと
翠子も、カツサンドの断面を眺めながら、なんだか優しい笑い方をした。
「清貴さんと、初めて旅行に出掛けたときに、高速道路のサービスエリアで食べたお昼ごはんが、カツサンドだったんだ。テイクアウトして、車の中で一緒に食べたとき、あたしたち、これから遠い所に行こうとしてるんだなぁって、ぼんやり考えてたことを思い出しちゃった。本当に、遠い所に来ちゃったな」
カツサンドを二切れ食べた翠子は、遠い目をしている。初めて知る翠子の一面を
「このカツサンドは、あのときのサービスエリアのものじゃなくて、清貴さんの今の職場の料理なんだって。そこにリンゴを入れたのは、清貴さん流のアレンジだろうけど。あたしたちにとっての思い出のごはんだとしても、自分の浮気が原因で別れた嫁に、復縁をお願いするときの手土産にしては、
「じゃあ、どういう選択だったら色気があるのよ」
「うーん、お金?」
「それ、色気は関係ないでしょ」
「でも、必要でしょ?」
「まあね。いくらあっても困らないのは確かよ」
「果澄ってば。あたしよりも、がめついことを言ってるよ」
「うるさい」
しっかりと文句を言ってから、果澄はカツサンドを食べ進めた。小海清貴に対して思うところはあれど、先ほど翠子が言ったように、美味しい料理に罪はない。それでも、少し悔しい気持ちになったので、言葉の形で
「腹が立つくらいに美味しい」
「果澄のそういう、本当は自分の感情にすっごく正直なところ、知らない人は多いんだろうな。あたしだけが知ってるって、ちょっと特別で嬉しいかも?」
「うるさいってば」
照れた果澄は、気を取り直して、少しだけ気になっていたこと訊いてみた。
「小海さん、また来るのかな」
「また来るだろうね」
翠子は、他人事のようにさっぱりと言った。
「そのときは、また話し合うよ」
三切れ目のカツサンドをぺろりと平らげた翠子は、果澄をじっと見つめて「ふふ」と笑い声を立てた。たじろいだ果澄が「な、何よ」と抗議すると、翠子は「果澄って、本当に情に厚いよね」と言って、最後の一切れとなったカツサンドを手に取った。
「果澄のそういう魅力は、あたしだけが知ってるって言ったばかりだけど、
「ちょ……ちょっと、変なことを言わないでよ」
「全然、変なことじゃないよ。果澄って、無敵な上にヒーローだなぁって思ったんだから。駆けつけてくれて、嬉しかったよ」
「そんな……
頬の
――このモーニングを食べ終えたら、きっと翠子は、小海清貴のことを『清貴さん』とはもう呼ばずに、いつものように『元旦那』と呼ぶだろう。
かつての夫と復縁する道を選ばずに、自分の気持ちに従って生きようとしている翠子に、果澄が掛けられる言葉はない。それでも、翠子の選択を、肯定も否定もせずに、ただ寄り添うことならできるはずだ。そんなふうに考えたとき、つい
「……本当に、遠い所に来ちゃったな」
「果澄、何か言った?」
「別に」
仕返しのつもりで誤魔化した果澄は、隣の窓ガラスに薄く映った己の苦笑に気づく。
「……これからの喫茶店のこと、考えてるの? 小海さんは、復縁のことだけじゃなくて……『波打ち際』の今後のことも、心配したから来たんでしょ?」
「うん。ちゃんと考えてるよ」
眩しさを強めていく朝日の中で、落ち着いた声音で答える翠子の姿も、窓ガラスに映り込んでいる。翠子は、キャミソールワンピースを押し上げる腹の膨らみに、温かい視線を落としていた。
「あたしは妊娠六か月だし、この子が生まれたあとのお店のことを、もっと真剣に考えていかないといけないから。産後のヘルプ要員のことも、清貴さんが心配しないでいいように、早く結論を出さなくちゃね」
「ヘルプ要員……?」
「だって、さすがにあたし抜きでは、お店を営業できないでしょ?」
翠子の言うことは、もっともだ。飲食店に勤め始めて、まだ半年もたっていない果澄ひとりでは、翠子の喫茶店を守り切れない。小さな悔しさと不甲斐なさを感じたが、まだコーヒーも
「果澄も仕事に慣れてきたし、遅くても来月末くらいまでには、一緒に仕事をしてくれる人を見つけないとね。そのためにも、まずは一度、実家の両親に会わなくちゃ」
「実家の、両親に……?」
話が、意外な方向に転がった。目を瞬く果澄に、翠子は「うん」と答えてから、すっと居住まいを正した。
「あたしの生き方を心配してるのは、清貴さんだけじゃないから。……ねえ、果澄」
翠子は、何らかの覚悟を決めたような面持ちで、果澄をじっと見つめていた。そして、腹の膨らみに手を添えると、改まった口調で告げたのだった。
「あたし、果澄と再会したときに、一生のお願いを聞いてもらったよね。あたしの喫茶店を手伝って、って。……もう一つだけ、一生のお願いをしてもいい?」
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