episode6 裏メニューのクロックマダム
第6話
そのオーダーが耳に届いたのは、果澄が『いつもの』クロックムッシュを食べた二週間後で、八月の終わりが近づき始めた土曜日だった。
「クロックマダム、お願いできますか?」
平日よりも若干混み合う正午の『波打ち際』で、カウンター席に座った女性客が、厨房の翠子に直接声を掛けていた。レジで別の客の会計を済ませた果澄は、耳をそばだてながら混乱した。――クロック『マダム』? 『ムッシュ』ではなく?
「はい、クロックマダムですね。かしこまりました」
「お待たせいたしました。クロックマダムです」
皿に載ったホットサンドイッチの材料は、ハムとチーズとベシャメルソースで、一見すると先日の常連客・
だが、見た目には大きな
やはり果澄は、このメニューを知らない。接客が一段落してから、厨房に戻った果澄は「ちょっと、翠子」と小声で呼んで、
「さっき作ってた料理は何? 私、知らないんだけど」
「ああ、クロックマダム? そっか、まだ果澄に言ってなかったっけ」
翠子は、ミックスジュース用のバナナの皮を剥く手を止めた。悪戯っ子のような笑みを、窓から射す夏の日差しに照らされながら、けろりと言う。
「クロックマダムは、クロックムッシュに目玉焼きを載せた料理で、うちの裏メニューだよ。ナイフとフォークで食べるから、
「そういうことは、事前に教えなさいよ!」
二週間前と全く同じ文句を、
「ごめん、ごめん。お
*
裏メニューを注文した女性客が帰ると、ピアノジャズが流れる『波打ち際』は無人になった。昼下がりの眩い日差しを、木製扉に嵌まった青い窓ガラスが染めていて、水面の揺らぎに似た淡い光が、店内のタイルで泳いでいる。
「果澄、昼食にしよう。二人分をまとめて作るから、ここで一緒に食べよっか」
「ここでって……店内で? 従業員なのに」
普段はバックヤードで昼食を取っているので、客席に座るのは気が引けた。翠子は気にした様子はなく、調理台に食パンとハム、卵とピザ用チーズを用意している。
「二人で昼食を取れるのは、客入りが少ない今だけかもしれないよ? 休業前の『波打ち際』は、この時間帯も
「……店主がそう言うなら。でも、私にも作らせて。早く料理を覚えたいから」
「言うと思った。それじゃあ、あたしの昼食は、こないだ佐伯さんが食べてたクロックムッシュ。果澄の昼食は、クロックマダムね」
翠子は、ガステーブルで小鍋を温め始めた。小鍋の中身は、バターと牛乳、薄力粉、塩と胡椒で作るベシャメルソースで、果澄が七月の引っ越しで
「果澄、食パンにバターを
食パンを手に取った翠子が、果澄にお手本を見せてくれた。果澄も、自分の昼食用の食パンにベシャメルソースを塗りながら、翠子の説明に耳を
「ここにハムとチーズを挟んで焼けば、クロックムッシュは完成だよ。果澄の分は、サンドした食パンの上に、たくさんチーズを追加してね。ちなみに食パンは、近所のパン屋さんから仕入れてるよ」
「パン屋……ああ、このお店の並びの」
――達也が、以前に果澄を待ち伏せていた場所だ。あの夜から、達也の姿を見ていない。清々するはずなのに、後ろ髪を引かれるこの気持ちを、人は
「
「そ、そんなわけないでしょ」
「ここにいない人のことよりも、隣にいるあたしのことを考えてよ」
妙に
「翠子は、クロックムッシュを食べるって言ったけど、妊娠中のチーズは気をつけたほうがいいんじゃ……あ、加熱すればいいんだっけ」
キッシュを作った夜に、妊娠中の食生活について調べた時間を回想していると、食パンにピザ用チーズとハムを挟んでいた翠子が、ぱっと顔をほころばせた。
「調べてくれたんだ?」
せっかく話題を変えたのに、頬まで熱くなった気がする。無言でサンドイッチにチーズを降らせていると、翠子は小さな笑い声を立てた。
「まあ、このチーズは加熱殺菌もされてるし、妊婦が食べても問題ないけど、火が通ってない卵は控えるつもり。だから、あたしは卵抜きのクロックムッシュ」
「え? 火なら、オーブントースターで通すじゃない」
「まあね。でも、うちの裏メニューのクロックマダムは、卵を半熟で出してるんだ。食べたいけど、今日はやめとく」
確かに、加熱が甘い半熟卵は、妊婦には注意が必要な食べ物だろう。万が一、食中毒を発症した場合、免疫力が低下している妊娠中は、重症化するケースがあることを、果澄も今では知っている。翠子は、果澄の手元のチーズの山に、鳥の巣のような
「あたしのことは、気にしないでよ。半熟卵のクロックマダムは、産後の楽しみに取っておくから」
翠子は、二人分の昼食をオーブントースターで焼き始めた。だが、果澄がオーブントースターを勝手に操作して、焼き時間を
「果澄?」
「しっかり焼けば問題ないんでしょ。紅茶のライムジュースを出したり、従業員すら知らない裏メニューを持ってたりする喫茶店なら、当然の対応でしょ?」
最後は小声で突っかかると、呆気に取られた顔の翠子は、肩を
焼き上がりの時を迎えると、チーズの香ばしさが厨房に拡がった。オーブントースターを開けた翠子が、
「パン、
「わ、悪かったわね!」
「クロックマダムは、普段は切り分けずにナイフとフォークで食べるけど、今回はカットしようか。クロックムッシュと半分こして、両方食べようよ」
翠子からパン切り包丁を受け取った果澄は、クロックムッシュをカットしてから、クロックマダムも半分にした。溶けたチーズの断面に、夏の木漏れ日のような黄身が覗く。白身も
「熱っ。パンが少し硬いけど、美味しい」
「あたしは気にならないけど、卵に火を通すなら、フライパンで目玉焼きを作ってから、トーストに載せたほうがいいかもね」
秘密の裏メニューは、
あっという間に食べ終えると、隣で翠子が席を立ち、果澄の分のコーヒーを淹れ始めた。氷とミルク、蜂蜜を入れたグラスにコーヒーを注ぎ、当たり前のように苦みと酸味を抑えたカフェオレを作っている。果澄は、居住まいを正して「翠子」と呼んだ。今だけは、大嫌いの言葉よりも、伝えたいことがあったからだ。
「ごめん」
カフェオレに沈んだ氷が、かろんと鳴った。翠子の
「翠子の、元旦那のこと。翠子の話だけで、人間性を判断するのはフェアじゃないけど、浮気したって聞いたから、印象は最悪よ。でも、私は翠子に、元旦那の仕事が私にもできるかどうか、試してみなさいよ、って
「……果澄のそういう、格好悪いところを全部見せないと気が済まない、損だけど誠実で格好いいところ、愛してるよ」
さらりと言った翠子は、甘いカフェオレを果澄の前に置いて、とびきり眩く笑っていた。
からん、からん――グラスで
「よ、よお。果澄……」
「達也っ? 何しに来たのよ、警察を呼ぶって言ったでしょ!」
「いや、違うんだ! 俺はただ、ここに客として……」
達也は、何やら言い訳を始めたが、果澄が持つパン切り包丁に気づくや否や、ピタッと黙って笑顔を凍りつかせた。元カレの情けなさに呆れていると、翠子が
「は?」
「今までも、果澄がお昼休憩に入った土日に、うちに食べにきてくれたんだ。あたしは、
「出禁だけは
「姐さん!?」
「そういうこと。甲斐達也は、時間帯によっては閑古鳥が鳴いてる『波打ち際』の、貴重なお客様ってわけ。というわけで、判断は果澄に任せようと思ってたんだ。どう? 新しい常連さんを、受け入れる?」
達也のことを、許したわけではない。これからも、許すことはないだろう。
だが、翠子と十三年ぶりに再会して、あの日のライムジュースのような
「なんで、私も知らなかった裏メニューを知ってるのよ?」
「常連さんだもんね。で、果澄はどうしたい?」
「私は……」
出禁にする、と答えるのは簡単だ。ただ、達也との関係の幕引きを、店主の翠子に頼る形で成して、果澄は納得できるだろうか。なぜなら果澄は、今まで
翠子と目が合うと、
「受け入れる」
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