第11話

「……果澄。来てくれて、ありがとう」

 翠子は、美貌びぼうに薄い笑みを浮かべたまま、果澄に言った。喫茶店の扉を開けて「入って」とうながされたので、果澄は浅く頷いてしたがった。まだピアノジャズが流れていない店内に入ると、コーヒーの馥郁ふくいくたる香りが鼻孔びこうに流れた。

 いつも果澄が出勤する時刻には、この豊かな風味が店内を満たしている。喫茶店の開店前に、翠子が毎朝コーヒーをれていることには気づいていた。自宅が二階にあるとはいえ、翠子は何時から厨房ちゅうぼうに立っているのだろう。今さらの疑問をいだいたとき、日当たりのいい窓際のテーブル席に、食事が用意されていることに気づいた。

 ホットコーヒーと、翠子がよく飲んでいる麦茶、それから二人分のホットサンドがった皿が、朝日を燦々さんさんびている。四切れずつ並んだカツサンドは、『波打ち際』で使っているパンよりもかたそうで、薄くき詰められたキャベツと、ボリュームのあるヒレカツの境界は、ソースの赤茶色が染みていて、日差しを受け止めてキラキラしている。

「このカツサンド、どうしたの? 『波打ち際』のメニューにはないのに」

清貴きよたかさんの手土産てみやげ。早朝の開店前なら、あたしと『波打ち際』で直接話せると思って、来たんだって」

 そう簡潔に説明した翠子は、「電話に出られなくて、ごめんね。果澄に連絡を入れてから、清貴さんと話してたんだ」と付け足して、物憂ものうげな笑みを果澄に向けた。

「一緒に、モーニングを食べてくれる? 清貴さんと離婚して、別々に生きるって決めて、復縁ふくえんを持ちかけられて、断っても。美味しい料理に、罪はないからね」

 果澄は、ほとんど驚かなかった。先ほど対峙たいじした小海清貴には、翠子と復縁する意思があることくらい、察していた。「うん」と短く答えると、従業員用の手洗い場に寄ってから、テーブル席に向かった。翠子も、腹をいたわるようにゆっくりとソファに腰を下ろした。二人で向かい合って座り、どちらからともなく「いただきます」と言い合って、カツサンドに手を伸ばす。

 かじりついたパンは、最初の印象通り表面が硬いが、みしめると柔らかく、壊れそうなほどに繊細せんさいな甘みが、ソースの甘辛さをおかさずに、絶妙な調和を守っている。ヒレカツはジューシーで弾力だんりょくがあり、ソースを吸ったキャベツの食感は優しかった。小海の手土産を熱々の状態で食べられたのは、翠子が果澄の到着に合わせて、温め直してくれたからに違いなかった。二口目を味わうと、シャリッとした薄い食感と、ほのかな甘みと酸味を感じた。意表をかれた果澄は、改めてカツサンドの断面を確認する。

「薄くスライスした、リンゴ……? リンゴとトンカツって、意外と合うんだ。見た目も、すごくお洒落しゃれ

「こういう、ちょっと気障きざな隠し味を入れるところ、変わらないな」

 翠子も、カツサンドの断面を眺めながら、なんだか優しい笑い方をした。

「清貴さんと、初めて旅行に出掛けたときに、高速道路のサービスエリアで食べたお昼ごはんが、カツサンドだったんだ。テイクアウトして、車の中で一緒に食べたとき、あたしたち、これから遠い所に行こうとしてるんだなぁって、ぼんやり考えてたことを思い出しちゃった。本当に、遠い所に来ちゃったな」

 カツサンドを二切れ食べた翠子は、遠い目をしている。初めて知る翠子の一面を垣間かいま見た果澄は、遠い所に来たという台詞せりふにシンパシーを感じた。七月から翠子のことをたくさん知ってきたつもりでいたが、まだまだ知らないことのほうが多いのだろう。

「このカツサンドは、あのときのサービスエリアのものじゃなくて、清貴さんの今の職場の料理なんだって。そこにリンゴを入れたのは、清貴さん流のアレンジだろうけど。あたしたちにとっての思い出のごはんだとしても、自分の浮気が原因で別れた嫁に、復縁をお願いするときの手土産にしては、色気いろけがない選択よね」

「じゃあ、どういう選択だったら色気があるのよ」

「うーん、お金?」

「それ、色気は関係ないでしょ」

「でも、必要でしょ?」

「まあね。いくらあっても困らないのは確かよ」

「果澄ってば。あたしよりも、がめついことを言ってるよ」

「うるさい」

 しっかりと文句を言ってから、果澄はカツサンドを食べ進めた。小海清貴に対して思うところはあれど、先ほど翠子が言ったように、美味しい料理に罪はない。それでも、少し悔しい気持ちになったので、言葉の形でさを晴らした。

「腹が立つくらいに美味しい」

「果澄のそういう、本当は自分の感情にすっごく正直なところ、知らない人は多いんだろうな。あたしだけが知ってるって、ちょっと特別で嬉しいかも?」

「うるさいってば」

 照れた果澄は、気を取り直して、少しだけ気になっていたこと訊いてみた。

「小海さん、また来るのかな」

「また来るだろうね」

 翠子は、他人事のようにさっぱりと言った。薄曇うすぐもりの空のような表情のかげりは、気づけばすっかり晴れていて、太陽のようにまぶしい笑みが戻っている。

「そのときは、また話し合うよ」

 三切れ目のカツサンドをぺろりと平らげた翠子は、果澄をじっと見つめて「ふふ」と笑い声を立てた。たじろいだ果澄が「な、何よ」と抗議すると、翠子は「果澄って、本当に情に厚いよね」と言って、最後の一切れとなったカツサンドを手に取った。

「果澄のそういう魅力は、あたしだけが知ってるって言ったばかりだけど、甲斐かい達也みたいに気づいてた人って、実はたくさんいたんじゃないかな」

「ちょ……ちょっと、変なことを言わないでよ」

「全然、変なことじゃないよ。果澄って、無敵な上にヒーローだなぁって思ったんだから。駆けつけてくれて、嬉しかったよ」

「そんな……大層たいそうなことはしてないわよ」

 頬の火照ほてりを隠せないでいると、翠子はいっそう楽しげに笑い出した。屈託くったくのない笑みの下に、翠子が誰にもさとらせずにしのばせてきた覚悟の重みに、思いをせる。窓から入る朝日が眩しくなり、果澄は別れ際の小海のように、目を細めた。

 ――このモーニングを食べ終えたら、きっと翠子は、小海清貴のことを『清貴さん』とはもう呼ばずに、いつものように『元旦那』と呼ぶだろう。

 かつての夫と復縁する道を選ばずに、自分の気持ちに従って生きようとしている翠子に、果澄が掛けられる言葉はない。それでも、翠子の選択を、肯定も否定もせずに、ただ寄り添うことならできるはずだ。そんなふうに考えたとき、ついひとり言がこぼれた。

「……本当に、遠い所に来ちゃったな」

「果澄、何か言った?」

「別に」

 仕返しのつもりで誤魔化した果澄は、隣の窓ガラスに薄く映った己の苦笑に気づく。鏡像きょうぞうの果澄の眼差しが、思いのほか柔らかかったことに戸惑いながら、最後の一切れになっていたカツサンドに手を伸ばした。齧りつく前に、そろりと翠子に質問する。

「……これからの喫茶店のこと、考えてるの? 小海さんは、復縁のことだけじゃなくて……『波打ち際』の今後のことも、心配したから来たんでしょ?」

「うん。ちゃんと考えてるよ」

 眩しさを強めていく朝日の中で、落ち着いた声音で答える翠子の姿も、窓ガラスに映り込んでいる。翠子は、キャミソールワンピースを押し上げる腹の膨らみに、温かい視線を落としていた。

「あたしは妊娠六か月だし、この子が生まれたあとのお店のことを、もっと真剣に考えていかないといけないから。産後のヘルプ要員のことも、清貴さんが心配しないでいいように、早く結論を出さなくちゃね」

「ヘルプ要員……?」

「だって、さすがにあたし抜きでは、お店を営業できないでしょ?」

 翠子の言うことは、もっともだ。飲食店に勤め始めて、まだ半年もたっていない果澄ひとりでは、翠子の喫茶店を守り切れない。小さな悔しさと不甲斐なさを感じたが、まだコーヒーもれられない従業員である以上、これが果澄の現実だ。

「果澄も仕事に慣れてきたし、遅くても来月末くらいまでには、一緒に仕事をしてくれる人を見つけないとね。そのためにも、まずは一度、実家の両親に会わなくちゃ」

「実家の、両親に……?」

 話が、意外な方向に転がった。目を瞬く果澄に、翠子は「うん」と答えてから、すっと居住まいを正した。

「あたしの生き方を心配してるのは、清貴さんだけじゃないから。……ねえ、果澄」

 翠子は、何らかの覚悟を決めたような面持ちで、果澄をじっと見つめていた。そして、腹の膨らみに手を添えると、改まった口調で告げたのだった。

「あたし、果澄と再会したときに、一生のお願いを聞いてもらったよね。あたしの喫茶店を手伝って、って。……もう一つだけ、一生のお願いをしてもいい?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る