Chapter : 6 まるで、そこに明日があるように
2020年がどんな年であれ、ぼくには関係ない。
2019年12月31日が来た。ぼくがぼくでいられる最後の日。家にはおそらく、3958通目の手紙が届いているはずだ。
あたりがどこなのかよく分からない。家かもしれないし病院かもしれない。触覚も少しずつ薄れて、視覚や聴覚までも弱ってきた。ぼくの意識の深い場所に、わずかに、40年ぶんの記憶と、はかない意識が残っているだけだ。
目に見えるものが薄弱化していくにつれて、ぼくは急に死ぬことが怖くなった。
暗にとざされたゆりかごが、時間をかけながら地球の中心へのみこまれていくような夢をよく見る。夢から醒めても、そこが現実なのかどうか、決してわからない。
誰かが何かを唱えている。
声色は母親のものに近い。しかしなにを喋っているのかは、まったく聞き取れない。が、よくよくそのくぐもった声を聴いてみると、なにか一定の抑揚をもっていることに気付く。30秒ぐらいの間隔で、同じフレーズを唱えているように聞こえる。
1週間前から、同じような現象が毎日続いている。日によって唱えられるフレーズは異なる。一昨日は15秒ぐらいだったし、昨日は3分ぐらいの長いフレーズだった。
ずっと前にも、同じような体験をしたことがあるような気がする。その時のことはまったく思い出せないけれど。
ぼくの過去には、たしかに過去らしいものがあった。
思えば、長い旅路だった。
20歳の誕生日から逆行がはじまるなんて、思いもしなかった。それまで歩いた人生を引き返すように、退行していった。
けれどその途中で、かけがえのない体験をした。ぼくと同じ運命を持った人物に出会い、しかしすぐに離れ離れになってしまった。あの人物は、いま、ぼくと同じ、白い闇に鎖された世界のどこかにいるのだろうか。
いる。絶対に、どこかにいる。けれどもう、その人物を見ることもできない。
ぼくに残されたのはただ、どうしようもない、僅かな感覚だけだ。
ひとつだけ、思い出したいことがある。けれど思い出せない。
ぼくの網膜に焼き付いている、「瀬切マユ」という人名。その人は、誰なのだろう? ぼくの人生で何をしたのだろう?
でもきっと、辛いときにあってぼくを支えてくれた人、だろう。
30秒のフレーズが、はたと止んだ。いよいよ、旅立つ時が来るのだ。
曖昧な白に包まれた世界が、純然な透明を獲た。そして、なにも聞こえなくなった。
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