第10話 物語の中
百合乃 氷命の存在を初めて知ったのは、僕が線も真新しいマクミラン高校の制服を身にまとい、緊張と期待に満ち満ちた面持ちで臨んだ4月初頭、入学式の時だった。周囲の新入生も僕と同様にどこか居心地が悪そうにしながらも、早い所では既にグループを作って談笑している。
そんな中、金糸のような髪をなびかせる小柄な少女が、一際目立っていた。
それが百合乃 氷命で、その時は可愛いとか、綺麗とか、そんな印象は全く無くて。とにかく、目立つ人だな、とドライな感想を抱いたことを覚えている。
その感想が一気に「騒がしい人」あるいは「ヤバい人」と変化していったのは、実はそのすぐ後、入学式真っ最中だった。
誰もが魅入ってしまいそうな少女が、理事長の挨拶の最中、おもむろに用意されたパイプ椅子から立ち上がると、手を二回鳴らした。
すると突如、両サイドの舞台袖からカラフルな砲筒がゴロゴロとコロ付きの台座に乗せられて出現してきたかと思うと、何の前触れも無く爆音と共に発砲。どこからかき集めてきたのかと、驚きを通り過ぎて呆れた感想が漏れてしまいそうな程の量のカラーテープと紙吹雪が視界を染め上げたのだ。
式に参列していた入学生はーーー勿論僕も含めーーーその文字通りぶっ飛んだ演出に歓声やら悲鳴やらを上げたりしたわけだが。しかし教師陣の異様な焦り具合を見た直後、どうやら予定に無い催しだったのかと察し。一気に興奮が冷めた式場は、さてその後はどんなテンションで式を継続していけばいいのかと、訳の分からぬ内に閉会してしまった。
おそらく僕の人生で一度きりの高校入学式が、まさかの過剰演出という謎すぎる思い出となって残ったわけだが。では事の発端である氷命がその後どうなったのかと言うと、実は誰も知らなかったりする。そもそも、あれだけのカラーテープと紙吹雪も、どうやって掃除したのか。会場となった体育館の梁にまで大量に引っ掛かっていたのに、それが一つたりとも残っていない。
それからと言うもの、氷命がトラブルメーカーとして名を馳せるようになるまでに、そう期間を要さなかった。僕に実害が及んで来なかったことが、今思うと災いして、学校内の至る所で戦場さながらのトラブルが日々絶えることなく炸裂していた。
そして今、そんな学校内屈指のトラブルメーカーであり、無垢な言動と価値観と世界観故に「アリス」という称号を掲げられている氷命の意識は、僕に向けられている。
とても、純粋な笑顔だった。そこに曇りの欠片も見られない。赤子でももっと汚れた感情が混じるだろうに。それすら凌駕する程、ひたすらひたすら。
「……百合乃さんが、悠歌と姫……響姫ちゃんを、拐ったの?」
もしや、と考える機会は多々あったはずだ。しかし潔白さを体で表さんとする氷命を疑うことすら、何故か滑稽なことのように思えてしまう。その考え方は今尚変わらず僕の中にあって、氷命に向かって問うたことすら、普段ならば失笑してしまいそうな行動だと、僕には思えてならなかった。
「い~え」
そんなことを考えていたからか、氷命の否定を聞いた瞬間、自分を酷く蔑みたくなる気持ちが浮かんでしまった。
「でも……結果的にここに導いてしまったのは、ワタシね」
申し訳なさは、一切その言動からは伝わってこない。やはり氷命の言葉の全てが純粋だった。
「結果的にって、どういうこと? 猫さんが犯人じゃないなら、じゃあ直接的には誰が悠歌と響姫ちゃんをここに連れてきたのさ?」
「誰でもよ。誰も、連れてきてなんていないわ。
ユウカとヒビキは、ユウカとヒビキの足で、この猫さんの図書館に来たのよ」
…………え?
思考が一瞬止まった。
悠歌と響姫ちゃんは、自分達の意思でこの図書館に来た? 自分達の意思であの雑木林に入り、道無き道を進み、この図書館に辿り着き、中に入って猫さんに本の中へ入れられた、と?
お転婆気質のある響姫ちゃんならまだしも、悠歌がそれをするだろうか。身内という要素を抜きにしても、悠歌はそれこそどこに出しても恥ずかしくないレベルに優等生。「貴蕎からお堅さを取り除けば悠歌」と葛哉から評価を頂いたくらいだ。
ありえない。自分の意思で来たなんて、そんなことは。
「そうね、正確にはユウカとヒビキの意思、ではなかったと思うわ」
「意味が、分からないんだけど。自分達の足で来たと言ったり、それは自分達の意思ではなかったと言ったり」
「う~ん……あはっ♪ ワタシもよく分からなくなってきたわ♪」
「……」
はぐらかしているようには見えないけれど、どうしても氷命のキャラクター性のせいか真面目さに欠ける態度に捉えてしまう。
猫さんは猫さんで意味ありげなことしか言わず、氷命はこんな様子。
怒りやら驚きやら呆れやらで、僕はいよいよ頭が痛くなってきていた。
「ワタシはヒビキに、『楽しいことを見つけることが大事』って教えてあげたわ」
「楽しいこと? 教えるって、いつの話?」
「えっと~、初めてユウ達とお弁当を食べたときかしら」
つまり、響姫ちゃんの様子がおかしくなったあの日のことか。「準備がある」とはつまり、何か響姫ちゃんにとっての「楽しいことをするための準備」ということだったのだろう。しかしそれはそれとしても、今回の行方不明と繋がりが分からない。まさか悠歌を連れて姿を眩ますことが「楽しい」と考えたわけではないだろうし。そもそも、猫さんの図書館という異常な存在を知っていることとも繋がらない。
「この図書館のことを教えたのは百合乃さんなの?」
「い~え、ワタシではないわ。たぶん、誰から聞いたわけでもないと思うわ」
「どういうこと?」
「猫さんの図書館は、そういう場所なのよ」
「えっと……そろそろ僕の頭のキャパシティーが限界を迎えつつあるんですけど」
そういう場所、ってなんだ。その一言で丸く納められてしまうと、ヒジョーにやるせない。理路整然としろとは言わないが、もう少し理論的に解説していただきたい。
「ーーー本は、好奇心~」
そこで、黙っていた猫さんがまったりと口を出す。
「ヒトの、好奇心は、常に理論的、ではないよねぇ~。そして、ここは、猫さんの図書館……好奇心の、塊なんだよねぇ~」
「好奇心……」
猫さんは、好奇心という言葉をよく使う。前に会ったときでも、好奇心がヒトを動かし、それ故に身を滅ぼすことすらあると。
「好奇心は、惹き付けられる……好奇心同士で、惹き付け合う……猫さんの図書館は、好奇心を、惹き付けるんだよねぇ~」
「本は好奇心で、その本を沢山保有する図書館だから好奇心も巨大で、その巨大な好奇心に惹き付けられる、と?」
「その通り、だねぇ~♪」
分かってくれて嬉しいと言わんばかりに、猫さんはニンマリと笑う。いや、正直理解してはいないのだが。
図書館には人を寄せ付ける力がある、なんてものは、僕のように本が好きな人限定だろうし。悠歌ならそれに当てはまりそうだが、申し訳無いが響姫ちゃんがそれに該当するとは思えない。
「響姫ちゃんの、自分の中の『楽しいこと』を見つけたいという好奇心が、この図書館に引き寄せられた……じゃあ、悠歌は何故?」
響姫ちゃんにとっての好奇心が、楽しいことを探すことだとして、なら悠歌にとっての好奇心とは一体何なのだろうか。悠歌のどんな好奇心が、猫さんの図書館に引き寄せられたのか。
「それはユウカ自身に聞くしかないわ」
至極真っ当なことを、氷命は答える。
僕は悠歌の全てを知っているわけではないし、勿論知らなくてはいけないなんて偉そうなことを思っていないけど。しかしこうして悠歌の身に危険が迫ってしまう程の好奇心というのなら、僕はそれをなんとかしなくてはいけない。そう思ってしまう。
「これも、ただの僕の好奇心、なのかも……」
不意に脳裏を過った思いが、口から溢れた。
聞こえていたはずであろうに、氷命と猫さんは何も言わない。
「それで……百合乃さんを満足させる、という話は一体どういった繋がりが?」
「それはーーー」
「ワタシからお話するわ!」
猫さんが口を開いたとほぼ同時に、氷命が遮る。
猫さんはどこか苦笑したような表情を浮かべ、ほんの僅かに肩を竦めた。なんともレアな猫さんの姿だ。
「ユウ、ワタシはこの世界が大好きなの!」
満を持して、と。ほとんど凹凸が無いに等しい可愛らしい胸を反らせつつ、氷命は腰に手を当てて言い放つ。
「キラキラ流れる川さんや、綿飴みたいに甘そうな雲さんが好き。肌で感じる風さんや、その中で生きている動物さん達が好き。車さんや電車さんが走る音が好き。ヒトが笑顔でお話ししている声が好き。
沢山の音と色で溢れている、この世界がワタシは大好きなの!」
僕にとって……いや、多くの人間にとって、当たり前のように存在しているそれら。それを氷命は、大層尊いものであるかのように語る。
「中でも、ヒトは本当に素敵だわ! 怒っていたり、泣いていたり、笑っていたり……そのどれもが、どんなヒトでもできること。
ワタシが分からないことを知っているヒト、ワタシが『楽しい』と思うことを楽しくないと思うヒト。その反対に、ワタシの方が知っていることもあれば、ワタシの知らない『楽しい』を感じているヒト。
ヒトって沢山いるのに、誰も同じヒトがいないの。みんな違うことを考えたり、感じたりして、それなのに一緒にいるととても楽しいの!」
指折り、氷命が語る言葉を聞いて、僕は氷命の純粋さの正体を垣間見た気がした。
自分の価値観と、世界の全てを天秤にかけない。天秤にかけないから、比較することがない。「『それ』がそうして在る」という事象だけに、意識を向ける。
好奇心。氷命の全てが、好奇心と言っても過言ではない。
少なくとも、本にばかり興味を示す僕なんかとはスケールが違う。違いすぎる。
そう思ったのに。
「そして、ユウはさらに特別。ワタシが見た沢山のヒトの中でも、一番面白いヒト」
氷命はそんな僕に興味を示していた。
……それは、喜んでよろしいことなのでしょうか?
「いつもは何を考えているのか分からないお顔をしているのに、本の世界を覗くお顔は小さな子どもと変わらない。ユウカのことになると、イッショウケンメイになって走り回る。
ずっとユウのことを見てきてたけど、全然見飽きないわ♪ もっとユウのことを知りたい、そう思えて仕方無いのッ!」
色々言いたくて。羞恥心からくるむず痒さとか、女の子からそんなことを言われる高揚感だとか、とにかく目まぐるしく頭の中で輪になって踊る感情の数々に、体をくねらせてしまいたくなってしまう。
その一方で、氷命の特異さをまざまざと感じている自分もいる。
トラブルメーカーだとか目立つ人だとか、そんなレベルの話ではなく、百合乃 氷命という一人の人間の存在が、あまりにも異常に感じてしまう。
異常なのだ。氷命を中心に起こる出来事全てが、現実離れしすぎていて、それを引き起こせてしまう氷命の存在は、あまりにも異常だった。
「百合乃さんは……一体、何者なの?」
ずっと聞きたくて、機を逃していた疑問が、僕の口からポロリと溢れた。
「百合乃さんが起こすトラブルはいつも過剰な程なのに……なんで……」
続いて浮かんできた疑問を口にしようとしたとき、ズキリと頭に痛みが走った。
氷命が起こすトラブルは、いつも過剰だ。それ故に氷命を「アリス」などと揶揄されてしまうくらいに悪名が学校内で轟いているわけだ。トラブルの過激さは、被害者の増大にも比例する。生徒主体を校風とするマクミラン高校といえ、あまりにも目に余る事例だって山ほどあったはず。
皆が皆、それを受け入れてしまっている。氷命がトラブルを起こすことに異常性を感じなくなってしまっている。
それこそが、氷命の異常。氷命を受け入れる、その他全ての異常。
頭痛が増す。考えれば考えるほど、万力で絞められるような痛みが脳を焼き付ける。
「それ以上は、今は止めた方が良いわよ」
僕の質問に答えることなく、氷命は痛みで頭を抱える僕に近づき、そっとその小さな手で、僕の頭に触れた。
そんなことで痛みは和らぐことはなく、むしろ痛みの波は高くなっていく。
「このままじゃ、優君が、壊れちゃうねぇ~」
「あら、それはいけないわね! ユウがユウじゃなくなっちゃったら、ホントにツマラナイ世界になってしまうわ!」
猫さんと氷命の会話をボンヤリと聞きつつ、足から力が抜けて踞ってしまう。やけに二人の会話が鮮明に聞こえる。あまりの頭痛に、気分がどんどん悪くなってくる。
もう、吐きそう。
「さ、ユウ! 壊れちゃう前に、早速勇者の旅に出掛けましょッ! 目指すは魔王に囚われたユウカとヒビキの救出よ! あは♪ ワクワクするわねッ♪」
グッと、項垂れる僕の脇に細い力が加わり、体が持ち上げられた。その小さな体躯のどこにそんな力があるのか、氷命は片腕で僕を無理矢理立ち上がらせてきたのだ。
というか、今は本当にそっとしておいてほしい。刺激をくれないで。色々限界だから。
「じゃあ、勇者御一行様、頑張って、『この子』を元に、戻してあげてねぇ~」
「いってきま~す♪」
人が反論しないことをいいことに、勝手に話ばかりが進んでいく。
結局氷命は何者なのか。氷命を満足とは何なのか。
またしても本の中に入れられるのか。悠歌と響姫ちゃんを助けるためとは言え……それならせめてもっと準備をさせてほしい。主に命を賭ける準備を。終わりの活動と書いた終活をさせて。
頭の中では言いたい消化不良の文句が多々あるのに、言葉とは違う、消化不良なものがこんにちはしてきそうで、口を開くことすら叶わない。
ボヤける視界の先で、いつぞやに見た白い光が映る。
もう逃げられないのか。
そんな諦めの境地に達するかどうかという瀬戸際で、僕は小さな涙を一滴溢していたのだった。
体が仰向けで寝かされている。
未だ開いていない瞳の向こうには何も見えないのは当たり前だが、僕には目を開けたくない理由がある。
鼻孔をくすぐる、嗅ぎ慣れない土地の匂い。おそらくどこかの室内、そこに設置されたベッドの上に、僕は寝ているのだろう。なんとも寝心地の悪い、硬めのベッドだ。このままじゃ腰がやられてしまう。
「おはよう、ユウ♪」
ガクガクと、体が強烈に揺すられ、僕は思わず開けたくもない目を開けた。
同時に、受け入れたくないリアルが視覚情報として脳内に飛び込んでくる。
さっきまでいた、猫さんの図書館じゃない。雑木林の中でも、見慣れた住宅地でもない。そもそも、僕の住む町並みじゃない。
「……本の世界、なんだ」
木を基調に作られた室内を見渡しながら、僕は苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。
観光地巡りとしてなら、物珍しい気分で、もうちょっと楽しくいられたかもしれない。今いる場所が『勇者伝説』という創作物の中の世界、という非現実的な設定でなければ。
「そうよ! これから冒険をして、魔王さんをやっつけるのッ!」
目をキラキラさせながら、枕元で意気込む氷命。
結局この人が何者なのかは明かされていないけど、少なくともこの状況に違和感を覚えていないということは、経験者の方なのか、あるいは相当な大物なのか。
正直、どちらの可能性もありえそうだ。
そういえば、いつの間にか頭痛は治まっていた。
「百合乃さんは、『勇者伝説』を読んだことがあるんですか?」
釈然としない気持ちは今更だと割りきりながら。
体を起こしながら、僕は問うた。
「あるわ! けど、もうすっかり忘れてしまったわね。どんなお話だったかしら?」
「魔王を倒すってくらいを覚えているんなら、もうそれだけでいいかもしれないけど……」
『勇者伝説』は超王道ファンタジーである。それこそ、後の世のRPGはここから始まったと言っても過言では無いかもしれない。
地上には元々人間が暮らしており、何の前触れ無く、ある日魔物が自然発生するようになる。最初こそ小動物程度の大きさ、獣の知能レベルであった魔物は、急速に進化をしていき、気付いたときには巨大な体躯や人間と同等の知能を持つようになっていた。そうして、地上は人間と魔物という二つの勢力が浸食するようになった。
勢力が別れていたとはいえ、両者にはある程度の信頼関係が結ばれていた。人間には不可能な力仕事や上位魔法を魔物が。器用さと柔軟性に富んだ想像力を人間が。互いに助け合い、互いに過干渉せず、人間と魔物は共存を成立させていた。
しかし、そんな均衡はいつしか崩れてしまう。
ある時、類を見ない特異な魔物が生まれたのだ。生まれながらに人間を超越した知能レベルを持ち、同族をも圧倒する魔法の才能・膂力を身に宿した彼は、いつしか人間の持つ文化に準えて、王の称号を冠するようになった。
魔物の王、魔王。彼の力は、それまで緻密なバランスを保ってきた人間と魔物との関係を、意図も容易く崩壊させてしまった。
魔王誕生を境に、堰を切ったかのように、魔物は人間を襲うようになった。力や魔法に富んだ魔物が人間を駆逐していくことは、赤子の手を捻る以上に簡単なことだった。
人間は、魔物の脅威に怯えながら生き長らえていくことしかできなかった。
年が流れ、今度は人間の中にも、魔法や知能に富んだ存在が生まれるようになった。彼らは魔物に対抗するべく、自らの持つ知識を人間に広めて回った。更に、魔物に力で圧倒されることのないよう、武器や防具を作る文化も誕生させていった。
そうして力関係が過去と同様に戻ってきた兆しが見え出した頃、人間は魔物に更なる対抗をと、生まれながらにして魔法や武器の扱いの才に秀でた者を『勇者』として祭り上げるようになる。
物語は、そんな勇者として選ばれた主人公が、幼馴染みの魔法使いの少女や力自慢の青年と共に、生まれ故郷の町から旅を始めていく場面から始まる。旅の最中の多くの葛藤や苦難をも乗り越え、成長し、最後に魔王討伐を成し遂げ、勇者達はこれからも人間が魔物に怯える世界が無くなるように奮闘していくことを決意し、物語は幕を閉じる。
『勇者伝説』には翻訳や別解釈の本が多数存在しており、どの作品を見ても新しい発見があったりする。原作は全20巻から構成された長編作品で、その高い人気とクオリティーから価格が高騰。以前ネットで調べたとき、その丸の数に度肝を抜かされたものだ。シリーズ本一式揃えるだけで、立派な一軒家が建てられてしまうとくれば、さすがに人生賭けて揃えてやろうと思う気持ちにもブレが生じてしまう。
しかし一般的に市場で出回っている『勇者伝説』は廉価版故に、ボリュームも表現もヒジョーにマイルドな設定で、学生でも気軽に買えてしまうくらいには良心的な作品となっている。
「ここは……多分はじまりの町、ですよね。雰囲気が作品の描写にあったものと酷似してるし」
窓の外を見やりながら、僕は一先ず今後の行動を模索する。
「さて……百合乃さん、とりあえず勘違いしないでもらいたいのは、目標は魔王討伐ではないです」
溜め息混じりに僕が言うと、氷命はおかしなものを見るように、目を真ん丸にして僕を見た。
「このお話は魔王さんをやっつけるのが目的じゃなかったかしら?」
「物語自体はそれが目的です。勇者が魔王を倒す、そこまでを記した物語ですから。でもそれは『勇者の目的』です。『僕らの目的』ではありません」
そう、そこが一番大きな認識の違い。
猫さんには、ストーリーがおかしくなった『勇者伝説』を元に戻してほしいと頼まれた。でも僕はそれよりも、何よりも、悠歌を救出したい。悠歌と共にいるであろう響姫ちゃんを助け出したい。それこそが僕にとって最優先に行わなければいけない事柄なのだ。
「……ホントに、ユウカのことが大切なのね」
不思議なものを見るように、氷命は首を捻った。
「ワタシの知るユウなら、ご本のためなら何でもしてしまうくらいアクティブよ。でも、それよりもユウはユウカのことが大事なのね」
「当たり前さ、家族なんだから」
邪気の無い氷命の言葉を、僕は食い気味に返した。嫌味に受け取られるかもしれないと一瞬勘繰ったが、それは杞憂だったよう。
氷命は僕の言葉を聞き、面白いものを見たように目を輝かせた。
「家族……家族ね。う~ん、やっぱりユウは面白いわ! ワタシが思っていることと全然違うことを考えたり、したりするんだもの!」
「その、百合乃さんの僕に対する謎の評価はどこから来るんですか」
喜んでいいのかそうでないのか。氷命は相変わらず僕を微妙な気持ちにさせる。
「でもやっぱり、魔王さんはやっつけるべきよ」
「何でそう思うんです?」
「だって、ユウは勇者だから」
「……はい?」
さらりと、氷命はとんでもないことを言ってくれる。
そういえば、初めて魔王が僕を襲ってきたときも、僕を勇者だと決めつけてきていた気がする。
その時助けてくれた魔法使いの少女と力自慢の青年は、僕を既知の者として見ていた。
「なんで、勇者の役が僕なんですか!?」
勇者は勇者として、この世界に存在するものではないのか。この世界に来たら自動でロールが割り当てられるなんて、そんなシステムで良いのか。
「待って、それじゃあ百合乃さんはどういった配役を受けているんですか?」
僕の狼狽する姿をケラケラ笑っていた氷命は、ピタリと止まったかと思うと、ゆっくりと僕に向き直った。
「……ワタシは、ワタシよ。『百合乃 氷命』、それがワタシなの♪」
「いや、それだと僕は『藤杉 優』という配役になるじゃないですか、でも違うでしょ。百合乃さんの、この世界での配役を聞いているんです」
至極普通のことを聞いたつもりだったのだが、しかし氷命はどこか残念そうに表情を曇らせた。
「ワタシは何の役でもないわ。言い換えれば、読者みたいなものね。ご本を外からじゃなく、中から読んでいる、という違いだけ」
「なら僕もそれでいいです」
「あら、ダメよ。ユウは勇者にならなくちゃ。ユウカ姫やヒビキ姫の救世主になるのよ!」
「何故そんなにノリノリ!?」
テンションばかり高くなっていく氷命に、治まっていた頭痛がまた再発してきたような気がする。
というか、勇者……? 勇者。勇ましい者。魔王を倒して人間の世界を導く存在。僕が?
「こんなこと言うのもカッコつかないですけど、僕は勇者ってタマではないですよ」
「あら、そんなこと、最初から決め付けてはいけないと思うわ。やってみないことには、何も分からないもの。それとも、ユウは勇者をやったことがあるの?」
「いや、あるわけないですけど……」
「ならできるかどうかは分からないわよね! 今日は記念日ね、美味しい紅茶で乾杯したい気分だわ♪」
「例え実行されても今更驚きはしないですけど、ここでお茶会開かないでくださいね」
なんとなく、氷命ならすぐに有言実行してしまいそうな気がして釘を刺した。
氷命の言葉は、なんとも僕の心を揺さぶられることが多い。今だって、「なら、ちょっと勇者頑張ってみようかな」なんて気持ちに僅かにさせられていたりする。そんな力が、氷命にはあった。
「そういえば……栞は無いのかな」
僕は以前、猫さんから渡された硝子細工の栞の存在を思い出し、体のあちらこちらを探してみた。
前はあれが光ってから、猫さんの図書館に戻れた。ということは、あれはこの本の世界から脱出するための道具、として考えてもいいのだろう、たぶん。死にかけた直前なんかで使えば、強制脱出できるわけだ。つまり、超絶必須アイテム。
「貰ってないわ!」
ポケットというポケットを探していると、氷命はさも当然とばかりに言った。思わずポケットに手を突っ込んだ姿勢で固まってしまった。
「猫さんの栞でしょ? それなら今回は貰っていないと言ったのよ」
当たり前じゃない、とでも言いた気に、氷命は追い撃ちをくれた。
「えっと……百合乃さんは、僕の言う栞がどういったものかご存知で?」
「ええ、猫さんから貰える硝子の栞のことよね。あれを強く握ると、なんと本から飛び出すことができる優れものなのよね! でも今回は必要無さそうだから、貰わなかったわ♪」
「必要無いって……どう考えても必須アイテムなのに……なんで……」
「だって、折角ユウと一緒に冒険できるのよ? あちらの世界と行ったり来たりなんて、そんな時間が勿体無いわ!」
「……は、ははは……あははハハハ」
人間、いよいよ追い込まれると脳ミソのどこかしらに異常を来すものなのだろう。涙に視界を歪ませながら、僕は乾いた笑いを溢しながら手を叩いていた。
「あは、声を出して笑うことは良いことだわ♪ 楽しいことも面白そうなことも、どんどん吸い寄せてしまうもの! ワタシもやってみたいわ! アハハハハハハ♪」
片や壊れた玩具のように、片や能天気に。僕と氷命がいるこの一室は、この時他人が見たら目を背けたくなるようなカオス空間が広がっていた。
「じゃあ早速旅立つわけだけども」
切り替えきれていない気持ちをなんとか奮い立たせつつ、僕と氷命は寝ていた部屋から出て、屋外に一歩踏み出した。見渡す町の風景は、家という家が吹き飛び、地面があちらこちらで抉れている。町の人達はその惨状をなんとかしようと、黙々と家の解体作業や穴の埋め立てを行っていた。
「これって……魔王がやったんだよね」
「そうね。はじまりの町でいきなり魔王が出現するなんて、なかなか派手な出だしだと思うわ♪」
「うん、僕が勇者という立場でそれを体験させられるようなことがなければ、素直に楽しんでいたと思うよ」
でも、実際は僕が当事者なのよね。配役した神様に憎悪しか抱けない。
「でもあの後どうなったんだろ。帰ったと見せかけて奇襲してきた魔王が攻撃してきたタイミングで、前はあっちの世界に戻ったんですけど」
「そこからでも良かったけど、いきなりユウが吹き飛んじゃうのは見たくなかったから、やっぱり魔王はそのまま帰ったということにしたわ!」
「そう、そのまま帰ったことに……はい?」
待って。僕、今の氷命の言葉はちょっとよく解らなかったぞ?
「帰ったことにした、って、何? その言い方だと、百合乃さんが『そうなるようにした』みたいですけど」
「あら、このお話はまだしていなかったかしら?」
特筆することも無いとばかりに、微笑みながら氷命は小さく首を傾げる。
「『そうなるようにしたみたい』とユウは言ったけど、その通りよ! ワタシがユウが倒されないようにしたの♪」
「……」
正直、頭の理解が追い付かなかった。僕の目の前にいる金髪少女は、一体何を言っているのだろう。現実離れした経験を重ねている中で、この先もう大抵のことは流せる度量が身に付いたかもしれないと思っていたけど、それが如何に愚鈍な思考であったのかを、今まさに叩き付けられている気分だった。
「……あは♪ まだよく分からないってお顔をしているわね。それじゃあ……」
呆然と立ち尽く僕を見て、氷命はキョロキョロと周囲を見渡す。そこに、丁度瓦礫を抱えて歩く男性が通り掛かった。
「あの男の人は今から転ぶわ。その弾みで持っているものを放り出してしまうけど、それを魔法使いの女の子が助けてくれるの!」
予言するかのように氷命はこの後の展開を語る。
何をバカなことを、と普段なら一笑していただろうに。今の僕には、それが必然なのだろうと不思議と思い込んでいた。
瓦礫を運ぶ男性。屈強な足取りで、難なく重い瓦礫を運ぶ姿に、一切の不安は抱けない。
そう思った次の瞬間。
「ぅわっ!?」
突然、地面に出来ていたほんの小さな凹みに足を取られ、盛大に転倒したのだ。その拍子に抱えていた瓦礫が宙を舞う。その先に、別の作業をしていた女性が歩いていた。
「危なーーー」
思わず、地面を踏み込んでいた。絶対に間に合う距離ではない。そう脳裏で分かっていながらも、僕の身体は自然と飛び出していた。
しかしそんな小さな思いだけで、現実は変えられない。
瓦礫が女性に雪崩れ込む。女性は突然のことに思考が停止しているようで、完全に固まってしまっている。
最悪のイメージが頭に映し出された。
「怪我は無いですか?」
ところが、そのイメージは現実のものにはならなかった。
瓦礫が宙に浮いたまま、停止している。
女性は、その場で腰を抜かして座り込んでしまった。
その先で、黒のとんがり帽に黒のローブをまとった、THE 魔法使いと言わんばかりの格好をした少女が、無表情に立っていた。
「……怪我は?」
へたり込む女性に近付き、少女はもう一度尋ねる。
女性は我に返り、少女を見る。そこには生への歓喜を称えた表情を浮かび上がらせていたが、しかし少女の顔を瞬間に表情を固まらせたかと思うと、「あ、ありがとうございましたッ」と足早にその場を去っていってしまった。
「……ふ」
少女は無表情をピクリとも変えることなく、女性が立ち去った方向を見ていた。そして小さく息を吐いたかと思うと、宙に浮いていた瓦礫がガラガラと音を立てて地面に落下した。
一部始終を見続けていた僕は、ふと周囲の異変に気付いた。
やけに静かだ。見渡すと、今しがた起きた出来事を見ていたであろう町の住民や作業員は、一様に瓦礫の山から目を逸らしていた。いや、正確には、瓦礫の傍で佇む魔法使いの少女から、か。
強烈な違和感と気持ち悪さが、僕を襲った。
それは氷命の未来予知なのか判然としない事柄故だけではないだろう。「勇者伝説」を読んでいたときにはそれほど気にしなかったことが、目の前で再現されると、こうまで嫌悪感を抱かされるとは。魔法使いの少女の出自や抱える想いを知っているからこそ、なんともやるせない気持ちで一杯になる。
「分かったかしら?」
苦虫を噛み潰したような表情で立ち尽くす僕の背後から、氷命の声がする。ゆっくりと振り返りながら、僕はあり得ない、突拍子の無さすぎる答えを口にした。
「……百合乃さんは、望んだ通りの出来事を実現させることができる?」
神様か。
以前、氷命は僕にこう告げたはずだ。
ーーー「自分は主人公だ」と思ったことはあるか。
自分が歩んできた過去も、置かれている現状も、何もかも作者という名の神様が執筆した盤面だとしたら。そして僕は、それを考えることすら意味が無いと結論付けたはずだ。
だって、仮に僕が今こうしてそのことを考えていることも、もしかしたらその神様が起こした文面をなぞっているだけかもしれない。神様が描く展開が、果たしてハッピーエンドなのかバッドエンドなのかも分からないけれど、それを嘆いて足掻くことも、また仕組まれたものだと思えてしまうから。人生はレールの上を走るだけのものになってしまう。あまりに無意味。あまりに無価値。
「そんな万能な力なんかじゃないわ。ただワタシが『楽しい』と思うように、『設定』をいじることができるだけよ」
「『設定』……?」
「そう、『設定』。どんなモノにも、設定というものがあるわ。例えばユウには、性格、価値観、世界観、倫理観、その他たくさんーーー色んな設定が組み合わさって、『ユウ』という人間が存在する。ありのままの世界の中で、ありのままの自分で存在できるように、『設定』という欠片をいくつも繋ぎ合わせているのよ。
ワタシはその『設定』を変えることができる、そういう力がある……って、猫さんが言っていたわ♪」
それを万能と言わずして、何と言うのだろう。
ともあれ、「設定」……? 僕を僕たらしめている欠片。その集合体が「僕」。小説で例えるならば、登場人物のプロフィールをイメージすれば簡単だろうか。どんな性格で、過去に何があって、どんな能力があるのか、人間関係はどうか、舞台は何処か、その舞台での立ち位置は如何なるものか。挙げ出せばキリが無い。
「前に、百合乃さんは僕に『自分は主人公だと思ったことはあるか』って聞いてきたと思う。百合乃さんの力が本当だとしたら、『主人公』という設定すらも変えられてしまうということ、ですよね。あの質問は、一体どういう意図があったんですか?」
「……ユウなら、聞かなくても分かると思うけど……。
意図なんて、無いわ。単純にワタシーーー『百合乃 氷命』と名乗るワタシが、本当は創作物の主人公で、こんな力があって、楽しいことや面白いことへの好奇心が強くて。だから、ワタシはワタシが思ったことをしたい。それはきっととても素敵なことだと思うから♪
でもユウを見ていたら、それとは違う面白さもあるんじゃないかしらって、思うようになったの」
まただ。またこのこの言葉。
ーーー僕を見ていた
僕が気付かないだけで、普段から僕を陰から見守っていた、そういう意味だと思っていた。
でもここまで話していて、なんとなく、それは違うのだと察していた。
現実離れしすぎている力。現実離れしすぎている日常に溶け込み、現実離れしすぎている価値観を持つ。
まるでーーー作られた存在であるかのようなキャラクター。
僕には予感があって、それはこうして本の世界に入ってしまえているという非日常並みに非日常の予感だった。
「百合乃さんは『自分が物語の主人公である』ということに、嫌気がさしているんですか?」
「……♪」
きっと、そういうことなのだろう。
『百合乃 氷命』という人間は、おそらくこの世に存在しない。いや、現に存在しているけど、たぶん普通の在り方じゃない。
「百合乃さんは、『物語の中の住人』、なんですね」
本の中に入ることができる。
逆に、本の中から出てくることができても、おかしくはない。何故なら、実際に僕はそのどちらも体験してしまっている。
「……アリス」
「え?」
「名は体を表すって、言うでしょ? 学校の皆が、ワタシを『アリス』と渾名付けてくれているわ。ワタシね、それを聞いて、どれくらい驚いたかしら! だって、そのままなんだもの! もしかして、皆はワタシが『その物語』から出てきたって、知っているんじゃないかって、思ってしまったもの!」
氷命は、いつでも楽しそうに語る。それはもしかしたら、作者と言う名の神様に、「そうである」と設定付けられてしまっているからなのかもしれない。そう勘繰ってしまうくらい、氷命は歌うように語る。
「ーーーワタシは『アリス』……。
ーーー不思議の国の『アリス』……。
ユウの大正解♪ ワタシは、本の住人よ♪」
「あの……そろそろ話しても良いですか」
ただただ、理解し難い心境の中、ふんわりと声が掛けられた気がした。浮わついた心持ちだったために、雑踏の一部として脳が処理しようとしていたその少女の声に、僕は無理矢理意識を向けた。
「優さん、聞きたいことが山程あるのですが」
そう尋ねる言葉の主に目をやると、完全に放置してしまっていたとんがり帽子を被った少女が凛として立っていた。
その姿に、心臓がドクンッと一つ、大きく高鳴る。
……挿し絵で見た彼女とは比べ物にならないくらいに、本物の彼女ーーー「勇者伝説」の作中で、勇者の旅に同行する幼馴染みの魔法使いーーーは、美しかったのだ。
可愛いというより、美しい。憂いを帯びたような瞳と不機嫌そうに見える表情だけ見ると、ただ暗い女の子というイメージだが、よく見れば整った顔立ちと、なびかないようにローブの中に纏められた艶のある黒髪が、少女の大人な色気を醸し出していた。
「……どうかしましたか? 顔が赤いようですが。もしかして、魔王に攻撃された影響が?」
表情を変えずに、少女は自然と僕に近づくと、白く細い指をそっと、僕の頬に伸ばしてきた。
「ッ!? だ、大丈夫ッ! 問題無い、ですッ! 問題無さすぎて逆に怖いくらいッ!」
咄嗟に後退りながら、僕は猛烈な勢いで手を振って拒否反応を示してしまった。
勇者にとっては幼馴染みかもしれないけど、僕にとってはほぼ初対面。設定上(不本意ながら)僕が勇者であるとはいえ、幼馴染みである少女からのアプローチを純粋に受け止めることなどできようもない。
「……大丈夫なら、どうして敬語なんですか? いつもはもっとフランクに話しているし、私のこともマリーと呼び捨てで呼んでいるじゃないですか」
知ってる! 幼馴染みでありながらも彼女自身のことに過干渉しない勇者に実は恋心抱いているとか、物語が進んでいくとその恋心で勇者とマリーの関係がギクシャクし出すとか、魔物が起こしたトラブルをきっかけにそのモヤモヤを払拭してイイ感じになるとか、それらを見守り続けてくれていたサンというもう一人の旅の同行者のこととか! 「勇者伝説」なんて何十回と読み返しているから! 暗唱できるくらい物語が頭に叩き込まれているから!
でも、知っているのとそれを忠実に再現できることとはワケが違う。むしろ、知っているからこそ再現なんてできるか。設定上勇者でも、中身は初対面の男だぞ。
「……全く状況が呑み込めませんが。まあ、いつもとは違う、そのように謙虚さのある優さんも……その…………す……す、てき……です……」
「そ、そう、ですか、どうも、あ、ありがとうござい、ます……」
なんだこれ、とにかく全身ジンマシンが出てんのかってくらいむず痒い。凄まじくいたたまれない。爆散したい気分。
「マリーは勇者が、優が好きなのね!」
そんな中、僕が願っていないタイプの爆弾を投下してくださるトラブルメーカーが一人。もはやこのために生まれてきたのではと疑いたくなるほど、間の悪い横槍を入れてくれる。
「好ッ……!? い、いえそんな私、そんなはしたないことを思っているだなんてことは……いえ、大変優さんは素敵な殿方ですし、その証拠に勇者という使命を帯びているにも関わらずそれをひけらかさない姿勢が素晴らしかったり、私のことを他の人たちとは違い受け入れてくれたりとーーー」
「スゴいわ! マリーったらそんなに優の素敵な所を見つけられているなんて! でも優の素敵なところならワタシも沢山知っているわ! いつも世界を見る目がピカピカ輝いていて、それをとても大事にしてるところとか! 妹のユウカや幼馴染みのキキョウのことをいっつも心配しながら見ている優しいところとか! あとーーー」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょッ!! もう止めてくれ、頼むからッ!!」
痒い痒い痒いッ! しかも暑いッ! 体温の上昇幅が異常すぎるッ!
なんで突然褒め殺しされているんだ、これが主人公補正ってやつか? 多分違うぞ。想像していたのと違う。ニヤニヤ笑っていられる余裕なんてない、とにかくこの場から立ち去りたい、消え去りたい。物語の主人公って、よくイチャイチャと異性に獲り合いさせれているけど、これは羨ましくない。代われるものから誰か代わってくれ。
体温がガンガン上がっていくのを感じる。学校で全校生徒の前に立って演説をしたときよりも遥かに緊張している自分がいる。
いても立ってもいられず、僕は全力で、脱線し続ける話を戻すことにした。
「そ、それでッ!! マ、マリー……さんの、聞きたいことって何ですか!?」
「人前では勇者という使命故に凛としているのに、ふとしたときに見せる年相応の弱い姿を見ると胸の奥がーーー」
「いつまでやってるんだッ!!!」
「ーーーはっ! ……………………と、たまにはこういった、何気無いやり取りは、今後の旅をしていく上で、た、大切だと思いまひゅ」
「こんなやり取りを大切にする旅にどれだけの意味が……」
旅、嘗めてんのか。
「百合乃さんも一旦ストップしてください。いつまで立っても話が進まないですから」
「あら、折角これからもっと面白くなっていく予定だったのに」
「ここから更に発展させてくつもりだったの……」
何をするつもりだったかは知らないが、いよいよ僕では御し切れないだろうから、心の底から止めていただきたい。
「百合乃さん、と仰るのですね、彼女は」
頭を抱えていると、至極冷静な声で、マリーは確認の言葉を僕に投げ掛ける。温度差が激しすぎて、一瞬誰のものか分からなかった。
「そう、百合乃、氷命さん。……あれ、ご存じ無い?」
「存じ上げません。おそらく、初対面かと」
これは予想外。僕は「勇者伝説」の立場で言えば勇者の肩書きを授けられているわけだけど、イコールで、本の世界に入れば自動で配役が割り振られるものなのだとばかり思っていた。
氷命がここ、はじまりの町にいるという時点で、氷命は最初の旅をするメンバー、くらいになんとなく思っていたけど。でもよく考えてみれば、旅のメンバーは勇者、魔法使いのマリー、力自慢のサンの3人。僕が勇者で、マリーが目の前にいるのだから、女の子である氷命が男であるサンのポジションに入るとは考えにくい。筋骨隆々の氷命とか……想像するだけでナイトメア。
とにかく、氷命の現在の立ち位置は、おそらく勇者御一行とは別。なのだとしたら……一体なんの役を?
「あは♪ ワタシに役なんて無いわ! さっきも言ったじゃない!」
当然のように、氷命は答えた。
「でもそうね、強いて言うなら、『読者』かしら?」
「それは……確かに役ではないですけど。
え、役が無い? って、何? あれは言葉の綾とかではなく? そもそも、どうやって役の有る無しを判断して……」
「ユウは物語を読んでいる時、ドキドキするわよね! ワクワクするわよね!」
「え? ま、まあ、そうですね。……これ、会話成立してます?」
突然の断言に近い問いを振られ、僕は一瞬言葉を言い淀んでしまった。
「ワタシもご本を読んでいるとき、いっつも楽しくて仕方がないわ! でも、それは『読者』の立場だから感じられるものでしょう? 折角ユウが主役の物語なのだからーーー一緒に演じるのも面白そうだけどーーーワタシはそれを沢山楽しみたいわ♪」
「それで、『登場人物』ではなく『読者』としてってこと?
待って、つまりですけど、百合乃さんが『読者』としての立場を選択しているということは、僕が『勇者』という配役になっているのは……」
「だって、その方が面白そうでしょ?」
アナタの仕業だったのかい。
とんでもない力不足感が否めない。何が作者と言う名の神様だよ。それに近しい立場にいるのは、実は僕の今まさに目の前にいる金髪の少女だというのだから。ここで言えば、神様は氷命そのものだ。ともするなら氷命様、この物語は設定を詰め込みすぎではありませんかね。
心中では愚痴しか湧き上がらないが、口からはもはや何の反論すら出てこない自分がいた。展開が一々激しすぎて、脳が拒絶することすら諦めてしまっているようだ。
「あの……先程から全く会話が成り立っていないのですが。その……百合乃さんは、優さんとはどういった関係なのでしょうか?」
表情に変化は無いものの、どこか呆れているような印象を受ける口調で、マリーは問う。
僕と氷命が、どういった関係……?
「……問題児と保護者、かな」
多分、これが一番合ってる。
「あら、それはどちらがどちら?」
「そこに疑問の余地は無いと思うんですけどね」
「そんなことはないわ! ワタシ、今まで楽しいことを沢山してきたけど、ちゃんと元に戻してきたでしょう?」
「ちゃんと元に戻して……? もしかして、今まで学校でトラブル起こしてきたのに、いつもいつの間にか何事もなかったかのように空いた穴とかペインティングされた壁とかが元に戻ってたのって……」
「だから、『元に戻して』いたわよね? 『何も無かった設定』にして」
「……」
絶句、ただそれだけ。「設定を弄ることのできる力」が氷命にあるとして、それは物語に対してものだと思っていた。しかし、今の氷命の言葉が真実とするならば、その力は物語を変えるなんてちゃちなものじゃない。それこそ、神様の力と言って過言無い。
「あは♪ さっきも言ったけど、そんな万能な力じゃないわ!」
僕と氷命の価値観の違いか。僕の知る「万能」という言葉と、氷命の語る「万能」には、何か根本的な違いがある気がしてならない。
「……分かりました」
呆然とする僕の意識を、マリーの静かな声が呼び覚ます。
「百合乃さんは何か得たいの知れない力を持っていて、それはあまりにも人の身に余るもの、だということですね」
冷静に分析された結論を聞きながら、僕はどこかマリーに貴蕎の姿を重ねてしまった。
冷静さを失えばそれこそポンコツちゃんなのに、いざ落ち着くとどんな人間よりも状況を見通し、最適解を導きだす力がある。
そういえば物語の中で、マリーもそんなポンコツな一面は勇者達の前でしか見せていなかった気がする。貴蕎も僕や悠歌の前では、ネジが外れることが多々あるものの、学内でそういった姿を他人に見せている場面に遭遇したことがない。まあ、貴蕎の場合は何で発覚していないのか分からないくらい、バレバレな気がするが。
「あら、もう少し可愛らしい言い方をしてくれても良いと思わない?」
「言いえて妙だと感心している僕がいます」
「マリーの言い方だと、皆が笑顔になれないと思うわ」
「じゃあ、どんな表現なら良いと思うんです?」
「そうね……不思議なウサギさん、とか!」
「その言葉だけじゃ何にも伝わらないし、アリスなのにウサギだし、そもそも百合乃さんの力を『不思議』の一言で括るのはあまりにもあまりにも過ぎると思うのです」
「ユウ……スゴいわ! よくそんなに言葉が出てくるものね!」
「引き出させている主犯に褒められても全然嬉しくないですけどね!」
僕も段々、氷命をまともに相手をするのもバカらしくなってきていた。
くだらないやり取りに溜め息を一つ溢し、マリーは被るとんがり帽を目深に引き下げた。
「とにかく、百合乃さんの力は察するに強大です。魔王を討伐するには不可欠であると判断します。優さんのお知り合いとならば、ある程度背中を任せても大丈夫だろうと思いますし、どうでしょう。これからの旅に同行してもらうというのは?」
「勿論、ワタシは行くに決まっているわ! その方が面白そうだものッ!」
「まあ、そうしない選択肢は無いでしょうね」
マリーの申し出に肯定の意を示す。
しかし訂正したい。魔王討伐には不可欠であるのは間違いないけれど、決して背中は任せてはいけない。隙を見せれば……と言うか、目を離せばどんなトラブルを招き寄せるとも想像できない。保護者として、背中は任せるのではなく、氷命の背中を監視する立場に徹するべき。
「……それでは、サン君が町の出入り口で待機しています。そもそも、私はなかなか来ない優さんを迎えに来ただけなので」
「あ、そうなんだ。お手数お掛けしました」
「いえ。興味深い収穫もありましたから」
くるりと翻し、マリーはおそらく町の出入り口があるであろう方向に歩き出した。
本の中とは言え、流れる時間は同じなのだろう。例え僕が何もせずいても、きっと物語は進んでしまう。それは僕が……言い換えるなら勇者が、物語の進行中に立てるはずの功績を取り零してしまうことと同義。そうなれば、確実にバッドエンドへと物語は流れていくだろう。
僕が勇者として、戦わなくてはならない。魔王を倒さなければならない。
言葉にすれば簡単で、実行するにはあまりにも途方の無い所業だ。
考え、僕は小さく身震いした。
これから、命を賭けて旅をしなくてはいけないのだ。やったことのないデッド・オア・アライブを繰り広げていかなくてはならないのだ。ただの一高校生である僕が、世界の為に奮闘しなくてはならない。
全ては、悠歌と響姫ちゃんを助けるために。
もう意味が解らない。分かるけど、解らない。解りたくない。
幽霊に憑り付かれたかのように、身体が重い。実際憑依しているのは氷命という名の疫病神なわけだが。
僕の隣を歩くその疫病神様は、好奇心が抑えられないとばかりにルンルンと鼻唄混じりにスキップしている。
もう吐き出したい溜め息すら溢れない。
満開の笑顔を振り撒く氷命とは対称に僕の表情は、まさに物語のクライマックス。絶望へと向かわんとする主人公のようだった。
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