珈琲屋

珍しい客が来た。


彼は死んでいないはずだ。


彼の声は現(うつつ)にも響き、時間差で反響してはワンワンと響く。


ことばを現世の理(ことわり)で使えるのなら、彼の魂はまだ身体に在るはずなのだ。


「あんた……どうしてここに?」


「…私は……貴方と同じ…」


言ったそばから自分の言ったことがわからないかのように、ふと首を傾げてみせる。


大の男でありながら、まるで年端もいかない幼児のようである。


女は、辛抱強く問い続けることにした。


「あんたどこからきなすった?」


「……わからない…………」


呟く男の声は儚げで、道に迷った子のようだった。


「じゃあ……好きな食べ物でも言いな。よほど奇怪な異国の食べ物でない限り、用意できるよ」


男は、しばし考えこんだのち、控えめにこう言った。


「珈琲」


男が迷いなくことばを発したのはこれが初めてである。


これが男の縁を解き明かす鍵となることばだろう、と女は興味深く思った。


女は男を椅子につかせ、コーヒー豆を取り出した。


さく、と掬い上げると、こうばしい香りが店内を満たす。


ふと、男を見る。


豆を見ながら、彼は泣いていた。


「どうしたんだい、あんた」


駆け寄ると、男は自分の頬を指でなぞっては驚いてみせた。


「私は……泣いていたのか」


ひとときの沈黙ののち、男は声をあげて泣き始めた。


「私の……喫茶店が…………子供のころからの夢だったのに……!」


コーヒー豆の香りが男に思い出させたのは、あまりに過酷な男の現実だった。


なんでも、彼の雀の涙ほどの退職金で田舎の安い土地に建てた喫茶店が、潰れるよりもひどい目にあっているらしい。


「……儲からずに潰れるなら……まだいい。たが、奴等は…………」


田舎は閉鎖的な社会である。


人の良いじいさん婆さんが集まった、よき田舎というものは金持ちがリサーチし尽くし、第2の人生を送るため土地を買う。


彼にはその土地すら買えず、貧乏クジをひいてしまった。


土地柄は最悪、村八分などという古い概念がまだ根付いているような、性悪な老人の集まった山がちな土地にポツリポツリと分布する集落。


男はそこの空き家を改装して喫茶店を開店したが、お客様は神様だと客自ら言うような様々な嫌がらせにあい、遊びにきた孫娘は村の子から罵声を浴びせられ、「もうおじいちゃんちには行きたくない」と言われてしまった。


男は優しかった。


こんな閉鎖的な社会しか知らず、互いを恨み憎しむ人々は不幸だと、男は村人たちの心を救おうとした。


公民館で集会があれば創作料理を一品差し入れし、子供たちには感性を養ってもらおうと自費で本を買っては小さな図書館を併設した。


……料理は箸をつけてももらえず捨てられ、貸し出した図書は返ってこない。破られ、捨てられるのがオチだ。


「よそ者の食いもんなんぞ食えるか!なんだこの人の指みたいな気味悪い肉は。貴様らは人肉を食らうのか?気味悪い!村から出ていけ!」


「まあ、こんな嫌みったらしい絵本。羊をいじめる狼に罰があたるですって?嫌だわ、あの人たち子供に入れ知恵をして私たちを虐げるつもりだわ。被害妄想もひどいわね。捨ててきなさい。あの人たちの家の前に」


男の善意は、強烈な悪意となり男の心を蝕んだ。


「私はなんのために!なんのためにあんなことをしたのだろう!温かい人の心を持たない人々に、なぜこれほど傷つけられなくてはならないのだ!施したから対価をくれと言ってるわけではない……ただ、温かくなりたかった……。心と心の触れあう音を聴きたかった…………」


視点の違いはあれど、『人を救う』という行為に苦しみ、もがいてきた点が女と同じだった。


「あんたは、死にたいんだね」


元々生きてもいない、神仏の世界にいた童子であった女だったが、自ら生命を絶ちたいと願う人々の想いがわかった気がした。


「……死なせてやってもよい」


ただひたすら、迷える魂を現世に戻したいと願ってきた。しかしそれが救いにならないことも知った。


「だけどね、あんた。死ぬ前に、これを見ていきな」


女は男のまぶたに左手を乗せた。


「あの村の、子供たちの秘密基地へ、魂よ、飛べ」


男は飛んだ。


苦しい言い訳を並べて、息苦しい集会に欠席してまで逃れてきた、忌まわしき地へ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


苦しみから永遠に逃れるために逃げてきた。


だけどいざ自分の首を絞めてみたところで死ねなかった。


男の息は荒い。


「か……帰してくれ!私はもう…………!」


通りなれた村の細道。


荒れ地と化した休耕田は、村人の心の荒みようを表しているようで。


でも、荒れ地にも花は咲く。


それは事実であって。


打ち捨てられた廃屋に、子供たちが集まっていた。


「やっぱりおかしいと思うんだ!」


隠れている割にはばかでかい声で、リーダー格の男の子が言った。


「だからって、どうするのさ」


眼鏡を掛けた、少しばかり気の弱そうな男の子が言った。


「決まってるでしょう?」


気の強そうな女の子が言った。


「いくら親だからって、人をいじめていいはずないわ!」


男は、不意に涙腺が熱くなるのを感じた。


子供たちが囲んでいるのは、親たちへの手紙。


恐らく皆で推敲したのだろう、個性溢れる字で記された、親への弾劾。


「みんな、腹は決まったか?」


リーダー格の男の子が言う。


眼鏡の男の子が、渋々、といった風に頷く。


女の子が、敬礼しつつラジャー!と言う。


外から日に焼けた肌の女の子がきた。


「色々理由をつけて、お父さんたち公民館に集めといたわよ!」


「よし、行くか」


子供たちは立ち上がった。


あの紙を片手に、先頭をいく男の子。


彼についていく子供たち。


男の意識は、ここで途絶えた……。


「ん……ここは」


「どうだったね?嬉しかったかい?悲しかったかい?」


店に戻ったことを認識した男は、女に頭を振ってみせた。


「そんなことより、あの子たちが心配だ。私にされたようなことを、親からされなければいいが……!」


男の目が、見開かれる。


「そう。あの子たちの勇気がどんな実を結ぶのか、見届けてからでも遅くはないんじゃないかね?」


タポタポタポ……と珈琲を注ぐ音がした。


「……いい香りです」


砂糖もミルクも入れずに、ブラックのまま女の淹れた珈琲を飲み干す男。


カップを置く頃には、その姿は見えなくなっていた。


「……幸せに、おなりなさいよ」


女あるじの店は、今日も1つの魂を導いた。


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