17. カラオケ

 夏休みも終盤に差し掛かった頃のことです。


 河津さん吉奈さんのお二人に連れられて、私は初めてカラオケに行きました。音の割れた有線放送。冷房の風が運ぶ紫煙と黴の臭い。ガラスのドアから漏れ出す嬌声。そこは如何にも背徳的な場所でした。『決して足を踏み入れぬように』と羽沢先生がお言いつけになるのも無理はないと、そう思わされました。


「何でカラオケ駄目なん? ヤニ臭いから?」


 問い掛ける宇佐美さんに私は頷いて返しました。


「はい、それもあります。空気の悪いところで歌えば喉を痛めてしまいますから。他にもあります。キーを勝手に上下させるのもよろしくありません」


「キー下げるとカッコ悪いから?」


「そんな格好とかの問題じゃないでしょ」


 宇佐美さんの言葉に、小室さんが呆れ声で応えました。


「いえ、概ね正解です」


「そうなの?」


「曲には調性というものがあります。ハ長調やニ短調という言葉を聞いたことがあるでしょうか。それぞれ頭の一文字は主音を表し……いえ、ともかく作曲者は調性を意識して曲を作ります。『これが格好良い』と図って定められた音を上下させれば、格好悪くなるのは必定です」


「ほらみ? 俺大正解じゃん」


「あーそーだね」


 絡む宇佐美さんに対する小室さんの対応が塩辛いです。


「このキー変更というのはかなり厄介な代物でして、絶対音感を持つ者にかなりの混乱を来たす、謂わば呪いのようなものなのです。絶対音感を持つ者は音の絶対的な高さ、つまり周波数を音名に紐付けて覚えています。しかしキーを変更すると、例えば『ド』と覚えていた音を『ラ』の高さで発する必要があります。逐一全ての音を頭の中で変換しつつ歌わなければなりません。同様の理屈で、義務教育で習う移動ド唱法も、すみません喋り過ぎました」


 音楽の話になると止まらなくなるのは悪い癖です。自覚はしています。


「……すげー。やっぱプロになる人は違うわー」


「うん。天城さん、やっぱり音楽好きなんだね」


「あー、それね。話してるときめっちゃ楽しそうだったし」


 お二人はそう言い合って笑ってくださいました。


「……そうですね。私は歌が好きです。離れてみて初めて、いえ、改めて気が付きました」


 私はこれまでホールに響かせるための声の出し方を身に着けてまいりましたが、その歌い方はカラオケでは通用しませんでした。音響装置で増幅された声は薄い壁を破壊しそうになりました。吉奈さんと河津さんの慌てっぷりが思い出されます。


 お二人はカラオケの遊び方を教えてくださいました。キーをあれこれ変えたり、ボイスチェンジャを使ったり、採点でゲームをしたり、かすれ声やファルセット、鼻にかかる可愛らしい声などいろいろな声の出し方を試したり。


 どれもが禁じられた遊びです。外道です。羽沢先生に知られたら六時間は正座させられるでしょう。


 それでも楽しかった。


 5ヘルツの叛逆に通ずるものを感じました。


 友だちとカラオケに行ったことがある。


 その秘密は、天鵞絨張りの宝石箱にしまってあります。


 もうオルゴールは空っぽではありません。


「最後の夏休みでした。それが最後まで続いて欲しかったのです」


「……最後まで、か」と、小室さんが呟きました。


「最後までそのまま、ではいられなかったな」


 伊東さんの事情を知り、その上で今現在の行動に至ったことを指しているのでしょう。私はその行いに対し是とも否とも言うことができません。


「んー。最後最後って、何でそう大袈裟になっちゃうかね?」


 宇佐美さんはそう言って頬をかきました。


「ただ学校辞めるだけじゃん」


 あっけらかんと言う宇佐美さんを、小室さんが睨みつけます。


「だけって……その言い方はないだろ」


「俺たちさ、会ってから半年も経ってないじゃん。正直よく知らんのよ、小室っちのことも、伊東ちゃんのことも」


「何だよ、それ」


 小室さんの声音が険を帯びたものになっていきます。


「何でみんなこれが最後だと思っちゃうかな? 俺たちがこうしてるのは最後のプレゼントだから、みたいな。でもさ、俺たちそんな深い仲じゃないわけ。返す恩もないし、義理もないし、何もないのよ」


「……じゃあ何で宇佐美は学校サボってまでこんなことしてるんだよ」


「絆深めるために決まってるっしょ」


 宇佐美さんは親指を立てウインクをして見せました。


「今日という日はこれからのためにあるんだぜ?」


「……」


 小室さんは暫し黙したあと、徐に立ち上がりました。


 そして宇佐美さんを蹴りました。


「何してんの痛いから!」


「ごめん何かむかついたから、つい。ごめんな」


 そう言いながら小室さんは宇佐美さんの頭をはたきます。


 ふと目が合うと、宇佐美さんは莞爾と笑みを浮かべて見せました。


 ……そうですね。


 私がここにいるのは何のためなのか。彼らはそれを教えてくれました。


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