episode6 裏メニューのクロックマダム

第6話

 そのオーダーが耳に届いたのは、果澄が『いつもの』クロックムッシュを食べた二週間後で、八月の終わりが近づき始めた土曜日だった。

「クロックマダム、お願いできますか?」

 平日よりも若干混み合う正午の『波打ち際』で、カウンター席に座った女性客が、厨房の翠子に直接声を掛けていた。レジで別の客の会計を済ませた果澄は、耳をそばだてながら混乱した。――クロック『マダム』? 『ムッシュ』ではなく?

「はい、クロックマダムですね。かしこまりました」

 こころよく頷いた翠子は、冷蔵庫に向かった。サイドを編み込んだ団子頭を目で追った果澄は、客が帰ったテーブル席を掃除するかたわら、とうに丸暗記したはずのメニューを開き、見落としがないか確認したが、クロックマダムの記載はない。混乱をいっそう深めていると、別のテーブル席の客から声が掛かり、クリームソーダの注文が入った。そして、果澄が接客と調理に追われているうちに、件の『クロックマダム』は出来上がり、翠子の手で厨房からカウンター席に届けられていた。

「お待たせいたしました。クロックマダムです」

 皿に載ったホットサンドイッチの材料は、ハムとチーズとベシャメルソースで、一見すると先日の常連客・佐伯さえきが注文したクロックムッシュとよく似ている。

 だが、見た目には大きな差異さいがあった。『波打ち際』のクロックムッシュは、食パンを半分にカットした長方形で提供しているが、この料理は正方形で、パン切り包丁を入れていない。トーストの表面にもチーズの海原うなばら豪勢ごうせいに拡がり、中央に沈んだ夕日色の卵黄らんおうが、顔をつつましく覗かせている。

 やはり果澄は、このメニューを知らない。接客が一段落してから、厨房に戻った果澄は「ちょっと、翠子」と小声で呼んで、身重みおもの同級生に詰め寄った。

「さっき作ってた料理は何? 私、知らないんだけど」

「ああ、クロックマダム? そっか、まだ果澄に言ってなかったっけ」

 翠子は、ミックスジュース用のバナナの皮を剥く手を止めた。悪戯っ子のような笑みを、窓から射す夏の日差しに照らされながら、けろりと言う。

「クロックマダムは、クロックムッシュに目玉焼きを載せた料理で、うちの裏メニューだよ。ナイフとフォークで食べるから、淑女しゅくじょを意味する『マダム』って名前がついたみたい。うちのクロックムッシュにプラス二百円で、チーズ増量・卵を追加して、クロックマダムにできるよ。秘密のメニューって、わくわくするでしょ?」

「そういうことは、事前に教えなさいよ!」

 二週間前と全く同じ文句を、おさえた声に乗せずにはいられなかった。果澄が知らない『波打ち際』のメニューは、先日のライムジュースのような即興そっきょうの飲み物を含めたら、一体いくつあるのだろう。気が遠くなっていると、翠子は楽しそうに続けた。

「ごめん、ごめん。おびに、今日の昼食は期待してて。果澄にも、裏メニューのクロックマダムを作ってあげる」


     *


 裏メニューを注文した女性客が帰ると、ピアノジャズが流れる『波打ち際』は無人になった。昼下がりの眩い日差しを、木製扉に嵌まった青い窓ガラスが染めていて、水面の揺らぎに似た淡い光が、店内のタイルで泳いでいる。

「果澄、昼食にしよう。二人分をまとめて作るから、ここで一緒に食べよっか」

「ここでって……店内で? 従業員なのに」

 普段はバックヤードで昼食を取っているので、客席に座るのは気が引けた。翠子は気にした様子はなく、調理台に食パンとハム、卵とピザ用チーズを用意している。

「二人で昼食を取れるのは、客入りが少ない今だけかもしれないよ? 休業前の『波打ち際』は、この時間帯もき入れどきだったんだから」

「……店主がそう言うなら。でも、私にも作らせて。早く料理を覚えたいから」

「言うと思った。それじゃあ、あたしの昼食は、こないだ佐伯さんが食べてたクロックムッシュ。果澄の昼食は、クロックマダムね」

 翠子は、ガステーブルで小鍋を温め始めた。小鍋の中身は、バターと牛乳、薄力粉、塩と胡椒で作るベシャメルソースで、果澄が七月の引っ越しで忙殺ぼうさつされている合間に覚えた料理の一つだ。ただし、果澄が一人で作ったことはほとんどなく、接客で手が回らなくなっている間に、いつも翠子が作り終えている。

「果澄、食パンにバターをってくれる? ……ありがとう。次は、ベシャメルソースを塗り重ねてね。けちらないで、たっぷりね」

 食パンを手に取った翠子が、果澄にお手本を見せてくれた。果澄も、自分の昼食用の食パンにベシャメルソースを塗りながら、翠子の説明に耳をかたむける。

「ここにハムとチーズを挟んで焼けば、クロックムッシュは完成だよ。果澄の分は、サンドした食パンの上に、たくさんチーズを追加してね。ちなみに食パンは、近所のパン屋さんから仕入れてるよ」

「パン屋……ああ、このお店の並びの」

 ――達也が、以前に果澄を待ち伏せていた場所だ。あの夜から、達也の姿を見ていない。清々するはずなのに、後ろ髪を引かれるこの気持ちを、人は未練みれんと呼ぶのだろうか。上の空になっていると、耳元で囁き声がした。

甲斐かい達也のことを考えてるの?」

「そ、そんなわけないでしょ」

「ここにいない人のことよりも、隣にいるあたしのことを考えてよ」

 妙につやっぽく微笑みかけられて、耳の辺りが熱くなった。動揺した果澄は、そそくさと話題を変えた。

「翠子は、クロックムッシュを食べるって言ったけど、妊娠中のチーズは気をつけたほうがいいんじゃ……あ、加熱すればいいんだっけ」

 キッシュを作った夜に、妊娠中の食生活について調べた時間を回想していると、食パンにピザ用チーズとハムを挟んでいた翠子が、ぱっと顔をほころばせた。

「調べてくれたんだ?」

 せっかく話題を変えたのに、頬まで熱くなった気がする。無言でサンドイッチにチーズを降らせていると、翠子は小さな笑い声を立てた。

「まあ、このチーズは加熱殺菌もされてるし、妊婦が食べても問題ないけど、火が通ってない卵は控えるつもり。だから、あたしは卵抜きのクロックムッシュ」

「え? 火なら、オーブントースターで通すじゃない」

「まあね。でも、うちの裏メニューのクロックマダムは、卵を半熟で出してるんだ。食べたいけど、今日はやめとく」

 確かに、加熱が甘い半熟卵は、妊婦には注意が必要な食べ物だろう。万が一、食中毒を発症した場合、免疫力が低下している妊娠中は、重症化するケースがあることを、果澄も今では知っている。翠子は、果澄の手元のチーズの山に、鳥の巣のようなくぼみを作ると、用意していた生卵をつるりと落として、気楽そうに言った。

「あたしのことは、気にしないでよ。半熟卵のクロックマダムは、産後の楽しみに取っておくから」

 翠子は、二人分の昼食をオーブントースターで焼き始めた。だが、果澄がオーブントースターを勝手に操作して、焼き時間をばしたから、大きな目を丸くした。

「果澄?」

「しっかり焼けば問題ないんでしょ。紅茶のライムジュースを出したり、従業員すら知らない裏メニューを持ってたりする喫茶店なら、当然の対応でしょ?」

 最後は小声で突っかかると、呆気に取られた顔の翠子は、肩をすくめて笑い出した。「確かにね」と応じる声は、波打ち際に照り返す日差しのように輝いている。

 焼き上がりの時を迎えると、チーズの香ばしさが厨房に拡がった。オーブントースターを開けた翠子が、こらえきれないといった様子でき出した。

「パン、げてる」

「わ、悪かったわね!」

「クロックマダムは、普段は切り分けずにナイフとフォークで食べるけど、今回はカットしようか。クロックムッシュと半分こして、両方食べようよ」

 翠子からパン切り包丁を受け取った果澄は、クロックムッシュをカットしてから、クロックマダムも半分にした。溶けたチーズの断面に、夏の木漏れ日のような黄身が覗く。白身もかたく焼けていて、これなら問題なさそうだ。ペッパーミルを持ってきた翠子が、仕上げの黒胡椒をガリガリとくだき、チーズと目玉焼きに振りかけた。焼きたての昼食をトレイに載せて、作り置きのサラダの小皿を用意してから、二人でカウンター席の隅に座り、二種類のホットサンドイッチに齧りつく。

「熱っ。パンが少し硬いけど、美味しい」

「あたしは気にならないけど、卵に火を通すなら、フライパンで目玉焼きを作ってから、トーストに載せたほうがいいかもね」

 秘密の裏メニューは、大胆だいたんに増やしたチーズと、ピリリとした黒胡椒と、湯気が立つ目玉焼きのまろやかさが、罪深いほどにマッチしている。カロリーを考えると恐ろしいが、確かに翠子の言う通りわくわくしたから、何も考えずにを楽しむことにした。

 あっという間に食べ終えると、隣で翠子が席を立ち、果澄の分のコーヒーを淹れ始めた。氷とミルク、蜂蜜を入れたグラスにコーヒーを注ぎ、当たり前のように苦みと酸味を抑えたカフェオレを作っている。果澄は、居住まいを正して「翠子」と呼んだ。今だけは、大嫌いの言葉よりも、伝えたいことがあったからだ。

「ごめん」

 カフェオレに沈んだ氷が、かろんと鳴った。翠子の衣着きぬきせぬ物言いが、時として無神経に聞こえても、他者への気配りを決しておこたらない人間が、鮎川翠子だということを、もう果澄は認めないわけにはいかなかった。

「翠子の、元旦那のこと。翠子の話だけで、人間性を判断するのはフェアじゃないけど、浮気したって聞いたから、印象は最悪よ。でも、私は翠子に、元旦那の仕事が私にもできるかどうか、試してみなさいよ、って啖呵たんかを切ったけど、実際に喫茶店で働いて、お客さんの要望に応えて、必要なサービスを提供する大変さが、この一か月でよく分かった。私は、お店の料理を一人では作れないし、コーヒーだってれられない。妊婦の翠子の手助けができているとは言えないわよ。翠子の元旦那を擁護ようごするわけじゃないけど、一朝一夕いっちょういっせきで身につく技術じゃないってことは、理解したから……ごめん」

「……果澄のそういう、格好悪いところを全部見せないと気が済まない、損だけど誠実で格好いいところ、愛してるよ」

 さらりと言った翠子は、甘いカフェオレを果澄の前に置いて、とびきり眩く笑っていた。狼狽うろたえた果澄は「そういうことを、なんで簡単に言えるのよ」と悪態あくたいいたものの、カフェオレを一気に飲み終えてしまい、気持ちの揺れは誤魔化せなかった。ともかく、洗い物をしようと席を立ち、パン切り包丁を握ったときだった。

 からん、からん――グラスでまわる氷がかなでたようなベルが鳴り、悪夢の日の再現のように扉が開いた。振り返った果澄は、午後の日差しを引き連れて現れた男の姿を目撃する。ラフな私服姿の相手は、果澄と目が合うと、少し気まずそうに笑ってきた。

「よ、よお。果澄……」

「達也っ? 何しに来たのよ、警察を呼ぶって言ったでしょ!」

「いや、違うんだ! 俺はただ、ここに客として……」

 達也は、何やら言い訳を始めたが、果澄が持つパン切り包丁に気づくや否や、ピタッと黙って笑顔を凍りつかせた。元カレの情けなさに呆れていると、翠子が飄々ひょうひょうと「甲斐達也は、うちの常連だよ?」と言ってのけたから、果澄の語彙力ごいりょくが消滅した。

「は?」

「今までも、果澄がお昼休憩に入った土日に、うちに食べにきてくれたんだ。あたしは、出禁できんにしても構わないけど……」

「出禁だけは勘弁かんべんしてください! 今日も食事していくんで、あねさん!」

「姐さん!?」

「そういうこと。甲斐達也は、時間帯によっては閑古鳥が鳴いてる『波打ち際』の、貴重なお客様ってわけ。というわけで、判断は果澄に任せようと思ってたんだ。どう? 新しい常連さんを、受け入れる?」

 りない達也も達也だが、受け入れた翠子も翠子だ。すぐさま抗議しようとした果澄は、以前ほどの怒りを感じなかった己に気づき、きょかれた。

 達也のことを、許したわけではない。これからも、許すことはないだろう。

 だが、翠子と十三年ぶりに再会して、あの日のライムジュースのような果皮かひの苦みと、胸焼けしそうな甘さの言葉に、翻弄ほんろうされる日々を送るうちに、心を堅く閉じ込めていた氷砂糖の山が、いつの間にか溶け始めていて――達也を前にしても、胸の痛みが軽くなっている。変化に戸惑っている間に、ちゃっかりカウンター席に座った達也が、へらっと笑って「果澄、クロックマダムとアイスコーヒーよろしく」と言ったから、少しだけ怒りが復活した。

「なんで、私も知らなかった裏メニューを知ってるのよ?」

「常連さんだもんね。で、果澄はどうしたい?」

「私は……」

 出禁にする、と答えるのは簡単だ。ただ、達也との関係の幕引きを、店主の翠子に頼る形で成して、果澄は納得できるだろうか。なぜなら果澄は、今までかかえてきた気持ちを、まだ達也に伝えていない。

 翠子と目が合うと、不敵ふてきな笑みが返ってきた。果澄が出した結論を、とっくに見越している顔だ。見透かされるのは面白くないが、心強さをもらえたことも事実なので、覚悟を決めた果澄は、口を開いた。

「受け入れる」

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