魔幻の紙縒り 4

波の音が聞こえる。

日本海は果てしなく広がっていた。

大きなリュックサックは防波堤の上に置かれたままだ。

傍らには一人の女性が座っている。

水平線を見ていた。


「いい匂い。」


海は地球が誕生した頃から、その歴史を見続けてきた。

我々、生命の大いなる母体だ。


私の存在は小さい……。海を見ていると、温かく絶対的な何かに抱かれている気持ちになる。迷い込んで壊れてしまったこの私でさえ、その激情が和らぐ。残念ながら、私はもう手遅れだ。人間の領域を超えてしまった。


打ち寄せる波は防波堤にぶつかり、木端微塵に砕け散っていく。


懐かしいなあ。あの頃から私は笑えない人間だったね。母は人間。父も人間。人間である以上、所詮は自分が全て……。他人がどうなろうが知ったこっちゃない。たとえ、その他人というのが自分の子供であったとしてもね。人間はそういう生き物だ。仕方がない。誰もが自分以外の人間は、自分が良い人生を送るための道具にすぎない。私は道具を演じ続けることに疲れ果ててしまった。「笑えない環境で笑う」「良い子でいられない環境で良い子でいる」というのは、そういうことなんだろうね、きっと……。


海からは穏やかな風が吹いている。


海は本当に広いね。あの頃は向こう岸まで泳げたら逃げられるかなと思っていたけど、そうではなかったね。私の成長とともに、この国の制度も家族主義から個人主義へと変わってくれたら良かったのに……。残念ながら最後の最後まで家族主義の国だった。家族主義の国では親子関係が崩壊した時点で、子供の人生は詰む。よほどの才能に恵まれていない限り……。私は死ぬほどもがいた。だけど、ダメだった。あれはまるで地球を覆いつくす大気だったね。それくらいどうにもならなかった。あの大気の向こう、無数の星々が連なる天の川を渡るような力は、私には無い。だからと言って、こんな残酷な運命に屈したくない。


風は笹の葉をこすり合わせ、カサカサという心地よい音を生み出している。


七夕か……。織姫様も同じ気持ちかな?あなたはいったいどういう気持ちで天の川の向こうを眺めているの?自由を奪われ、恋を奪われ、愛しの人に会えるのは一年に一度。でも……。でも……。永久に生き続けるあなたは、これから何千回だって何万回だって愛する人と会うことができる。そこが私と違う。私の時間はあとわずか……。天の川の向こうには永久にたどり着けない。人生は、自由の利かない鳥かごの中で消えてしまった。


「わああああ。」


園児たちの愛くるしい笑い声が聞こえた。

自由時間になったのだろうか?一斉に園庭に飛び出してきた。

女性はスッと立ち上がった。

声につられるように反対側の園庭に向かって歩き出した。

そして、防波堤の園庭側に座り込んだ。

今度は園児たちを見ている。

園児は、それぞれが思い通りに動き回っている。遊具らしきものが鉄棒しかないため、遊びの種類は限られているようだ。

女性の目から涙がこぼれた。

何を思い出しているのだろうか?


園児たちは一人では生きていけない。園児たちは誰かに育てられている。園児たちは誰かに強制的に他者啓発をされている。だけど……。この子たちには、そこが閉ざされた世界であるという実感は無さそう……。


園児たちは、とても楽しそうだった。

女性の頭上に張り出しているこの大きな笹の根元には、二人の園児が立っていた。

一人はミサンガを腕に巻いたかわいい男の子で、もう一人は、大きなリボンが似合うかわいい女の子だ。

二人とも不思議そうな顔で女性の姿を見上げている。

かなりの至近距離だった。

男の子が言った。


「なんで泣いてるの?」


女性は無視した。

おそらく、この数十年分の涙の意味を、このクソガキに話しても意味がないと思ったからだろう。

今度は女の子が言った。


「泣いたらダメだよ。」


蕩け落ちそうなプルンプルンのほっぺたが、女性の目に映った。

女の子はポカーンとした表情で女性を見ている。


「うん、そうだね。泣いたらダメだよね。うん。泣いたらダメだよ。」


女性は自分に言い聞かせるように答えた。

言い放ったあと、無理矢理作った笑顔で、とりあえず二人の園児に安心感を与えておいた。

女性は、近くに置いたリュックサックに目をやった。

悲しい目をしていた。

簡単には開封できないように開封口は紐で厳重に縛ってあった。

リュックを目の前まで引き寄せると、紐をほどき始めた。

二人の園児にとって女性の存在は、もはや、どうでもよかった。すでに関心は薄れ、互いの顔を見つめ合って楽しそうにおしゃべりを始めている。

絶望感が漂う女性と、躍動感に満ち溢れる園児……、とても対照的だった。

女性の指先の動きが止まった。

紐が全てほどけたようだ。

垂れかかっているカバーをめくった。

開封口が大きく開くと同時に、リュックの中に太陽の光が注ぎ込んだ。

女性は、中から小さな木箱を取り出した。

まだ、中には荷物が詰め込まれている。

この木箱、見たところ、かなり古い代物であることがわかる。箱の大きさはA4の手さげ金庫より、やや大きめだろうか……。箱をゆっくりと開け、中から市販の便箋30枚と、紙縒りの付いた無地紙1枚を取り出した。紙のサイズは、ともにA4である。

女性は紙縒りの付いた紙を、ジッと見つめる。

次に、ボールペンを取り出した。

ため息をついたあと、一転、決意に満ちた表情を浮かべ、何かを書き始めた。

めくられたカバーは弾力性によって自然に戻され、再度、リュックの取り出し口を自動的に閉じようとしていた。

その一瞬だった。

太陽の光がリュックの中に入っている目を疑うような代物を捉えた。プラモデルにしては重厚感がありすぎるように思えるが……。


笹の葉が揺れている。新鮮だわ。葉と葉のこすれ合う音が心地いい。地球が誕生してから46億年。人類が登場してから約1万年。いろんな人間が生まれた。いろんな人生があった。そして、いろんな死があった。私は生まれてから数十年が過ぎたところ。地球や人類の歴史を考えると、私の存在なんて、有って無いようなもの。いったい何のために生まれてきたの?なぜここにいるの?人生は生まれた瞬間に全てが決まる。その真理にたどり着ける人はほとんどいない。なぜなら、ほとんどの人には、それを裏付けてくれる人生経験が無いからだ。私は地獄を這いずり回っていく過程で、その真理を見た。寂しいけど、ここまで来られる人はほとんどいない。それが無念という言葉の意味なんだ。私はまだ生きている。旅立つ前に書かないといけない。そう、私が生きたという証を……。誰かの記憶の底に眠ったまま、化石になるつもりはない。だから、刻み込んでやるんだ。消せないくらいに強烈に……。ああ、人生って虚しい。


時間は絶えず流れている。

女性は手を震わせながらボールペンを走らせた。

初夏の太陽は容赦なく女性の後頭部に照りつける。

辺り一帯には、子供たちの無邪気な声が響いていた。

潮風は、時折、強い風を陸地にもたらす。真夏なので心地よいのは確かだが……。

ただ、その強い風で、女性の長い髪は舞い上がってしまう。集中していたいが、その流れで顔が上がった。

園庭では園児たちが走り回っていた。

数人で話し込んでいる園児もいた。

教室の窓の向こうでは、お絵かきをしていると思われる園児もいた。

どの園児を見ても、その目は光り輝いていた。

女性は眩しい光を避けるように何気なく視線を動かしていると、砂いじりをしている園児に目が止まった。

その子は夢中になって砂山を作っていた。

砂場は設置されていないので、いろんなところから砂を集めたようだ。

女性は全身を包む絶望感の上に、何やら嫌悪感たっぷりの重石を乗せられた気がした。

声が聞こえた。

すぐ近くで誰かが会話をしている。

女性は、再び、視線を動かした。

その姿は目の前にあった。

それは園児でありながら手と手を取り合い、楽しそうに会話をする男の子と女の子の姿だった。

満面の笑みを浮かべていた。

女性は、自身の凍りついた心の海に、一滴、何かが落ちた気がした。


「男の子と女の子……。幼稚園児の……。」


女性は、小声で呟いた。

この二人、よく見ると、先ほど話しかけてきたあの二人だった。

目の前に垂れ下がる七夕の短冊たちと、そのすぐ先で輝く二人の園児……、この遠近感が切なさを倍増させていた。


私は遠い世界にいる。幼い頃、塾帰りの夜道で、ふと、天を見上げたとき、オリオン三ツ星が見えた。赤く輝くべテルギウスと青く輝くリゲルは眩しかった。とても寒い季節だった。今は夏だ。蠍が天に上がるこの季節に、あの二つの星は水平線の裏側に沈んでいる。一緒には輝けないんだ。私も同じ。みんなと一緒に輝けなかった。私が天に上がれば、みんなは逃げていった。


女性は二人の園児をジッと見つめた。

何だろう?ぼんやりと記憶の断片が繋がっていく。


「あの二人……、どこかで……。」



「ミホリちゃん、今日、何の日か知ってる?」


「知らない。ケント君の生まれた日?」


「違うよ。僕が生まれたのは冬だから……。」


「じゃあ何の日?」


「あれ、先生から聞いてなかった?」


「知らないよ。」


園庭では、たくさんの園児たちが走り回っていた。

ミホリとケントは隅の方で話し込んでいた。

空を見上げると、青一色のキャンパスに初夏の太陽が浮かんでいた。

今夜、空には星がいっぱい輝くだろう。


「今日は七夕なんだ。七夕というのは離れ離れになった織姫様と彦星様が、一年にたった一日だけ会うことが許された日なんだ。お互い愛し合う仲だったんだけど、神様の言いつけを守らなかったという理由で随分前に引き離されちゃったんだよ。」


「織姫様?どこにいるの?」


「空にいる。宇宙にいるんだ。宇宙にも川が流れていて、その川が邪魔をして普段は会うことができないんだ。でも、7月7日の今日、もし晴れたら、そこに橋がかかって会うことができるようになるんだ。」


「じゃあ、雨が降ったら?」


「雨が降ったら、川の水量が多くなって橋をかけることができなくなるんだ。」


「川の中に入ったらダメなの?」


「この川は天の川と言って、ずっと宇宙の果てまで流れていて、流されると二度と帰って来られなくなるんだ。それに川幅が地球の直径の何倍もあって……。」


「全然見えないよ。どこにあるの?」


ミホリは空を見上げている。


「昼間は見えないよ。夜になったらはっきりと見えるようになるよ。このあと願い事を七夕の短冊に書いて、あの笹に引っ付けるんだ。」


園庭の中央には、一本の巨大な笹が寝かされていた。


「願い事?」


「どういう風になりたいとか、こんな物がほしいとか、いっぱいあるだろ?この七夕の夜、短冊の付いた笹を天にかざせば、その願いが叶うんだ。すごいだろ?」


「えっ!すごいすごい。」


ミホリは入園してから今年で二年目となり、年長組である。

相変わらずの孤立生活だったが、ケントとだけは普通に会話ができる間柄だった。

この日、教室では、七夕ならではの授業が行われていた。


「さあ願い事を書きましょう。何を書いてもいいんだよ。」


先生の声が教室に響いた。

ミホリ、そして、ケント、他の園児たちも一緒に願い事を書く。

短冊は市販の折り紙を使って作られたものだ。


「願い事、一つしかダメなの?」


ざわめきの中からある園児の声がした。


「そうよ、一つだけよ。」


先生が答えた。


「たくさんあるんだけどなあ。」


「ダメよ、一つだけですからね。欲張る人に神様は微笑んでくれないわよ。」


全員が真剣な眼差しで書いていた。


「できた!先生できたよ。」


先生は園児の短冊を手に取った。


「へえ、お空を飛びたいんだね。羨ましいわ。きっと飛べるようになるよ。きっと……。もし飛べるようになったら、先生も連れて行ってね。お空の世界へ。」


「うん。」


園児は満面の笑みを浮かべていた。

このあと、園庭に寝かしてある笹に、園児たちの夢が取り付けられる。

それが天に向かって真っすぐに聳え立つと同時に、神様に願い事を見てもらうことになる。


「ケント君の願い事は何?」


ミホリが言った。


「誰もいない宇宙の星で暮らしたい。そう、それが願い事だね。」


「宇宙?宇宙って川が流れていて危ないんじゃないの?そんなところに行きたいの?」


「安全なところだってあるさ。広い大地の中で僕だけがいて何でも自由にできるんだ。地に生った果物を好きなだけ独り占めして、時間を好きなだけ自由に使える。そんな場所に行きたいなって本気で思う。」


「でも、独りぼっちだよ。」


「大丈夫だって。そういう夢を持っているということはいいことだと思う。叶えられるわけないけどさ。きっと楽しいって!楽しいって思えば何でも楽しいんだよ。」


「えっ、どうして?願い事、叶えられないの?神様が叶えてくれるんじゃないの?」


「あっ、そうか。そうだね。叶えられるんだったね。そうだそうだ。じゃあ叶えてもらおう。」


「それ、ケント君が教えてくれたんだよ。」


「うん。そうだった。で、ミホリちゃんはどんな願い事するの?」


「どうしよう。いっぱいあるけど。どうでもいいことばかりで。でも、一つだけ叶えられるとするなら友達かな……。友達がほしい。数えきれないくらいたくさん。そしてね、その願い事が叶ったらね、今度は恋人がほしい。ずっとその人と一緒にいたいの。」


園児たちは、それぞれの願い事を短冊に書き綴った。

どうでもいいような願い事を書く子もいれば、真剣に将来を考えて書く子もいる。

先生の立場から言えば、短冊に願い事を書く行為は年中行事の一つで、子供たちを喜ばせるためのイベントにすぎない。仕事だからやっている。それだけだ。こんなものが叶うわけないということは、先生でなくても園児たちだってわかる。

ケントの考えはそれに近いものがあるが、ミホリは真剣だった。


たくさんの友達が作れますように……。


ミホリが祈るようにしたためた願い事だ。


「これでいい。二つ目は来年にしよう。でも、幼稚園にいられるのは今年が最後だから、もう一つ書こうかな。ああ、そうだ……、さっき先生が一つだけだって言っていたからやめておこう。」


「みんな、書き終わったかな?」


先生が言った。


「はい。」


「では、外に出て、今、書いた短冊をあの笹に付けましょう。」


みんなが一斉に立ち上がった。

本当に願い事が叶うのか?神様が微笑むのは果たして誰の願い事か?それぞれがそれぞれの思いを胸に、外に寝かせてある笹に向かっていった。

あっという間に、笹の周りを園児たちが囲んだ。

間髪入れずに、作業に取り掛かる。

みんなは丁寧に短冊を結びつけていった。

誰がどんな願い事をするのか、みんなが気にしていた。

ミホリは、他の園児たちの願い事を冷めた目で見ていた。

みんなが楽しそうに短冊を括り付ける姿を見て思った。


みんなはもう充分でしょ。お友達もいて、毎日笑って、いつも楽しそうにしている。これ以上、何を望むの?この短冊は私のような人間のために神様が贈ってくれたものなの。だから、みんなは願い事を叶えなくていいの。みんなから遅れをとっている私が、みんなから仲間として認めてもらうためにジャンプするの。そのためのものだから……。でも、本当に叶えられるのかな?神様はこの世界で一番偉い人だから何とかしてくれるんだろうね。そうだよ、きっと叶うさ!


ミホリは、可愛らしい手で短冊を笹に結び付けた。

これは夢の短冊だ。

この短冊が何かをもたらしてくれるのではないか……という期待感で胸がいっぱいになった。

当然、他のみんなも同じ気持ちでいる。一人だけ特別というわけではない。


「僕と一緒にいたい?」


「うん。一緒にいたいの。」


二人の園児の声が聞こえた。

それと同時に、たくさんの園児がその周りを囲み始めた。

すでに全員が短冊を結び終えている。

ミホリは自分のようないじめられっ子が「友達がほしい」と書いたことに対して、みんながどういう反応を示すかが怖かった。

しかし、みんなから見ればそんなことはどうでも良かった。

ある一枚の短冊に多大な興味を示していたからだ。


ケント君とずっと一緒にいたい。


この短冊である。書いたのは同じクラスの女の子で、名前はユキ。

ミホリがこんなことを書いたら馬鹿にされてしまいそうな内容だが、ユキが書いたので、羨ましさや憧れといった表情が多かった。

誰もが、こう思う。

ケント君は素敵な人、私なんかでは手が届かない、でも、ユキならピッタリだわ、と……。世間一般でいう、お似合いのカップルという奴だ。並んだ二人の姿は釣り合いが取れていて、まさに、そんな光景だった。

面と向かって好意を示されたケントも満面の笑みを浮かべて、この気持ちに応えていた。

ミホリもこの騒ぎにようやく気づいた。

瞬間、何かが止まった。


「あ……。」


ミホリは思わず小声をもらした。

かわいらしいほっぺたが、とても痛々しく見えた。何も考えが思い浮かばない。

一体となっている園児たちの横で、ミホリだけがこの空気の中に入っていない。

足場が大きく揺らいだ。

仲良く並ぶ二人の姿を見た瞬間、何か大きなものを失った感覚にとらわれた。

それは、ミホリから見たケントという存在が1対1であったのに対し、ケントから見たミホリという存在は30対1、つまり、ただのクラスメイトとしての位置づけであったことに気付いたからだ。

以前からそういう感覚はあったのだが、心のどこかで期待をしていた。

この空気の流れは、今までうっすらと見えていたケントの存在を完全に遮断するものとなった。

ほのかに恋心を抱きながら何もできないうちに遮断される。そういう感覚を、突然、味わったのだ。

つまり……、失恋である。

言いようのない嫌悪感が自分の存在を支配する。

虚しさの世界が広がった。

ミホリの心に、過去の幼稚園生活でのトラウマが容赦なくなだれ込んできた。


「さあ、みんな。笹を天に向かって立てますからよく見ててね。願い事が届くといいね。それ!」


いよいよ笹が立てられる。

先生と、幼稚園バスの運転手をしている男性の力で、願い事の詰まった笹が持ち上げられた。

この園庭の片隅には相当な重量のあるコンクリートの型がどっしりと置かれている。そこに、この笹を差し込むつもりだ。

先生とともに園児たちも移動する。

園庭に隣接する道路からは一人の老婆がこの光景を見つめていた。穏やかな目をしている。まるで孫と戯れているような感覚だ。笑顔が溢れ出ている。


「よいしょっと。はい。完成だよ。」


先生が言った。

茎が、すっぽりとコンクリートの型にはめられた。

流れてくる爽やかな風に乗って、笹の葉と短冊が靡き始めた。

ついに、園児たちの夢が天に向かってかざされたのだ。

歓声が上がった。

その中にミホリがいる。

笹の頂上を見上げながら期待を膨らませた。


願いが叶うんだ。本当に友達ができるんだ。神様が叶えてくれるんだ。あっちの世界へ行くんだ。 


ミホリは視線を地上に戻した。

そこには、ハッと飛び込んでくる光景があった。

ケントとユキだ。

いつの間にかケントの手は、先程、衝撃の告白をしたユキの手とがっちりと結ばれていた。

一瞬、心臓をチクッと刺されたような感じだった。

ミホリは短冊に想いを寄せる気持ちと、今、目の前で起こっている出来事との間で複雑に揺れていた。

訴えかけるような目は短冊ではなくケントに向けられていた。

二人の姿は弾んでいた。

他のみんなも嬉しそうに自分の短冊を眺めている。

老婆は園児たちを見て顔をほころばせている。

足場のない空間でゆらゆらと揺れているのはミホリだけだった。


「ミホリちゃん。」


突然、ケントが話しかけてきた。隣には手を繋がれたユキもいる。


「なあに。」


ミホリは少し驚きの表情を浮かべながら答えた。


「願いが叶うといいね。ミホリちゃんの短冊は高いところに付いているから、神様も見つけやすいんじゃないかな?」


「うん。でも……、神様って高い所に付いている短冊は欲張りだって思うから見ないよ、きっと……。」


ミホリは、そっけなく答えた。

ユキはケントを不思議そうな顔をして見ていた。

短冊を天にかざすというこの瞬間に、どうしてミホリなんかに話しかけるの?と言わんばかりの表情だった。その視線をミホリも気にしていた。

そして、次の瞬間……。


「ひゃああああ!」


一斉に歓声が上がった。

誰もが目を疑う信じられない光景がそこにあった。

悲鳴とも受け取れるこの声……。

ユキの嫉妬めいた表情が、ケントをこの行動に駆り立てたのかは定かではないが……。


時間が止まった。


ケントとユキ……、突然のキスだった。


ケントはそれまでの時間の流れを完全に無視して、半ば強引にユキの唇を奪っていった。

唇と唇が合わさってから離れるまで約三秒……。突然の衝撃に周りは凍りついた。


「……。」


ミホリは目を大きく開いたまま息ができなくなった。

あまりの息苦しさから逃げ道を探してそこに飛び込むかのように上を向いた。

笹の葉と短冊が揺れていた。

再び、歓声が上がった。

二回目のキスが交わされたようだ。

ケントの勇気ある行動を称えるものと、突然だったがそれを好意的に受け止めたユキの気持ちを称えるもの、さらに、それを周りで見ていたみんなが興奮して、もの凄い騒ぎになった。

先生は怒ったりなんかしない。ただ照れくさそうに笑みを浮かべて老婆に対して頭を下げていた。

ミホリは胸に手を当てて、心臓が動いていることを確認した。

ただ、呼吸が荒くなってしまい、棒になったまま動けなくなってしまった。

指令を下す脳が訳のわからない状態になっているため、通常に作動しなかった。

幸せそうな二人の姿だけが、脳幹を突き抜けてくる。

ミホリは動揺している自分が恥ずかしくなった。

神様が見ていたかどうかはわからない。だが、老婆は見ていた、この動揺を……。

足が自然にこの輪の中から離れようとする。

自分でそれを止められない。

ミホリは思った。


私にとってケント君は全て……。全てなの。心臓を取ったら人は死ぬ。それと同じ。その心臓がなくなった。こうして幼稚園の生活を何とか乗り切ってきたのはケント君がいたから……。私の話し相手にケント君がなってくれていたから……。だから頑張れた。砂場で山を作る権利すらいじめっ子たちに奪われてしまう私を、傍らで話し相手になってくれることで守ってくれた。人気のあるブランコやすべり台なんて触れることすら許されない私を誘って一緒に滑ってくれた。おしっこを漏らしたあの日から、みんなの輪の中に入れない私を嫌な顔一つせずに相手にしてくれた。散々いじめられて人に話しかけることが怖くてできなくなった私を、みんなと同じように扱ってくれた。そのケント君の存在が無くなる……。


ミホリは負けを認めたくなかった。

しかし、二人の輝く笑顔とそれを祝福するみんなを見ていると、運命的にあっちの世界には行けないということを感じることができた。

ここから見える光景というのは、周りとの違いに疑問を抱くことすら許されない別世界からの眺めでしかなかった。


私は醜い……。靴箱に置いてあるシューズは、いつもどこかで裏返しになって転がっている。机の上には落書きがいっぱい。粘土工作は壊されるし、描いた絵はいつのまにか違う色が上塗りされている。醜い私、ゴミみたいな私……。そんな私をケント君だけが……、ケント君だけが……、相手にしてくれた。これからもケント君は私に話しかけてくれるかな?でも、話しかけられたくないって気持ちもある。なんかよくわからない。私……、これからどうしたらいいんだろう。ケント君が離れていく。本当に一人になっちゃうよ。


ミホリは足がガクガクと震えていた。

老婆の視線がミホリの心に更なる揺さぶりをかける。

ミホリの短冊は風で左右に揺れていた。まるで、神様に手を振っているかのように……。

それは……、お願い、気づいて、お願い、助けて!と叫んでいるようだった。

ケントとユキは手を繋いで歩き始めた。教室に向かっている。

ミホリの目からは、いじめられてもいないのに大粒の涙がこぼれ落ちた。

涙はミホリウイルスとなり、体を伝って地面に落ちていく。ウイルスは大地を枯らし、水を濁し、空気をも汚す。人や動物が一切近寄れない隔離された世界を作りだしていく。

笑いながら離れていくあの二人の背中を見て思った。


私もいつか必ず幸せになってやるんだ、いつか必ず思い切り笑ってやるんだ。


笹の葉と短冊が揺れている。

ミホリはたくさんの後ろ姿を見て、あっちの世界が徐々に遠ざかっていくような印象を受けた。

ケントとユキの後ろ姿……。

みんなの後ろ姿……。

先生の後ろ姿……。

老婆の後ろ姿……。

たくさんの背中がミホリに焦燥感を植え付けた。

ミホリは動けなかった。

たった一歩が踏み出せないのだ。

ミホリにとって、あっちの世界とを繋ぐ唯一の窓口だったケントの存在消滅は、不安と恐怖以外の何ものでもなかった。

ケントと会話した最後の日、そう、それが今日、7月7日だった。以来、卒園するまで一度も口を利くことはなかった。

この3年後には、家でのたった一人の理解者、祖母がこの世を去る。

隔離された世界に二つだけ付いていた扉が完全に閉ざされてしまったのだ。

七夕の短冊が揺れている。

高い所で、神様に近い所で揺れている。

虚しく、そして、儚く揺れている。

隔離された世界で、誰もいない空間で、いつまでもいつまでも揺れている。



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